1.『福音と律法』

カール・バルト『啓示・教会・神学/福音と律法』井上良雄訳、新教出版の「福音と律法」に基づく

 先ず以てイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法は、純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式である。したがって、バルトは、「律法と福音」という順序で語るルターとは違って、「福音と律法」という順序で語るのである。まさに、ルターは、律法と福音を二元論的に対立させて「律法と福音」という順序で語っているのである――ルターは、『キリスト者の自由』で、律法と福音とを対立させ、まずは「罪人を怖れさせ、その罪を暴露して、痛悔し且つ回心させるためには、誡めを説教すべきである」・しかし、それだけではいけないので、その次に「他の言、すなわち恩恵の呼びかけを説教して、信仰を教えるべき」である・「かようなときにはじめて他の言、すなわち神からの約束の告知が現われて、そして語る」、「さらばキリストを信じなさい」、「あなたが信じるならこれを得られるし、信じないなら得られない」、と。このようなルターの思惟と語りに対して、バルトは、『福音主義神学入門』で、次のように思惟し語っている――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪われわれ人間に備わっている生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪感情力、意志力、知力、禅的な自然を内面の原理とした身体的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」、と。


 さて、『福音と律法』は、徹頭徹尾神の側の真実としてある、その死と復活の出来事における主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、イエス・キリストにおける成就・完了された私自身を含めた個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのものを内容としている(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである――バルト「平和に関するバルトの書簡」寺園喜基訳)――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」(≪ギリシャ語原典ピスティス・イエスー・クリストゥーの属格≫)は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである」(ここで肝要なことは、神の側の真実としてある、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済そのもの、それ故にまた平和そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」である)――このことが「福音と律法の真理性」における福音の内容である、また「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある≫)神の子が信じ給うこと(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――このイエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済、平和そのもの≫)に由って生きるのだということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(われわれの「召命」、「和解」、「義認」、「聖化」、「救済」、そして「更新」を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある『復活の力』のみ」である)――このことが、「福音と律法の現実性」における勝利の福音の内容である。


 このように述べるバルトの立場は、明確である。
(1)「私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない対象物、「存在者レベルでの神への信仰」としての≫)『宗教』が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……(≪客観的可視的に存在する起源的な第一の形態の≫)神の言葉こそ(≪「啓示の実在」そのものであるイエス・キリストこそ、それ故に預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書、第二の形態の神の言葉である啓示の「概念の実在」こそ≫)私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、(≪「わがまま勝手に」先行的に人間の側からする≫)神との関係における人間の秘義……ではなくて、……それこそ(≪先行する神の側の真実としてのある≫)人間との関係における神の秘義である神の言葉(≪三位一体の唯一の啓示の類比としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造におけるそれこそ≫)が常に私の思惟の対象なのである(『バルト自伝』)。
(2)「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、業、働き、行為、行動、活動)、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、和解、起源的な第一の形態の神の言葉――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派に仕えなければならないことはない……」、ある一つの、学派・教派・思想的傾向・文明的文化的傾向・主義・他者に対して「賛成」か「反対」かという他律的な二者択一の倫理(善悪の判断)を強いる「啓蒙の恐喝」としての倫理化されたイデオロギー(M・フーコー『思考集成Ⅹ』「啓蒙とは何か」)・社会的政治的な言説や運動(これらに対して、われわれは、常に、対象的になって距離をとるという仕方で思惟し語り行動しなければならない)に仕えなければならないことはない、われわれは、あの「一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」(『教会教義学 神の言葉』)。


 バルト神学の核である主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ローマ3・22、ガラテヤ2・16等)
 このことについては、すでに再推敲し再整理した<ローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(ピスティス・イエスー・クリストゥー)の属格の理解の仕方――バルト自身の立場について>を参照されたし。いずれにしても、先行する神の側の真実としてある、この主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)は、目的格的属格(イエス・キリストを信じる信仰)として理解された旧来訳聖書や新共同訳聖書を根拠とした近代神学における、自由主義的神学・近代主義的神学における、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における先行的な人間の側からする神と人間との混淆論、先行的な人間の側からする神との「共働」論、「神人協力説」、人間学と神学との混合学に対する根本的包括的な原理的な批判を構成することができる根拠となるものである。すなわち、それは、総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を根本的包括的に原理的に止揚し克服できる根拠となるものである。


 「福音と律法の真理性」における福音の内容とは何か?

 イエス・キリストにおける啓示の真理によれば、われわれ人間は、自主性・自己主張・自己義認の欲求、換言すれば無神性・不信仰・真実の罪のただ中に存在しており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。このようなわれわれ人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避するわれわれ人間が生きるためにのみ、その死を欲し給うのである。しかし、われわれ人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の側の真実としてある全き自由の神の存在としての神の全き自由の愛の行為の出来事そのものである、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわちまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、われわれ人間のためにわれわれ人間に代わって、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了、換言すれば「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである)という点にある。神の側の真実としてあるこのインマヌエルの出来事は、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さずとも、神であることを廃めず」に、「何ら価値や力や資格もない罪によって暗くなり・破れた姿」のわれわれ「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬように、しかも(≪われわれ人間の側から≫)混淆(≪混合、共働、協力、協働≫)されぬように、統一し給うた」ということを内容としている。


 「福音と律法の真理性」における福音の形式としての律法とは何か?
 「福音と律法の真理性」における福音を内容とする福音の形式としての律法は、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、換言すれば成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものとしてのイエス・キリストをのみ感謝をもって信ぜよという神の「要求と強請」であり、「恩寵への召喚」のことである。このことは、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、詳しく言えばそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)、それ故に具体的には第二の形態の神の言葉である預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書(啓示の「概念の実在」)における客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、はじめて認識し信仰し定義することができることである。すなわち、「恩寵」が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、「イエス・キリストにのみ固着せよ」、というキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法が建てられる、というようにである。何故ならば、この福音を内容とする福音の形式としての律法がなければ、われわれ人間は、現実的に、純粋なキリストの福音を所有することができないからである、われわれ人間は、現実的に、われわれ人間が人間的に所有するわれわれ人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、徹頭徹尾神とは全く異なる人間は人間でしかないし・常に人間であり続けるのであるから、神の側の真実としてある、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわちまことの神にしてまことの人間イエス・キリストを模倣することでは決してないし、イエス・キリストが信じたように信ずるということでも決してないのである。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実から考えられなければならないから」、素直な「感謝の応答」、「告白」、「証し」、「宣べ伝え」にあるのである。したがって、それは、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」による「神の義」そのものである「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」にのみ感謝をもって信頼し固着すること、それからその告白と証しと宣べ伝えにあるのである。言い換えれば、それは、第一に、「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということであり、第二には、「われわれの生命がキリストと共に保管されていることを承認し受け入れる」ということである――それは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、<教会>が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である。そして、この誡命をわれわれ人間に対して置くことによって、神の側の真実としてあるイエス・キリストの出来事は、この「福音と律法の真理性」の「現実化」を目指しているのである。すなわち、神の側の真実としてあるイエス・キリストの死と復活の出来事における成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)を目指しているのである。このために、先ず、福音を内容とする福音の形式としての律法が、「真実の罪人の手に、にもかかわらず与えられたら、どのような状態になるのか」を、「啓示と信仰の出来事」に基づいて論じられなければならない。ここにおいては、バルトは、ルターと同様に、律法→福音という順序で語るのである。


 神が「福音と律法の真理性」における賜物を、すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法を、罪人の人間の手に「にもかかわらず」与える――この「にもかかわらず」の「消極的な意味」とは何か
「真実の罪」とは、人間の「自主性」・「恩寵に対するわれわれの拒否と神に対するわれわれの『自己主張』」のことであり、人間にある「無神性」のことである。神は「福音と律法の真理性」における賜物を、すなわち福音を内容とする福音の形式としての律法を、こうした罪人である人間の手に「にもかかわらず」与える「消極的な意味」とは何か? 主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」――すなわち「イエス・キリストが信ずる信仰」(「律法の成就」・完了そのもの)による「神の義、神の子の義、神自身の義」(『ローマ書新解』)にのみ信頼し固執し固着せよ、という福音の形式である律法(神の「誡め・要求・要請」、神の「命令」)に対して、われわれ人間は、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求を手放すことができないのである。したがって、われわれ人間は、福音を内容とする福音の形式としての律法を聞く時、「律法を悪用する」「罪の法則」によって、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、すなわち「存在者レベルでの神」にしか過ぎないその「神の名において、神の呼びかけのもとに」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』国谷純一郎訳)、「善きものを反対物に変える」という「人間的な巨大な欺瞞」を惹き起すのである。このようになる根拠は、われわれ人間が、義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の終わりとなられた方」であることを聞かず承認せず、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間の側からする神との「混淆」論、神との「共働」論、「神人協力説」を求め続けるところにある。この場合、人間は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げるのである。 

2.『福音と律法』

 このような神に対する「熱心さの無知」は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的に曲解された「わがまま勝手な」「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告に過ぎないものへと変える」のである。この時、人間のその存在・その思惟・その実践は、「罪」に「勝利を収め」させる熱心さ・「不従順」・「虚偽」となるのである。何故ならば、その「無数の儀文」は、「偶像崇拝」・「神冒涜」を生じさせるからである。ある者は「盲目的に仕事へと没頭」し、ある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」。また、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことに、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」。そしてまた、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の(≪生来的な自然的な≫)善意によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである」。何故ならば、「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっているから」である。権力は実体ではなく「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」であり、それは、「ある価値基準ある時ある場所において、聖なる者と俗なる者、教えるものと教えられるもの、正常なものと異常なもの、支配されるものと支配するもの等へと関係を規定する政治的合理性の形態」であり、またそれは、「権力的、強制的、弾圧的にではなく」、「司牧システム」が生み出す無意識の共同性によって、その「『牧人的』と呼ぶことのできる権力」の権力的在り方に服属させられる関係性のことであるからである(『ミシェル・フーコー「全体的なものと個的なもの――政治的理性批判に向けて」』北山誠一訳)。前述したような人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、すなわち「存在者レベルでの」「神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画(≪平和の計画≫)と救いの方法(≪平和の方法≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。

 「まことに空の空なるかな、である。これらすべてのこと(≪これらすべての救いと平和の計画と方法≫)が、一体何だろうか」。このバルトの言葉は、倫理の言葉ではない。神学における思想の言葉、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の救済(平和)についての緊急的相対的部分的な往相的な課題に対する包括的総体的永遠的な究極的課題を述べた言葉なのである。したがって、この言葉を倫理的反発において捉えた場合、その人は、バルトを根本的包括的に原理的に理解していないことの証左となるのである。言い換えれば、「この世にあって、そこなわれた弱い、困窮するすべての人々への黙々たる奉仕」は、先ず以て還相的課題に、換言すれば神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)に対する感謝の応答としてのその告白・証し・宣べ伝えにあるのである(マタイ26・6-13、マルコ14・3-9)。このことに包括されるという仕方で往相的課題がやってくるのである。この逆ではない。したがって、われわれ人間からする神との「混淆」論、神との「共働」論、「神人協力説」における「奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎな」いものなのである。

 いずれにしても、現在に至るまでわれわれ人間は、その類は、諸個人や全世界や全人類、男女・夫婦・家族、社会や政治に関わる諸問題の解決のために様々な方法と計画をもって様々な人間的試みを行ってきたのであるが、常に、終末論的限界の前に立たされてそれらの様々な人間的試みは、今まで成功したためしはないし、今も成功していないし、今後も決して成功することはないであろうと考える。吉本隆明は、正当性と妥当性のある言葉で、例えば、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的成果における様々な後発する技術的問題は、科学や技術の進歩発達、その知識の増大に基づいて、後追い的に技術的に解決していく以外にはないと述べている。しかし、この後追いは、決して終息することなく、人類史の終焉を迎える人類史の最後まで続いていくに違いない。バルトは、そのことに自覚的なのである。また、「奉仕」の質についても、例えば自分を愛するように隣人を愛するというキリスト教的な愛の奉仕の在り方(自己愛の外化という在り方)に限って言って、その在り方と、人類史(世界史)のアフリカ的段階においては世界的普遍性として成立していた自然に対する最大限の利益の享受と感謝の念が浸透し・人と樹木や動物との情念の交流ができ・山川草木に霊が宿ると考える内在的な精神(吉本『アフリカ的段階について 史観の拡張』)を温存させていたアボリジニ等も含めてイザベラ・バードの『日本奥地紀行』におけるアイヌの在り方や野村達郎の『民族で読むアメリカ』における北米インディアンの在り方との決定的で根本的な差異性をどこに設定できるのだろうか? バードは、アイヌ人について、次のように報告している――(ア)「彼らが使っている煙草入れや煙管入れを2ドル半で買いたい」と言うと、「それらは1ドル10セントの値打ちしかないから、その値段で売りたい」と言った。「儲けることはアイヌ人のならわしではなかった」、(イ)「ある一軒の家が焼け落ちた」場合には、「村の男たちが総出でその家を建て直すことをならわしとしていた」、(ウ)「明治期の日本人たちを見て感じるのは堕落しているという印象である」。「わが西洋の大都会に何千という堕落した大衆がいる――彼らはキリスト教徒として生れ、洗礼を受け、クリスチャン・ネーム名をもらい、最後には聖なる墓地に葬られるが、アイヌ人の方がずっと高度で、ずっとりっぱな生活を送っている」、(エ)彼らは「雨宿りを頼むと、どんな貧乏な家でも、一番よい席を提供してくれる」、(オ)彼らには「互いに殺し合う激しい争乱の伝統がない」。すなわち、一部支配上層の意思によって動員できる軍事部門を立ち上げようとする国家形成の意志をもたない、(カ)彼らは「善悪・道徳の観念、高度な宗教をもたないが、誠実、高貴、立派な生活を送っている」、(キ)総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」。こうしたアイヌにおける内在の精神は、黒人アフリカ等にも存在するし、白人進出以前の二万年前から先住する、征服併合された被支配民である北米インディアンにも残されていた。野村達郎は、北米先住民のインディアンについて次のように報告している――(ア)「収穫物の平等な分配」がされていた、(イ)「長老たちによる合議制による社会」で、国家形成を目指さず、部族共同体あるいは部族連合にとどまる「平和な種族」であった、(ウ)独立革命以前のイングランド系移民である「コロニスト」(植民者)や「セトラー」(定住者)は、インディアンや同国人の死体を食すくらいに飢餓や疫病の流行等の困難を極めた植民であったが、インディアンはそうした彼らに対して「平和的で親切」であった。しかし、黒人に対する支配の在り方もそうであったが、初期入植者の子孫である白人主義・アングロサクソン・プロテスタント(正当なアメリカ人としてのWASP)による北米インディアンに対する侵略・支配の在り方は酷いものであった。いったい、どちらが聖書的啓示証言におけるキリスト教的な愛の奉仕の在り方と言えるだろうか。「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方の自称自由社会(≪近代社会≫)や自由国家(≪近代国家≫)にもほかの形で出没したことはなかったであろうか」(『バルト自伝』)。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、(≪どのような文明にも、どのような人種、民族、国民にも≫)無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)。私は、このようなバルトの思惟と語りと行動を首肯する。

 前述したようなキリスト教的人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)に基づく「律法の悪用」という事態の中で、神の律法、すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法と共に、神の福音の内容も「破壊」されるのである。すなわち、この時、イエス・キリストは、「一種神話的な半身(付属物)」、「理念の人格化」、「偉大な貸方」となる。したがって、このような偽りの姿における律法は、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのものであり、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストを「律法の目標としない」のであるから、その「律法の目標」は、人間的な「自然法」や抽象的「理性」や「民族法」等々という形に転倒されてしまうのである。この場合、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」――これは福音の内容である共に、それが人間の手に渡される時に律法という形式を取るのであるが、そのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法をも守らないのであるから、福音の内容であるイエス・キリストが信ずる信仰による神の義もあり得ないことになるのである。ここに、人間の「真実の罪」とその「人間の状態」がある。したがって、この場合の人間の状態は、徹頭徹尾「喪われた者」であり、「死と地獄に渡された者」であり、「何の助言も、何の慰めも、何の助けも存在しない」ということのみを知らされるという点にある。この事態の認識は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通してやってくるのである。このことが、「にもかかわらず」から生ずる「消極的な意味」である。


 神は、「福音と律法の真理性」の賜物を、すなわちキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法を、罪人の人間の手に「にもかかわらず」与える――この「にもかかわらず」の「積極的な意味」とは何か?
 神が、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法を、「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与える「積極的な意味」は、「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めた」がゆえに、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」という点にある。それは、「罪が死によって支配するに至ったように、恵もまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」という点にある。すなわち、その「積極的な意味」は、神の側の真実としてある、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわちまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの死と復活の出来事において成就・完了された究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)にある。このことは、キリストにあっての神は、神の側の真実において、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法に対する人間の側からする人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求の試みを無神性・不信仰・真実の罪として定め否定したのであるが、さらにその否定(死)を否定(復活)することによって、その真実の罪をも包括し止揚し克服したということ、福音が勝利したということ(「勝利の福音」)を意味している。ここに神の側の真実としてある福音は、「初めて本当に」、「完全に福音本来の姿」として、「完全な勝利の福音」として、「真実の罪人に対する喜びの音信」として、「成就と執行」、「永遠的実在」として、<客観的に現実化>したのである。したがって、「われわれ人間の更新を可能とするのは、今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」のみなのである。われわれ個体的自己としての全人間・全世界・全人類の真実の罪のために、「イエス・キリストは人と成り、死んで甦り給うた」のである。したがって、「福音の勝利、恩寵の勝利」とは、われわれ人間の「真実の罪に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」なのである。このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれ人間に対して、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して、「赦罪」や「和解」や「救済」や「平和」について、「われわれ人間から生ずる現実は何もない」ということを自己認識させ自己理解させ自己規定させるのである。

 この「真実の罪に対する神の勝利」とは、「福音と律法の現実性」における本来的な勝利の福音の内容のことであって、神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリスト自身に対する真実の罪の故に、「地獄に追いやられたままの存在」を、「律法によって殺しつつ、しかも福音によって生かし給う勝利の福音」のことである。したがって、ここにおいてのみ、「律法と福音」という順序は正当なものとなる。したがってまた、イエス・キリスト自身が「心においても業においても、罪人である」われわれ人間に対して、それにもかかわらず、「彼に対する信仰の生命へと、呼び覚まし給う」のはイエス・キリスト自身であるということを、われわれ人間は「強調しなければならない」のである、ちょうど先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないように、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならないように。何故ならば、われわれ人間は、「そのために必要なものを、自分の内には所有しないということが、確実である」からである。「律法― 福音、罪― 義という順序が、死― 生命という順序と一致しているということ」は、ただ客観的な「啓示の出来事」としてであって、これは、内在的にも歴史的にも、高次の段階へと弁証法的に発展して、最終的には自己還帰する――ヘーゲルにおいて疎外とは、高次の段階への疎外の止揚である――絶対精神とは全く異なるものである。すなわち、そのことは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して、「イエス・キリストがわれわれに対してなし給うたことの約束として、信じられることが出来る」だけである。したがって、われわれは、その「信仰を授与されているという事実性」において、「事実的に信ずる」ことができるだけである。この「勝利の福音」(客観的な啓示の出来事)は、神のその都度の自由な恵みの決断において授与される客観的な啓示の主観的側面としてある「聖霊の注ぎ」により「すべて信ずる者に救いを得させる神の力」である。

 また、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、まさに「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリスト自身が、われわれを「罪と死との法則」である律法から解放された出来事のことである。何故ならば、われわれ人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」が故に、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、「神の律法が人間を真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではないのである。したがって、「ルターに強烈に存在したところの、人間が律法に対して全体的に不従順であるという事実における人間に生ずる生の不安」は、イエス・キリストにおけるその死と復活の出来事において「克服された……慰められた……癒された不安、望みと喜びの確かな岸によって取りかこまれた不安にすぎない」のである。このことは終末論的限界と啓示の弁証法において語られており、それは、「生の不安」がなくなるということではなくて、イエス・キリストにおいて包括され止揚され「克服された」・「慰められた」・「癒された」・「望みと喜びの確かさに取り囲まれた不安」ということである。神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)において、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、人間に対して、(ア)「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられる、(イ)「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられる。したがって、われわれ個体的自己としての全人間・全世界・全人類は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得るだけである」。

 また、「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリスト自身が、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、われわれ人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ固着させる霊である。「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊、「律法の成就」・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストに対する愛の霊のことである。「慎みの霊」とは、人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。このことは、その処女作から一貫性をもって教会の宣教にとって最善最良の神学をレンガを積み上げるように構成されてきたバルトの『ローマ書』「第2版序言」、『教会教義学 神の言葉』、『教会教義学 神論』等における思惟と語りに即して言えば、次のように言うことができる――先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」。また、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である証の力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与えることができる授与能力を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を持っている、それ故にこの先行する神に対して、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教(その成員)、その一つの機能としての神学(その成員)は、後続して、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)、それ故に具体的には第二形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリスト福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求――すなわち、すべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していく決断と態度が大切であり重要なのである。


 この『福音と律法』を翻訳した井上良雄は、「あとがき」で、この書は、「決して平易とは言い得ない。しかし、この難解さは、ここに論じられている事柄そのものの重さとこれを論じるバルトの洞察の深さから来ている。この難解さに堪えて読まれる人には、それに報いて余りある喜びが分かたれるにちがいない」と述べている。ここに述べられている、その「事柄そのものの重さ」とは教会の宣教における事柄そのもの重さのことであり、その「洞察の深さ」とは教会の一つの機能としての神学的洞察の深さのことであると言うことができる。そして、この書は、その両者が質的・内容的に最高度に達した認識をもって簡潔的に論述展開が為されていると言うことができる。それだけでなく、この書は、バルトの最晩年までの思惟と語りおよび主要著作との連続性を持っている。またそれだけでなく、この書は、キリスト教に固有な類の時間累積に連帯することができる水準を獲得している。したがって、読み手の側は、この書を何とか理解したい・理解しようとして読む時、この書を読みながら、<神学>を学んでいるということを感受させられるだけでなく、それと同時に、神の側の真実としてあるイエス・キリストによる救いに満ちた<説教>を聞いているということをも感受させられるのである。このような訳で、この書は、まさに、バルトにおける成熟の書であると言うことができる。

3、『神の恵みの選び』

『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」蓮見和男訳、新教出版に基づく

 『福音と律法』との関係において、根本的で重要な事柄は次の点にある――「予定説」は、神の側の真実としてある、「イエス・キリストにある救いの自由な表現そのもの」である。言い換えれば、それは、「真に罪なき、従順なお方」イエス・キリスト自らが、われわれ人間に代わって、「見捨てられた人間となり、その罰を引き受け給うたということ」、すなわち神の恵みに対してイエス・キリスト自らが、われわれ人間のために、われわれ人間に代わって、その死と復活の出来事において、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」を構築するために、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)という仕方で端的に信じ給うたということである。これが「神の最高の義」である。このことは、イエス・キリストを信ずるということ、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着するということに関して、第一次的な契機はわれわれ人間には全く何もないということを意味している。その信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられるということを意味している。そして、その客観的啓示と客観的な啓示の主観的側面である聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、われわれに対して、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」ということを自己認識させ自己理解させ自己規定させるのである。言い換えれば、われわれは、そのような啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識(信仰)し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識(信仰)することができるのである。この時同時に、その啓示認識・啓示信仰を通して、すなわち「われわれが本当に神の啓示を認識する時、「われわれは初めて」、「神に対する人間的反抗」、「神の敵」、「神に相対して、自分の力を誇り、まさにそのことの中でこそ罪深い堕落した人間としての自分自身」を、換言すれば先行させたあるいは並行させたわれわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(すなわち、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中に生きる人間としての自分自身を、またそのようなわれわれ人間の「世」を「認識する」ことができるのである。

 さて、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」である(この「啓示の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストに、直接的に唯一回的特別に召され任命され・その人間性と共に神性を賦与され装備されたのが第二の形態の神の言葉に属する預言者および使徒たちであり、そしてこの預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」が、第二の形態の神の言葉、すなわち啓示の「概念の実在」としての聖書である)。人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また自分でそのような状態にすることもできない。したがって、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵み」なのである。言い換えれば、人間的主観に実現された神の恵みの出来事――すなわち信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の主観的側面である「聖霊の注ぎ」によるのである。このように、「私たちの召命・義認・聖化」は、生来的な自然的な人間的契機の直接性において「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾全面的に、「イエス・キリストの御業」として、「私たちのため」に、「私たち自身の中に生起」するのである。そして、このように恵みの選びを認識(信仰)する時、われわれに要求する洞察は「イエス・キリストを信ずる信仰の二重の洞察」、すなわちパウロの「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」という二重の洞察は、神の側の真実としてあるキリストの福音の内容そのものである主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものと、われわれ人間に対する神の要求(福音を内容とする福音の形式としての律法)である「イエス・キリスト<strong>を</strong>信ずる信仰において明らかになる」、換言すれば神との「混淆」、「協働」、「共働」あるいは「神人協力」ということでは決してなくて、「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリストを信じる信仰において明らかになる。何故ならば、啓示の出来事と信仰の出来事に基づく啓示認識・啓示信仰において、われわれがそのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法にのみ生きようとしなければ、われわれは、その信仰に全く生きていないし・全く生きようとしていないし・全く生き得ていないということを、また常に神から遠ざかり・遠ざかり続けているということを、罪を新たな罪を犯し続けているということを、自主性・自己主張・自己義認の欲求(無神性・不信仰・真実の罪)のただ中にある「真実の罪人」であるということを自己認識し自己理解し自己規定することはできないからである――(人間論的な自然的人間だけでなく、現存する教会論的なキリスト教的人間であるわれわれも、われわれの信仰事情が次のようであることを正直に告白しなければならないであろう)「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、意志力、禅的な自然を内面の原理とする身体的修行等々≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。

 パウロの語る「すべての人」においては、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除」されている。したがって、この言葉は、イエス・キリストにあるときにおける「威嚇」である。しかし、一方で、「それよりもはるかに確実に」、われわれは、イエス・キリストにおいて与えられた「約束」によって、この「威嚇から解放」されている。すなわち、神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにおいては、この威嚇は、止揚された威嚇、克服された威嚇である。何故ならば、そこにおいては、「すべての人」を救うために、「罪なきただ一人の選ばれたイエス・キリスト」が、「この怒りを正しい怒りとして引き受けて下さったが故」に、われわれは「イエス・キリストにあって死なないで、生きるであろう」という神の側の真実としてある約束が与えられているからである。神の側の真実としてある、神は「すべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込め」たについては、全き自由の神の全き自由の恵みの選びにおいてということであるから、「罪の増し加わったところには、恵もますます満ちあふれた」ということができる。この時、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において新たな認識を得ることができる。すなわち、それは、「律法の成就」・完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものであるイエス・キリスト自身に対する人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(これは、無神性・不信仰・「真実の罪」である)は、神の側の真実としてある客観的なイエス・キリスト自身のその死と復活の出来事によって止揚され克服されたそれであるということである。また、それは、その客観的な啓示の出来事の主観的側面としてその主観的現実化のために、イエス・キリストは、われわれに対して、イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着する霊(聖霊)を授与されるということである。したがって、われわれが、信仰の出来事において「イエス・キリストを信ずる」と告白する時、「イエスは主なり」と告白する時、それは、「聖霊の注ぎ」・「聖霊との交わり」におけるそれであり、「人間的主観に実現された神の恵みの出来事」、「賜物」なのである。したがってまた、バルトは次のように語るのである――マルコ福音書の「信じます。不信仰な私を、お助け下さい」・「信じます。信仰のないわたしをお助け下さい」、「私たちが神に向かって語る。『ああ……!』というこの小さな嘆息」、それは、「すべての祈りの源」である、「そこにはただ、神の子の全く素直な赦しがあるだけである。あなたが祈れない時、この赦しを用いるのが、あなたのなすべきことである」。

 このような訳で、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」を為すことはできない。すなわち、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、
(1)「私がその人をその中に置くことによってではなく」、
(2)神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、「律法の成就」完了そのもの、「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものである、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「神であり給う言葉が人間となったのであって、決して神性それ自体が人間となったのではない」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストが、すでにその人をその中に置いてい給うことによってである」。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」。また、バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1』「和解論の対象と問題」で、次のように述べている――神の人間化あるいは人間の神化の原理を発見した「ヘーゲルの強力な痕跡」(『ヘーゲル』)を持つシュライエルマッハーのそれを含めた一切の近代神学、近代主義的神学、自由主義的神学、総括的に言えば神と人間との混淆論、協働論、共働論、「神人協力説」、人間学と神学との混合神学を志向し目指す一切の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教と抗するために、まず「神の霊と人間の精神の全面的な区別が強調されなければならない」。そして、われわれは、「啓示の主体的現実」化を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為(≪「聖霊の注ぎ」≫)としてとらえることによって」、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち愛に基づく父と子の交わりである「聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」。その上で、われわれは、「(聖霊と密接に関連して)記されている」、「真理の柱、真理の基礎」とは、第三の形態の神の言葉に属する「神の教団」、「表向き」だけではない・それ故に実質的に内在的にも外在的にもイエス・キリストをのみ主・頭とする「イエス・キリストの教団」、第二の形態の神の言葉である「使徒ヨリノ唯一ノ聖ナル公同教会」のことであって、その「イエス・キリストと個人的関係を持つ」その「肢々」としての「一人一人のキリスト者」、「キリスト者個人」のことではない、と言わなければならない。共同性に価値を置くヘーゲルは、「神自身にとって最高に必要であり必然的であるのは教団」であって、「教団の精神であることによって初めて神は精神となり神となることができる」と述べていることに対して、バルトは、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」と述べている。このことは、バルトが、個と教団との関係において、神学的な共同性価値論に立っていることを意味している。この場合、『カール・バルトの生涯』においてバルトは、「私自身は、ヘーゲルが好きだという弱みを持っていますし、そしていつでもヘーゲル的に考えるのが好きです」と述べていたとされるバルトにとっては、それ故にこのバルトを厳密な正確性と妥当性を持って理解するためには、神学における思想家としてバルトは、前述したヘーゲルの哲学を、近代主義を、近代神学、近代主義的神学、自由主義的神学を、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を、ヘーゲル哲学を<否定的>に媒介することによって、換言すれば自らの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教におけるその神学の方法論、その原理、その神学の認識方法および概念構成によって、根本的包括的に・原理的に、紙一重で超えなければならなかったし、紙一重で超えたのである――例えば、歴史認識の方法に関しても、バルトは、西欧近代を頂点とするヘーゲルの進歩史観に対して、人類史・世界史における「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになるために」、われわれは、西欧近代を頂点とする歴史の直線的な進歩・発展という「ヘーゲルの思想を、直ちに全面的に放棄しなければならない」と述べている(『ヘーゲル』)。このような点に、バルトの神学における思想としての神学的な共同性価値論があるのである――「神はご自身との共同性の中に生きてい給う。そして神は人間との共同性の中に生きてい給う。そして人間は他人との共同性の中で生きている。共同性ということが、人間が神(≪三位一体の神≫)に似ていることの根拠だ。……教会なきところではイエスはキリストであり給わない。教会は永遠よりえらばれたものだ。そして、キリストは、その頭としてありつづけ給う。……個々人と共同体の対立は近代的な対立であって、新約聖書のものではない。……新約聖書の『体』の概念はこの対立を超えたものだ」(『バルトとの対話』)。このバルトにとってイエス・キリストにおいては、個と共同性は近代的に逆立し対立するのではなく、正立し平和なのである。したがって、バルトの神学における思想としての神学的な共同性価値論は、ヘーゲルのような客観的精神の弁証法的展開の果てに想定される哲学的な国家共同性価値論とは全く異なっているのである、現実的な個や家族や社会から逆立的に疎外された観念の共同性を本質とする国家共同性価値論とは全く異なっているのである。したがってまた、表面上、ヘーゲルのように共同性価値の概念構成を為しているから、ヘーゲルと同じような近代主義者だとか、近代主義的神学者、自由主義的神学者だとかと主張したならば、その者は、木を見て森を見ない――否、一本の木だけを見て総体としての森を見ない誤解と曲解と誤謬に満ち満ちた者であり、レンガを積み上げるようにして教会の宣教にとって最善最良の神学を構成したバルトを誤解させ、そのバルトに迷惑をかけるだけの者であるだろう。このバルトにおいては、内的・内在的な三位一体の神、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示・和解であり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、まことの神にしてまことに人間であるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信じる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものにおいて、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」「広い共同体に向かっての運動において」、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである。このバルトの信仰の完全な開放性について、ブッシュは次のように述べている――「教会は、(中略)信仰の完全な開放性において理解されなければならない。その信仰の開放性においては、『イエス・キリストはマルクス主義者のためにも死に給うたのだが、また資本主義者と帝国主義者とファシストのためにも死に給うた』ということから出発することができる……」、と(『カール・バルトの生涯』)。

 まさにここが、終末論的な「すでに」と「いまだ」における、すなわちイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」――『バルトとの対話』)の中間時における、われわれ人間が――第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なわれわれ人間が現存する場所なのである。したがって、中間時における人間とは、終末論的限界と啓示の弁証法において、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にある人間のことである。このことを、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、こうである――キリストにあっての啓示とは、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事(≪子なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事≫)として起こるという事実」のことである。この啓示は、「和解という言葉」と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である。しかし、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方、すなわち聖霊の業に関わる救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)の概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性――復活と救贖(すなわち、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)の中間時、すなわち聖霊の時代の中で、神の側の真実としてのみある客観的な現実性――である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。

 さて、聖書によれば、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊は、われわれの「救済主」である。しかし、聖霊は、「救済主」であるだけではない。内的・内在的な三位一体の神の、すなわち「三位相互内在性」における「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊(愛に基づく父と子の交わりとしての「父ト子ヨリ出ズル御霊」)は、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、「子とともに、子の霊として、また和解者」でもあり、また「父および子とともに創造主なる神」でもあるのである。新約聖書の「イエスは主である」という「証言」は、その「神性」を本質とするイエスを、「事実の承認」として・「思惟の初め」として語っている。したがって、この「イエスは主である」・「子を通しての父を、父を通しての子を信じるこの信仰」、「神との出会いであるイエスとの出会い」、「信仰の出来事」は、客観的な啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面である聖霊の注ぎによるのである。このように、この信仰の出来事は、新約聖書において、「啓示の出来事の中での主観的側面」、すなわち「聖霊の注ぎ」による人間的主観に実現された神の恵みの出来事、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の主観的現実化のことである。このような訳で、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、「神の恵みの賜物である聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、換言すればわれわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとって「いまだ」であり、神の側の真実としてある客観的現実性、「成就と執行」、「永遠的実在」として「すでに」ということである。