1.シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉(4-1)

 『カール・バルト著作集4』「シュライエルマッハーからリッチェルに至る神学における神の言葉」に基づく

 翻訳者・吉永正義は、「訳者解説」で、この書は、「『十九世紀プロテスタント神学』のすぐれた要約」である、と述べている。この書を、吉本隆明が教える連鎖式勉強法・研究法に基づいて素直に読んでいけば、次のように、簡潔に整理することができる。

 この「神の言葉」への神学的な関わり方についての・その類型についての「講演」の主題は、人類史の段階において尖端性を獲得した西欧近代という大海の中で泳ぎ回っている、近代主義的なあるいは自由主義的な神学――すなわち「支配的な神学」に対する、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルト自身のその神学の「原理的な思想構造」からする、すなわち自らの神学のその原理、その認識方法と概念構成からする、異議申し立てと根本的包括的な原理的な批判にある。


(1)「支配的な神学」に対する、ルートヴィッヒ・フォイエルバッハによる「心理学的側面」からする根本的包括的な原理的な批判
 フォイエルバッハは、「デ・ヴェッテによって……述べられた、神学は人間学であるという合言葉を真剣に受け取」った――「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(L ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳、岩波書店)。そして、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された対象物、換言すれば対象化され客体化された人間的理性や人間的欲求、すなわち「存在者レベルでの神」――こうした「宗教の対象、宗教の神」を「人間の心の中へと移し、宗教の現実を超え出ているすべてのものを、幻想として、まさに人間の心の憧憬と恐れ、理想主義と嫌忌の産物であると言い切ることによって、神学を心理学的側面から攻撃した」。この時、神の言葉は、「すべては、全く、われわれ自身の中にある」――何故ならば、この場合は、「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」から(前掲書)。言い換えれば、神の言葉は、われわれ自身の自問自答の中にある――何故ならば、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという(≪自己意識の≫)類的機能……を果たすことができる」から(同書)。ただ、宗教の場合の自己意識は、自由な自己意識の類的機能の無限性によって対象化された対象物が自己還帰する文学の場合とは違って、自己喚起せず、それ故に第一義性・価値がその対象物を対象化したこちら側から、対象化されたものの方へと移行してしまうという点にある。

 このような訳で、バルトは、フォイエルバッハによる近代主義的なあるいは自由主義的な神学に対する、正当性と妥当性のある根本的包括的な原理的な批判を、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという自らの神学のその原理、その認識方法と概念構成によって、包括し止揚し克服しなければならなかった。バルトは、徹頭徹尾、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯するという仕方で、この課題を、引き受けたのである――教会の一つの機能としての「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。何故ならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。したがって、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。したがってまた、教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たち」のことである(『教会教義学 神の言葉』)。バルトがこのようにしたのは、神学における近代主義あるいは自由主義、近代主義的神学あるいは自由主義的神学に属するシュライエルマッハーはもちろんのこと、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……(≪キリストにあっての神と人間との無限の質的差異を人間の側から止揚し捨象し、人間の神化あるいは神の人間化の原理を掲げて登場した≫)ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇」したからである。


(2)ダーフィト・シュトラウスによる「支配的な神学」に対する「歴史的な側面」からする批判
 シュトラウスは、「支配的な神学」における「歴史の中での神を認識できる」という言説を「まともに受け取った」。そして、シュトラウスは、その「支配的な神学」に対して、次のように批判をした――もしも人間が、自己意識・理性・思惟によって「歴史の中で所与として与えられた事実を認識する」場合、近代以降においては、「各頁ごとにさまざまな奇跡を含んだ福音書」は、「学問的な歴史主義等の実証的研究」によって、歴史的な(geschichtlich)人間イエスは神話とされてしまうだろうし、歴史的な(geschichtlich)「個体の思想全体」は切りちぢめられてしまうだろうから、歴史の中で神を認識することはできない。

 したがって、バルトは、聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯して、次のように述べなければならなかった――聖書は、史実史や神話ではなく、「ただ、(一人、あるいは何人かの)物語者が物語られた歴史に対して、多かれ少なかれ(主観を交えて脚色しており、そういう意味で)干渉し、関与する」という「歴史物語あるいは古譚の要素を持ったもの」である。したがって、「中立的な観察者」として「聖書の中に証しされている啓示の『史実的な(historisch)』確かさを問う問い」は、「聖書にとっては全く縁遠いもの」であり、「聖書の証言の対象にとって」異質なものである。しかし、その聖書的証言に対して、それを「聞くもの、見る者、信じる者」である「非中立的な観察者」にとっては、啓示・聖書・教会の宣教の中に「同時に啓示の秘義があったし、あり続けた」のであって、その非中立的な観察者だけは、聖書の中の歴史について、「史実的」には「全く何も確かめられない」ということ知らされたし、「啓示の出来事にとって重要でないものだけ」・「啓示とは別の何かだけ」しか確認できないということを知らされたのである(『教会教義学 神の言葉』)。「歴史主義」は「人間精神が生み出したものを問題とする」限り、「啓示を問おうとしない」で「人間精神の自己理解を第一義として聖書の中でも神話を問う」ことをする。しかし、「啓示の証言としての聖書の理解」と、「神話の証言としての聖書の理解」は、「相互排除の関係」にある。したがって、聖書記事を歴史物語とみなし、聖書記事の「一般的な歴史性(Geschitlichkeit)を問題化すること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃しない」が、聖書記事を「神話として受けとること」は、「証言としての聖書の実体を攻撃する」。何故ならば、啓示は、人間学的な人間の個の時間性である自己史や人間の類の時間性である「歴史(≪世界史、人類史≫)の枠に、はめ込まれてしまうような歴史的出来事ではない」からである。したがって、聖書の歴史認識の方法は、その歴史を、「一般的な歴史性」を含んではいるが、史実史ではない歴史物語・古譚――換言すれば内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわちイエス・キリストにおける全き自由の神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事史として受けとる点にある。
 
(3)マールブルクの神学者フィルマール、ハレーの神学者のJ・ミュラー、ドルナー、H・f・コールブリュッゲ
 (1)と(2)における神の言葉の問題の解決の仕方は、根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」られたものに過ぎない。そのことに対する認識と自覚的な在り方においては、フィルマール、ミュラー、ドルナー、コールブリュッゲが貢献している。教会は、「啓示によって全権を委任されて、何かを語らなければならない」「公の制度」である。またそれは、神と罪人である人間との無限の質的差異、神語り給う故に・神語り給うことを聴き・神語り給うことを語る。またそれの「主観的認識根拠」は、「真理の基礎」でも「真理の基礎づけ」でもなく、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストにおける啓示の出来事、それ故に具体的には「客観的認識根拠」である第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)に基づいて、神のその都度の自由な恵みの決断による「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事――すなわち信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)にある。神の言葉は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、換言すればキリスト教に固有な類と歴史性の関係と構造(秩序性)において客観的可視的に存在する。言い換えれば、終末論的観点の下で、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということができるということである(『教会教義学 神の言葉』)。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示としてのキリストにあっての啓示は、啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づく啓示認識・啓示信仰の授与能力を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を持っているからである。このように、先行するキリストにあっての神の恵みは、存在的にも認識的にも、徹頭徹尾、常に、「自由であり続ける恵みである」。したがって、人間の側からする神との「混淆」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」は、本質的に本来的に標榜でき得ない教説なのである。


19世紀のプロテスタント神学においては、「神の言葉」は、次の二つの類型において理解されていた
(1)その神学は、聖霊の業である「啓示されてあること」――すなわちその思惟と語りにおいて、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を反復・媒介させることなく、換言すればそれに信頼し固執し固着し連帯するという仕方ではなく、それ故にそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方ではなく、先行させた人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性によって、主観的な自問自答を介し、「何が真理であるかを自分に向かって語らせた」のである。
(2)その神学は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性によって、歴史主義的な自問自答を介し、「何が真理であるかを自分に向かって語らせた」のである。

 この二つの型の神学の系譜はシュライエルマッハーにある。シュライエルマッハーによれば、「神の言葉への奉仕は、……説教者の『自己伝達』」にある。すなわち、「自分自身を、自分自身の〔敬虔な〕興奮」・感情を、自分自身の感覚や知識を内容とする経験を、「伝達」・「表現」する点にあった。この「個体化」は、「『救済者』と呼ばれるナザレのイエスの中で、実行に移される」。ここでは、「敬虔な偽り」(バルト『ヨブ』ゴルヴィッツアー編)が行われ、神への反抗が「公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われる」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』)。ここでは、「神的なものは意識の中に」・「歴史の中に与えられており」、したがって、その主観的な要素と客観的な要素は、人間が自由に処理できる人間の自由事項・決定事項とされる。この事態の極限に措定されるのは、人間の神化あるいは神の人間化である。「人間が万物の尺度」とされた近代主義的な人間中心主義である。これが、(1)と(2)の「原理的な思想構造」である。
 
 さて、「信仰覚醒運動の神学者たち」、「ヘーゲル右派の神学者たち」、「聖書主義者たち」は、上記の二つの型の神学に抗議はしたが、その神学の「原理的な思想構造」はその二つの型の神学のそれと同じであった。したがって、ト―ルックにとって、聖霊は、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を後景化させたところでのあるいは捨象してしまったところでの、対象化された彼の自己意識・理性・思惟と同一であった、すなわち彼の自己意識・理性・思惟が規定した「敬虔な主体」・「理性的賛同」と同一であった。また、ローテにとっては、対象化された彼の自己意識・理性・思惟そのものである「キリスト教的自己意識と神意識」は、「真理ノ泉」とされた。それに対して、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)におけるその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し固着し連帯したバルトにとっては、徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異という認識と自覚(『ローマ書』「第2版序言」)の下で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」し、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」し、聖霊にって更新された理性も聖霊と同一ではない(『教義学要綱』)、という認識と自覚を堅持させている。ヘーゲル右派のマールハイネケにとって神は、対象化された人間に内在する神的本質である――「神を思惟するわれわれの思惟は、終始、神ご自身の思惟である」。われわれは、このような思惟と語りを聞くと、すぐに次のような思惟と語りが喚起されることを知っている。それは、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、というそれである。また、聖書主義者たちにとって、聖書は、人間の自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性の自由事項・決定事項の対象であって、それ故にそれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする、その「啓示の実在」そのものである起源的な第一の形態の神の言葉、そしてその第二の形態の神の言葉としての聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)、そしてまたそれに信頼し固執し固着し連帯した第三の形態の神の言葉としての教会の<客観的>な信仰告白および教義というキリスト教に固有な類と歴史性に連続させられた位相のものとしてはなかった。したがって、聖書主義者たちにとって神の言葉は、「聖書を自分の支配下において自由に処理するキリスト教的主体〔キリスト者〕の知識」(「単なる知識」)でしかなかった、それ故に「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における客観的な啓示の出来事と、その啓示の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)ではなかった。バルトにとって、キリストにあっての神の啓示は、「人間の言葉性に縛られることはない」のであり、逆に「人間のその言葉性の方が神に縛られている」のであって(「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての「啓示の実在」そのものであるイエス・キリスト共に聖書は、「教会の宣教における原理である」のであって――『教会教義学 神の言葉』)、それ故にわれわれ人間は、「神の言葉」・「神の恵みの実在」そのものの「認識を問うことはできない」のである。したがって、バルトは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼する」のである。キリストの霊である聖霊の証しの力に、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動に信頼するのである。
 

2.カール・バルトとルター祭(4-2) 

 『カール・バルト著作集4』「ルター祭」小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 ルターは、「自分の事柄」について、「確信」していた。したがって、「世的なかしこさとまことの知恵の間の選択において、一瞬間たりとも、動揺」しはしない。その場合、「あらゆる側から」の異議申し立て・反対、すなわち「お前はただ自分ひとりだけが正しく、ほかの者は間違っているとみなすのか」という異議申し立て・反対に対して、「動揺」しはしない。このルターの「確信」的立場は、彼に固有な資質や時代性に規定されており、誰も「模倣」することはできない。

 しかし、ルターは、彼に固有な資質や時代性を超えた、キリスト教に固有な類と歴史性にも規定されている。すなわち、ルターは、キリスト教会の教師として・神学者として、キリスト教に固有な類と歴史性における「キリスト」・「福音」・「神の言葉」への集中という思惟と語りを持っている。したがって、このことに自覚的でないルター研究は、ルターを「贋造することになる」。ルターが、その「キリスト」・「福音」・「神の言葉」への集中、「旧約および新約聖書」とその「注釈」への集中において「欲した」のは、人間の神との「混淆」・「混合」論、人間の神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」の根拠となる目的格的属格として理解されたローマ書3・22等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストを信じる信仰)による「神の義」において、「福音伝道者」・「忠実なしもべ」で在り続けることにあった。このことは、ルターの『キリスト者の自由』を読むとよく分かることであるが、ルターには、「人間が律法に対して全体的に不従順であるという事実」における人間に生ずる「生の不安」が「強烈に存在」していたのである(『福音と律法』)。

 ルターにとって学問(神学)は、「確実な認識」であった。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストの啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面である「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて、「神の言葉」を聞き、認識し、信仰し、語る責任のある証人となる場合、その「出来事」・「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示ないし和解に感謝をもって信頼し固執し固着する「認識」・信仰である、と述べている。しかし、ルターのその学問は、「人間の状態……についての特別な学問として理解できる」ところのそれである。言い換えれば、それは、「ただ、(≪自己資質から生じてくる≫)自分の考えを述べることしかできないということを……見て取ることでもって始まる」。しかし、それは、自己資質による「すべての絶望から突然わき起こってくるさらにはるかに根本的な(≪目的格的属格理解として理解されたローマ書3・22等の聖書的啓示証言における≫)信頼の言葉」・「祈りの言葉」を持っている(このことは、『キリスト者の自由』を読めばよく分かることである)。バルトは、『キリスト者の自由』の文体・「ルターの神学」を詩篇130に見出している――「主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。主よ、どうか、わが声を聞き、あなたの耳をわが願いの声に傾けてください。主よ、あなたがもし、もろもろの不義に目をとめられるならば、主よ、だれが立つことができましょうか。しかしあなたには、ゆるしがあるので、人に恐れかしこまれるでしょう。わたしは主を待ち望みます。わが魂は待ち望みます。そのみ言葉よって、わたしは望みをいだきます。わが魂は夜回りが暁を待つにまさり、夜回りが暁を待つにまさって主を待ち望みます。イスラエルよ、主によって望みをいだけ。主には、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあるからです。主はイスラエルをそのもろもろの不義からあがなわれます」。

 ルターは、この場所で、「すべてのよきものを期待する」、「慰め」と「助け」のすべてを期待する。このことは、「牧師たちはよくそのようにいう」ところの、ルターが否と然りの「調和への道」を見出したということではなくて、それは、深い隠蔽性の中で、「深く隠されているが、喜ばしい希望である」神を「待ち望む」ということである。何故ならば、「神の恵みの賜物である聖霊を受け満たされた人」における「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていること」は、神の側の真実としてある「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということであるが――それ故に人間の「人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみない」のであるが――、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍からすれば<いまだ>ということである――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは(≪「神に対する反抗」、「神に服従しない人間」、「罪深い堕落した人間」、「無神性」、「不信仰」、「真実の罪」、≫)一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないということである――、からである(『教会教義学 神の言葉』)。

3.カール・バルトとカルヴァン祭(4-3)

 『カール・バルト著作集4』「カルヴァン祭」小川圭冶訳、新教出版社に基づく

カルヴァンの「三つの命題」
(1)カルヴァンは、われわれ人間の「思惟の力」、「研究のもろもろの成果」について、「懐疑主義」的にではなく、また「安閑」としてではなく、「謙虚に考えるべきことを教えた」。すなわち、カルヴァンの教えたその「謙虚に考えるべきこと」は、主なる神に「服従すること」も、主なる神を「認識すること」(信仰すること)もできないわれわれに対して、主なる神が「ご自分の言葉を語る」ことによって、われわれが聞く者、認識する者、信仰する者となるようにされるということを、その神の完全な自由に「直面させる」ということを、「謙虚に考えるべきことを教えた」。
 このことは、バルトの『教会教義学』「神の言葉」および「神論」に即して言えば、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示は、その啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、それ自身が聖霊の業である「啓示されてあること」――すなわち教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っていることを教えたということである。また、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって信仰の認識としての神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」ことを教えたということである。


(2)カルヴァンは、神学者に、また「いかなるキリスト者も……神学者としても召されている」(バルト)という意味ではすべてのキリスト者に、「主題」を示した。そして、カルヴァンは、その「主題」は、「服従への自由」に基づいて、すなわち恣意的独断的な「自分自身の考えではなく」、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に対する「他律的服従」において、前述したような仕方で聖書(第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉)の中にキリストにあっての「神の考えを尋ね求め、見出す」というそういう「自立的服従」(「決断」と「態度」)を為す「聖書の読者と解釈者」にあると考えた。したがって、カルヴァンは、「神学体系を残さなかった」、「カルヴァン主義」なるものを残さなかった。したがって、「カルヴァンの注釈に対する批判」は、「ただこの前提のもとでだけ可能」である。


(3)第三の形態の神の言葉である教会の宣教の一つの機能としての神学の「場所」は、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「神の言葉の宣教に、奉仕する」教会、すなわち第二の形態の神の言葉である聖書が宣教を義務づけた教会である。


カルヴァンの使徒行伝3・1-10についての説教
 「われわれが、イエス・キリストの名において洗礼を受け、イエス・キリストの言葉を聞くようにと召されていることが確かである限り」、ここで「宮」は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリスト(「啓示の実在」そのもの)についての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「一つの、聖なる、公同の、使徒的教会」のことである。ここでは、「神が問題であり、魂とその永遠の救いが問題であり、神の国が問題」である。「使徒たちと預言者たちが、聖書(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)が、教会(≪第三の形態の神の言葉である教会≫)に来るならば、その時、いずれにしても」、その「教会」の宣教が、「人間的な虚偽か、神的真理」か、「昔からの習慣と空想」か、「神の主権的な導き」か、「決定が下される」。何故ならば、教会に宣教を義務づけている「聖書こそが、教会を支配する」からである、換言すれば「聖書こそ」が、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者だからである。したがって、その教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」し、それ故にその教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立しているのである」(『教会教義学 神の言葉』)。このようにして、先行する「神的真理」・「神の主権的な導き」の中にある教会(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会≫)は、「死」の「予型と前戯」の比喩である「宮もうでに来る人に施しを乞うために」置かれていた「生まれながら足のきかない男」、「人間の世界のただ中に」「立っている」。
 
 そのただ中で、イエス・キリストが特別に唯一回的直接的に召され任命されたその弟子である「ペテロとヨハネ(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)なしの教会」、その聖書的啓示証・「聖書なしの教会」は、そこでは神の言葉は沈黙し、それ故に神の言葉が「支配する代わりに、あらゆる種類の人間の言葉」を神の言葉に置き換え(「神の名において、神の呼びかけのもとに」、神への「反逆」が行われ)、神の言葉を「駆逐」するのである。そこには、人間的理性や人間的欲求やが対象化したに過ぎない宗教を求める「民衆」が、それと同類の「われわれ自身(≪そのような「存在者レベルでの神への信仰」を尋ね求め・宣べ伝える教会≫)が、……属している」、またそこには、「二、三の建設的な理想」、「二、三の道徳的動機」がある、またそこには、「人間的な足がきかないことと無力さの下にある教会の総括的表現がある」。しかし、足が聞かない男が「施しをこうた」時の視線は、「好奇心」と「同情心」を内容としていたが、「ペテロとヨハネ」が「彼をじっと見」た時におけるまなざしは、「罪と死をも、とっくに打ち砕かれた主なる神」、その死と復活の出来事におけるイエス・キリストである――「カルヴァンを通し貫いて、イエス、助け主、救世主、終わりと新しい始まりをもたらす方である。それが、ペテロとヨハネが足のきかない男をじっと見た時、起こったところのことである」。ペテロもヨハネも、「われわれすべてと同じように全く平凡な人間」であり、「誰かほかの人間よりも別段意味深くもないし、興味深くもない」人間であるが、彼らが欲しているのは、自分が・自分たちが見られることではなく、「彼らをつかわし、委任を与えられた方、永遠の父の永遠のみ子」、イエス・キリストが見られることである、起源的な第一の形態の神の言葉(啓示ないし和解)である「イエス・キリスト」だけである。したがって、そのためにこそ、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言――すなわち「ペテロとヨハネ」、「すべての預言者と使徒」が見られることを欲している、「聖書」の証言・証しが聞かれることを欲しているのである。したがってまた、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の説教者の恣意的独断的な思惟や語りが聞かれることを欲してはいないのである。

 ペテロとヨハネは「金銀のない」「貧しい者」として、足のきかない男に「施し物を与えること」はできない。この「施し物を与えられない」ということが「試練」として「襲いかかる」。そのために、ユダをはじめとして、ペテロも、「すべての弟子たち」も、イエスを裏切り、否定し、「捨てて逃げ去った」。しかし、そうであるにもかかわらず、イエスのゆるしの下で、イエスの弟子として、使徒として、金銀はなく施し物を与えられないペテロは、「わたしにあるものをあげよう」と、「死人の中から甦られた」、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」・「聖霊を受けよ」と「語りかけ給う」神の言葉であり、「啓示と和解」そのものである「ナザレ人イエス・キリストの名」を宣べ伝える。この、先行する「み言葉の後に従いつつ」、み言葉への奉仕の中で、ペテロは、「何かをなすことができ、何かをなすことがゆるされる」、「人間的に助け、手をつかみ」、「身を起してやることができ、そのようことをなすことがゆるされる」、「これまで決してできなかったことができる」、「決してしなかったことをする」、「死の影の中を引き続き生きるのではない」、「永遠の生命の光の中を歩くのである」。

 教会は、「英雄」ではない・「賢者」ではない・「偉人」ではない、「神の言葉が来た足のきかない男である」。何故ならば、教会は、聖書のイエス・キリストにおけるその「み言葉と共に、み言葉の中に、み言葉の下にいる足のきかない男となったからである」。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えずくり返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していかなければならないのである、絶えず繰り返しそのような教会となることによって教会であることを目指さなければならないのである。これが、キリストの復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代におけるその途上にある教会である。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会は、教会の神的側面でありその主・頭であるイエス・キリスト(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの)に聞くことが、イエスの弟子である「ペテロとヨハネ」に・使徒たち(第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)に聞くことが、すなわち具体的には、その教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての聖書に聞くことが、教会に宣教を義務づけている聖書から命令・要求・要請されているのである。
 

4.カール・バルトとキルケゴール(4-4)

 『カール・バルト著作集 4』「感謝と表敬――デンマークとの接触」および「キルケゴールと神学者」小川圭冶訳、新教出版社に基づく

 この「感謝と表敬――デンマークとの接触」は、1963年4月19日に行われたデンマークのソニング゙賞の受賞式において述べた「感謝の辞の草稿」とある。また、「キルケゴールと神学者」は、フランスのプロテスタントの新聞のキルケゴール生誕150年記念企画のために書いたものとある。
 
 バルトは、コペンハーゲンの街路を散歩するキルケゴールの姿を、「ほとんどだれからも愛されることもなく、少数の人によって恐れられ、あるいは嘲笑され、多くの人にはまったく知られ」ない、実存者あるいは単独者として描いている。そして、バルトは、ソニング賞決定は、「正当なヨーロッパ文化には、正当な自然科学、芸術、政治だけでなく、正当な神学」も含まれていることを意味していると述べている。そしてまた、バルトは、ヨーロッパ文化が「今世紀に遭遇した重大な危機を克服するかどうかということは、その最初にして最後の問いが――それがまさに神学の問いなのですが――そこでふたたび生きているかどうか、また正しい答えを見出すかどうかに、かかっている」と述べている。この思惟と語りから、われわれは、ここでバルトが述べている「正当な神学」とは何かを、すぐにイメージすることができるのであり、それは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の一つの機能としての神学が、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持することをしないで、人間中心主義的な人間からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、人間学との「混合神学」(混合学)、キリストの福音(言葉)から独立させた社会的政治的実践(行為)との二元論的な「混合宣教」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した神学ことである。したがって、バルトは、先ず以てキルケゴールから、「キルケゴール・ルネサンス」に参与した処女作『ローマ書』「第2版序言」以降の著作において、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異(無限の質的「対立、矛盾、深淵」)を固守するという<方式>を獲得し、その<方式>を堅持し続けたのである。キルケゴールは、信仰としても、文学としても、思想としても、軽薄な「あまりにも安っぽいキリスト教的性格と教会的性格」に対して、「福音の絶対的要求と、自分自身の決断において福音に従う必要」性を主張した。しかし、バルトは、神の「自由な恵みの福音を述べ伝え、説き明かすことが問題である」とすれば、「神の民、教団、教会」、「その奉仕と宣教の任務」、「その政治的・社会的課題」を後景へと退けて、「単独者」と「個人救済主義」を前景へと押し出し強調するキルケゴールの言説をそのまま受け入れることはできなかったのである。なお、ここでいうバルトにおける社会的政治的実践は、二元論的な「混合宣教」におけるそれではなくて、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った説教の一貫した繰り返し」が、すなわち具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者としたキリストの福音の宣教の一貫した繰り返しが、「(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という水準のものである、換言すればそのような仕方でのキリストの福音の宣教(言葉)がそうした実践(行為)へと必然的につれ出していくという水準のものであったのである。バルトは、このようにキルケゴールにある問題を明確に提起することによって、キルケゴールの「敬虔主義」にもある「人間中心的=キリスト教的思考」を包括し止揚し超え出たのである。このような訳で、キルケゴールの世界は、それ自体が超えられるべき対象としてあるから、それは、「料理のための『ほんの少しの肉桂』であって、教会や人びとに勧める料理そのもの、すなわち正当な神学の課題ではない」のである。
 
 さて、前述したようなキルケゴールとは全く違って、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たない、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すという仕方で「混合神学」を目指す大学神学者たち、それに類する牧師たち等々は、「西欧思想の危機」についての認識と自覚も持っていないのである。さらに日本における西欧近代を「骨肉にまで受け入れた」そういう人たちは、「西欧思想の危機」についてだけでなく、吉本隆明が指摘する人類史のアジア的段階における「西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっている」日本的特殊性の問題についての認識と自覚も持っていないのである(『世界認識の方法』中央公論社)。例えばその典型は、寺園喜基が『バルト神学の射程』でその内容を紹介していた「十字架における神の愛」とヘーゲル弁証法および滅私奉公という日本におけるナショナルなものとの折衷において神学を構成した(換言すれば、人間学やナショナルなものに捕囚されてしまった神学を構成した)「徹底したバルト批判者である」らしい(それ故に、全く以てバルトの神学の全体性の根本的包括的な原理的な批判が構成でき得ていない、それ故に客観的な正当性と妥当性を持たない、恣意的独断的な外皮的皮相的な批判者でしかない)北森嘉蔵の『神の痛みの神学』である。また例えば前者のその典型は、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持せず、その神学が人間学そのものに捕囚されてしまったシュライエルマッハーであり、またその神学が前期ハイデッガーの哲学原理(人間学)に捕囚されてしまったブルトマンであり、またヘーゲルから対象的になって距離をとるという仕方をしないでヘーゲルの世界にどっぷりと浸かってしまった(それ故に、その神学がヘーゲルやハーバーマスの人間学に捕囚されてしまった)ヘーゲル主義者のエーバーハルト・ユンゲルであり、その翻訳者の大木英夫であり、またその神学的な三段階的進歩史観における神学がヘーゲルの自由を原理とする西欧近代を頂点とした直線的な進歩史観の展開である歴史哲学に捕囚されてしまったモルトマンであり、彼を評価するという仕方でさらにモーリス・メルロ=ポンティの「『知覚の現象学』における」身体性の概念に基づく(換言すれば、その神学がメルロ=ポンティの人間学に捕囚されてしまって)歴史への関わりを目指した喜多川信等々である。


 さて、ミシェル・フーコーによれば、「時代を画する哲学者は一人」もいない「西欧哲学の時代の終焉」であり、「帝国主義の終焉」と同じものである「西欧思想の危機」とは、換言すれば人類史の近代以降の段階において、世界普遍性を獲得した地域として「普遍性誕生の場」である「西欧思想の危機」とは(それ故に「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機」なのであるが)、「一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構」となった「マルクシズム……の危機」、「革命という西欧概念の危機」、「人間、社会という西欧概念の危機」のことである(『思考集成Ⅶ』「フーコーと禅」)。したがって、吉本は、人類史のアジア的段階における日本的特殊性を引きずっている「現在日本のもっている危機の意味合いは二重になって」いるから、日本においては、西欧的危機の問題とアジア的な日本的特殊性の問題とを明確に提起しなければならない、と述べたのである。したがってまた、吉本は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会」の学者やそれに類する知識人としてではなく、知識人の中の思想家として、例えば『マルクス――読みかえの方法』を著わしたのである。このような訳で、波風のない無風地帯の中で自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す「混合神学」を目指す大学神学者たち、それに類する知識人や牧師たち等々は、具体的には「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、現実と時代から強いられた問題を神学的に明確に提起することをしないし、明確に提起することもできない、井の中の蛙と言わざるを得ないのである。このような人々が、神学における思想家であるバルトの神学の全体性を、根本的包括的に原理的に批判できるわけがないのである。


 さて、「感謝」とは、「神の恵み」、「求めずしてあたえられる」、先行する神の側の真実の方から一方的に与えられる「憐れみ」、「無償で授けられる賜物に対する応答」のこと、「気持ち」のこと、「態度」のことである。また、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神のもとにある「慰め」は、「キリスト者」の「慰め」であると同時に、全人間、全世界に完全に開かれた、個体的自己としての全人間の「慰め」、「全世界の慰め」でもあるのである。