吉本隆明の<南島論>――その総体構造

 依拠した吉本の著作は、一番最後に載せる(引用書を明記する場合もある)。また、<南島論>の総体構造を理解し易くするために、かつての記述との重複もあるし、論述も少し長くなる。ただ、これだけのことを理解して吉本の南島論を読む時、その意義を見出すことができるように思う。

【A】吉本の南島論――その問題意識の所在
吉本における戦争体験・天皇制体験の思想化
ア)
法(的言語)や政策(的言語)によって国家(体制)に加担していく知識人の敗北の在り方と、戦争時における「国家の政策を、知識人があらゆるこじつけを駆使して合理化し、それを大衆が知的に模倣し、行動では国家以上に国家を推進」し、支配(国家・政治的権力)に直通していく大衆の存在様式を把握できなかった知識の在り方とを、否定的に媒介する体験の思想化の延長線上に、吉本・南島論の問題意識の所在がある(『どこに思想の根拠をおくか 吉本隆明に対談集』「思想の基準をめぐって」)。

イ)本居宣長が、『古事記』にあらわれた8世紀以降の日本を問題にしたように、また天皇制に文化的な価値観(漢学的な美意識)を収斂させていった三島由紀夫のように、「歴史的に<天皇制>を問題とするとき、歴史時代的にこれを問題にしたらだめで歴史時代以前の視点を包括する眼で問題にしなければ、南島の問題やアイヌの問題や在日朝鮮人の問題を包括する」ことはできない。神であり人であり、尊ばれると同時に蔑まれた神人は、差別用語ではなく、非農耕民を総称した呼び方であり、そしてその非農耕民は村のはずれで、手厚く処遇されたのである。この処遇からすれば、天皇も神人の一人であった。ただ天皇は、政治的には専制君主として権力を有していた。天皇族の祭儀は、それより古い南島(あるいは、人類史における縄文的な原日本・原日本人)の祭儀に基づいたものであり、儒教や仏教の知識も農耕技術も大陸からの輸入によるものであった。このように、「祭儀ひとつとっても、天皇族独自の祭儀はなかった」ことを根拠づけることができれば、天皇制の根拠を相対化し無化することができる。この天皇制を相対化し無化していく課題は、日本においてまだ山の民と海の民と陸の民の相互変換が可能であった共同体の水準、「<法>が法以前の<宗教>的な<威力>であったときの共同体」の水準、「国家が国家以前の共同体」の水準であった時期にまで遡及し鳥瞰図の時間軸を拡張させて考察し追究していくところにある。なぜならば、天皇制という「歴史時代の一国家の歴史は、千数百年」に過ぎず、「そういうものに、人類的にも生活的にも文化的にも価値を収斂させるわけにはいかない」からである。そのような作業において、地域としての南島やアイヌや在日朝鮮人の問題は、人類史における世界普遍的な課題に連帯させることができる(前掲書)。

ウ)象徴天皇制が<無意識的>な市民社会の一般性としてあるという意味でそのことを肯定せざるをないとしても、「理念として」は「全面的に否定」である、<象徴天皇制>の憲法規定も削除すべきである。したがって、「天皇制」や「天皇」は「全部なしに」する必要がある、すなわち、天皇制の本質は、天皇個人の問題や、「支配共同体の政治的機能」にはないから、その天皇制の本質(共同幻想として最大の「無形の権力」・「畏怖する権力」・「威圧する権力」)を理念において相対化し無化しなければならない。そうするために、天皇制以前にまで歴史を遡及して考察し追究する必要がある。
 したがって、天皇個人に戦争責任があるという場合、それは、「出兵に関する絶対権限」・大権である「統帥権」にまつわる責任はある、と言うことができる。もう一つは、天皇が「現人神だと考えなければ命を的にできない」ということで「行動」し・「生き」・「死んだ」「多数の民衆」に対しても、責任がある、と言うことができる。もちろん、「多数の民衆」を戦争へと駆り立て家族や親族や友人を死に追いやった天皇制国家支配上層、法(的言語)や政策(的言語)によってその国家(体制)に加担した知識人・知識人集団、メディアにも責任がある。


【B】支配の方法としての「接木」の構造
(1)
南島論の課題は、琉球、沖縄の「ノロの首長である聞得大君の就任儀式と、天皇の世襲祭儀である大嘗祭との類似を探る」ことにより、天皇制、天皇制国家を相対化し無化する点にある。宗教的権力としての天皇制の実体を解明する鍵が、沖縄の「聞得大君の就任儀式にみる宗教的威力の継承」祭儀にある。天皇制国家の政治的権力が、統一国家以前の既存の国家、共同体の政治的権力を掌中に収める方法は、政治の本質は観念の共同性にあるから、「古代では、宗教的な、イデオロギー的な権力をまず掌握」し、その「宗教的威力の継承」を行うことが重要であった。すなわち、天皇制国家は、既存の「権力中枢……におけるイデオロギー的・宗教的権威の継承」を横からかすめ取る方法・「接木」する方法においてそうした。この場合、被支配は、全く「自らが所有してきたもの」ではない「接木」の構造に基づいて成立した支配の共同幻想(観念の共同性)を、「自らの所有してきたものよりももっと強固」に、「自らのものであるかの如く錯覚」させられ支配に直通していくことになった。「統一国家として歴史的に固持してきた千数百年という本土中心」から見られた「日本国家の浅さを、根柢的にくずす仕方が、南島にもとめられる」・「根柢的に日本国家の歴史性・現在性を掘りくずしてしまう視点」が、南島に求められる(『敗北の構造』「南島の継承祭儀について――<沖縄>と<日本>の根柢を結ぶもの――」「敗北の構造」)。

(2)天皇制の問題を天皇制からはじめて天皇制で終わらせる、赤坂憲雄の論じ方に対して、吉本は、次のような批判を加えている。
ア)天皇制以前にまで歴史を遡及して考察し追究すれば、村落共同体の一員として住居を定めてそこで生活していた「常民大衆」(日本列島の先住民・原日本人)は、すでに「村はずれの小さな鎮守様」や「村はずれの山の頂にある」岩石や村の「名だなる樹木」等を「祭祀の対象」としていたし、民俗の祖先祭祀を行っていた。したがって、国家水準の支配共同体の天皇が統括的な「宗教的源泉」・「祭祀者」となるためには、そうした天皇制以前に存在していた村落共同体水準の「常民大衆」の自然宗教・祖先祭祀を、「組織化」する必要がある。ここで、国家水準を有した共同体とは、村落共同体の自己防衛組織の連合体は<権力>としての国家水準を獲得することはできないから、村落共同体の連合体の「第三の勢力」・武力的な政治的権力、すなわち一部支配上層の意思によって発動できる軍事組織を擁した支配共同体に移行した水準にあったそれのことである。そして、日本の場合は、支配共同体が下層の村落共同体を「接木」するという政治的技法(支配の側からする、支配と被支配の均衡点を見出す調整方法)がとられた。したがって、宗教が国家宗教としての水準を獲得するためには、「祭祀力の組織化」が必要となる。南島の問題でいえば、琉球王朝における、村落共同体のユタではなく、その組織的制度的表現であったノロの最高位としての聞得大君を必要とした。この「ノロや聞得大君の継承の祭儀」は、天皇の国家的な宗教的<威力>の授受である「大嘗祭の祭儀」と共通している。言い換えれば、その祭儀は、天皇制に固有なものではない。再度述べれば、ここで重要なことは、天皇が支配共同体の「宗教的源泉」・統括的な「祭祀者」であるためには、支配の側は、天皇制より「ずっと以前」から存在していた先住・原日本の村落共同体の原日本人・「常民大衆の祭祀」を、組織的制度的に「接木」しなければならなかった、という点にある。

イ)したがって、「神話的な歴史の記述の中にある天皇が祭祀者として宗教的な権威の頂点になっている記述」にとどまっていては天皇制を相対化し無化することはできないから、その天皇制以前にまで、すなわち人類史のアフリカ的・縄文的段階の「母系的な祭祀の段階」にまで歴史的に時間を遡及して考察し追究していく必要がある。そうすると、ほんとうは、本来的には、宗教的権威は、女性にあった段階に辿り着く。にもかかわらず、『記』・『紀』の段階になると「男性優位の記述」・「男性の天皇に宗教的権威がある記述」になってくる。このことは、組織的制度的な「接木」・政治的調整がされた、ということを意味している。しかし、ほんとうは、「天皇家は、初期王朝から母系制」だった。なぜならば、『記』・『紀』によれば、神武天皇の宮殿は「橿原地方にあったかと思うと、二代の綏靖」天皇のときには宮殿が変わっている・このように「一代ごとに宮殿が変わるのは、女の人の方に入り婿」する婿入婚だったからである。したがって、神武天皇に、宗教的権威・祭祀権限があったと言い切ることはできない。

(3)人類史の縄文的段階における先住の日本人・原日本人は、例えば宗教祭祀においても、天皇制とは違う宗教祭祀を行っていた。すなわち、彼らは、「収穫の豊穣を願う」祭祀、「多くの場合に妊娠している女性像を土でつく」り「素焼」した土偶を食物をつくる場所に埋める儀式を習俗として行っていた。したがって、この先住民・原日本人の「社会」・「宗教」・「生活」・「狩猟の仕方」(アイヌの熊送りの祭祀等)にまで歴史的に時間を遡及して考察し追究していかなければ、その認識・概念は一面的部分的なそれとして、根本的な誤謬と迷妄性に陥ることになる。根本的な誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語る」ことになる。したがってまた、天皇制が「主体」ではなくて、先住の原日本・原日本人が「主体」・起源である、という認識と自覚が重要である。言い換えれば、その認識と自覚がない場合、村落共同体の先住民・原日本人・「常民大衆」は、自らの宗教祭祀、習俗、心性、文化を、天皇制的な宗教、法、制度に「接木」されて、そしてそうした「接木」された天皇制的なものを「自らが所有してきたそれ以上のものとして」錯誤してしまうことで、天皇制支配に繰り込まれしまうし、またその支配の暴政や圧政に対しても、天然自然の災害を受け入れるように受け入れてしまうことになる。
 「精神的な絶対的帰依として天皇信仰」が成立した根拠は、天皇制以前にすでに存在していたところの、民俗の祖先祭祀という「精神的な絶対的帰依としての対象」にあるのであって、支配はそれを組織化・制度化(「接木」)したのである。この支配における「接木」の構造に、天皇制の本質的な問題はある。したがって、天皇制の問題は、人類史のアジア的段階において、天皇制で始まり天皇制で終わらせてはならないのである。
 昭和天皇の大嘗祭のパンフレットによると、「南洋の風習としてある祭式に似ていて掘っ立て小屋を二つ建てて」行われる。ただ、制度として荘厳化されている、「昭和天皇の葬儀」も、「棺の入っている神輿を衣冠束帯の姿の人がかつで行」き、「その前後を太鼓をもったり幟をもったりした人が……ついていく」。「それを見て(≪吉本が≫)……連想した」ことは、「行列」をつくって、「幟をたくさんもって、棺桶を親戚縁者がかついで……お墓まで歩いて」く「田舎の葬式」である。ただ、制度として荘厳化されている。

(4)日本語という場合、その日本語は、一般的に8世紀以降、すなわち奈良時代以降の日本語について言われるように、「日本民族」も、「文化的、……言語的に統一性をもった」ところの「統一国家が成立した以降」について言われる(『敗北の構造』「敗北の構造」)。しかし、奈良時代以降の日本語と起源としての日本語との間には断層・差異があるように、日本民族と起源としての日本人(原日本人)との間にも断層・差異がある。それはなぜかと言えば、支配としての天皇制「統一国家を成立せしめた勢力の共同幻想」は、被支配としての先住民(起源としての日本人)の共同体における「法、宗教、……風俗、習慣」等の「共同幻想」と「接木」を行うことによって成立しているからである(『敗北の構造』「南島論」)。また、経済的社会構成を農耕においていた支配としての大和朝廷はその法構成において、被支配の先住民に属する呪術的・婚姻的な部分を国津罪として下位に残し、その国津罪に支配の法に属する農耕的な天津罪を「接木」することによって、支配と被支配との均衡を企てた。
 動植物やその他の生物の「呼び名が知名になるとともに地形の名が地名になるということ」は、人類史における母胎・基層としての「アフリカ的段階に共通している」。例えば、「『さねさし』は相模につく枕詞であり、アイヌ語の地名によくある『たねさし』と同じで『突き出た細長い土地』という意味」である。この自然の地勢の名称である「突き出た細長い土地」を経て、その場所の固有名詞であるアイヌ語の地名「たねさし」へと固定化されていく過程に、「形態認識」の起源と系列を見出すことができる。「相模は半島のように突き出た場所」であるが、「先住していた人たちは、そういう地形を『さねさし』あるいは『たねさし』と呼んでいた」(『詩人・評論家・作家のための言語論』及び『ハイ・イメージ論Ⅰ』「形態論」並びに次田真幸『古事記(中)』「景行天皇 五倭建命・ヤマトタケルノミコトの東国征討」)。「アフリカ的な段階で共通にしめされていることからは、感覚、特に視覚的な形態に意味を結びつけることから名づけが発生するようにみえる。いいかえれば形態を意味として感覚することができるようになった」ことが、その発生の根拠である。何らかの理由で目立った人物や王族の場合、仇名がつけられて呼ばれる。例えば、日本列島のどの地域・地勢・自然風土なのか場所が特定できない記述や、世代的継承・親子関係や兄弟姉妹関係と関わりのない無時間的な「ひとり神」の概念の記述がある。伝説の初代天皇の神武天皇・「カムヤマト(≪接頭の出生地の美称≫)いわれひこ」は、「地名を名前とする日本列島に特徴的な呼称」である。しかし、その祖先神でありその「仇名」である「ヒコ(≪「男神につける接頭語」≫)・なぎさ・たけ(≪「種族名」≫)・うがやふきあえず(≪「出産にまつわる仇名」≫)・の・みこと(≪「死去した人・神に贈られる接尾語」≫)」(「波うち際に建てた産屋の屋根を葺くのが間にあわないうちに生まれた」)は、「日本語の人名とは思われない名称を持った」その場所を特定できないものである。このように、人類は、農耕社会の段階において「男・女神」を要請したが、自然生を主とした狩猟採取のアフリカ的段階においては、「無〈性〉神」としての「独神」という観念しかなかった。このようなことは、未明の社会の有力な人物の場合には、世界普遍的にあり得た。したがって、吉本は、「アフリカの風習で、わたしたち日本人にとって実感に近いところで理解できないものはほとんどないといっていい」、と述べたのである(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。

(5)「現人神信仰」は、大和朝廷成立以前から、すなわち人類史における縄文的段階から日本列島に存在していたことを示すことで、天皇制固有のものとされてきた現人神信仰を相対化し無化することができる。例えば、現人神信仰である「諏訪神社」の「大祝(おおはふり)」(男の覡かんなぎ)がそれである。天皇制は、縄文期から存続していたそうした現人神信仰を「接木」し、組織的制度的に集約した。したがって、天皇制における現人神信仰があって、大祝があるのではなく、天皇制の前にすでに現人神信仰である諏訪神社の大祝があった、ということが、天皇制にまつわる錯誤性や迷妄性から超出するための重要な点となる。


【C】方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>
(1)一般的な段階論
 例えば、一般的な古代家族の研究の方法は、家族形成(その意識形態・婚姻形態・家族形態)の在り方の差異性を、空間的地域的に比較するそれであり、先進地域(当時の関西)と後進地域(関東)の空間的地域的な差異性を比較するそれでしかないものである。言い換えれば、この方法は、一面的部分的な「単純な発展段階論」であって、そこにおける家族形成論は総体的な認識・概念とはならないから、それを全体として押し出す場合、根本的な誤謬と迷妄性に陥ることになる(『知の岸辺へ』「家族・親族・共同体・国家 日本~南島~アジア視点からの考察」弓立社)。

(2)吉本の方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>
ア)
歴史や世界の認識において、「時間的な問題と空間的な問題は相互に置換可能なものとしてある」(前掲書)。例えば、現在、人類史における西欧的段階にある地域・日本の天皇家に招婿婚(「儀礼的」には、「日本でいえば奈良朝末から平安朝にかけて」行われた)に近い形態が残っていることや、また例えば、人類史における西欧近代の地域・西欧にも樹木(自然)崇拝の名残りがあることを、その歴史認識・世界認識において論理的に根拠づけて説明できるためには、方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>を必要とするのである。民俗学者のような空間的地域的な差異性の比較論においては、それらのことを論理的に根拠づけて説明することはできない。したがって、吉本は、「人類の歴史……は、……新しい段階に突き進むわけですけれども、その際に古いものは決して滅びるわけでも、なくなってしまうわけでもなくて、それはそれなりの変化の形態をとりながら、やはり現在まで続いてくる(≪歴史的に時間累積されている≫)……ことが非常に一般的な構造です」、と述べるのである(同書)。具体的な例証は、後述する。

イ)吉本は、樋口清之の論文「日本古典の信憑性」に依拠して、次のように述べている――樋口に依れば、①「奈良時代までは、奈良盆地の標高四十五米線以下には住居跡や遺物は発見されていない。(中略)それ以下の低地は大和盆地湖の名残で湖水や湿地であった」。②「神武紀にでてくる地名のうち土着の異族の居住地名は、(中略)いずれも標高七十米線以上にあり、そういう地点から発掘されるのは縄文土器末期のもの」である。③「橿原遺跡は縄文末期のもので、そのころ大和盆地湖につきでた岬みたいに三方が水に囲まれた半水上生活の場所であった」。これらのことは、都市映像論の視点からは次のように言うことができる――第一に、「縄文期(晩期新石器)、弥生期(稲作農耕開始期)、古墳期(大和朝廷による古代国家成立期)などの歴史的な時代区分」は、水平的な「坐高や眼の高さにある」「普遍視線の想像力」と垂直的な「世界視線の地層滲透性」との交点で構成される「地図映像」においては「集落の標高差」と「地形差」に還元される。「世界視線からは縄文人が狩猟生活をしていたかどうか、弥生人が農耕生活をしていたかどうか、古墳時代の初期王権が、集落の共同体とは別の次元で、着々と国家の共同幻想を形成史しはじめていたかどいうかは、まったく視圏の外におかれ、想像としての像の問題に転化される」。すなわち、垂直的な「世界視線が高さを増す」ことと、「住居跡、食糧として採取した動物、魚類、植物の実などの骨や化石(または遺骨)」等の「生活行動の痕跡がのこされる度合」とは反比例の関係にある。言い換えれば、世界視線と普遍視線の交点で構成される縄文人、弥生人、古墳時代人の差異は、「標高差の問題と地形差の問題に還元されてしまう」と同時に、「食糧の化石や骨や実も祭器具としての銅矛や銅戈や銅鐸なども、地質層から出土したり遺跡としてとり出された実在の物ではなくて、いわば像としての遺物に転化する」。こうしたハイ・イメージの構成は、人類史・世界史に敷衍すれば、現在を超えていくこと、すなわち現在を包括し止揚していくことであると同時に、鳥瞰図の時間軸を人類史の母胎・母型・原型・基層であるアフリカ的・縄文的段階にまで過去を遡及して考察し追究していくことでもある(『ハイ・イメージ論Ⅰ』筑摩書房)。

ウ)「都市と農村を対立させるとか、自然と人工を対立させるとか、後進地帯と先進地帯を対立させるとか、二元対立の仕方」に「主戦場」があるのではなく、主戦場は、「国家がいま世界史の中の最大の障壁のひとつだと考えれば、その障壁はどこからどうこえられるか、それは、(≪世界普遍性としてある人類史の母胎・≫)基層からこえるか、……世界都市性からこえるか、どちらかからこえる以外にない」。したがって、その両者の課題を同時的に扱う以外にないのである。
 南島論は、人類史をその母胎・基層にまで過去を遡ることで、世界都市を包括した自然、文明史的現在を包括した人類史の母胎・基層を考察し追究していく課題である。すなわち、世界都市の課題や文明史的現在の課題を包括しながら、日本の国家の成立以前にまで過去を遡ることで、人類の文明と文化の世界普遍的な起源・母胎・基層を掘り下げることで、国家を相対化し無化していく課題である。それに対して、世界都市の課題は、農村と都市との対立を止揚し、自然の中にあるべき農村を包括し、自然、人類史の起源・母胎・基層の課題を包括し、経済、金融、文化、情報、「そういうものを……尖兵として、国家の枠を超えようとしている」世界都市論(「計画的人工都市」論)を考察し追究していく課題である。
 高度情報化社会の社会像は、「それ自体として希望でも絶望でもありえない」。「体制的でも反体制的でもありえない」。それは、自然必然史に属する事柄である。したがって、それは、「たまたま体制を担う権力によってタクトをふられる」というだけである。したがってまた、「倫理をはさみこんでそれに意味をつけようとする試み」は退けられなければならない(『ハイ・イメージ論』)。現在、ディズニーランド等の人工都市はあるが、それは消費都市である。しかし、第1次・第2次・第3次産業の境界が溶解し重層化した人工都市は、例えば長島スパ・ランドである。「一種の未来都市、未来像」である。吉本に長島スパ・ランドは俗悪なところである言ったインテリに対して吉本は、「それはインテリの間違いである」と述べている(1992年講演「像としての都市」日本鋼管主催)。次のような事態は、一水平視線である普遍視線にいくつかの俯瞰視線である世界視線を付加しなければ説明することは不可能である。2005年1月9日の「朝日新聞」(朝刊)に、東京・大手町のビル地下で、ソニーやキャノン等の出資会社が、2月から人工照明、培養液、室温調整等コンピューター制御による無農薬トマトやレタスの生産を開始する、とあった。この事態は、都市と農村との分業や対立としての都市像を超え出た、都市が農村を自らの内部に包括し止揚したところの高次の都市像を喚起させる。

エ)天皇制に対する、「アフリカとかアジアとかの王権」に対する、西欧の「民俗学的……構造主義的な理解」・「西欧の民俗学あるいは人類学の思想」における解釈の仕方は、外在的な「外側からの解釈」である。この方法、この解釈の仕方は、一面的部分的であり、「まちがっている」。この考え方の「日本の元祖は山口昌男」である。山口は、人類史的段階における「部族的な段階」でのアフリカ王権の在り方を、無媒介的に日本の天皇制に適用しているのだが、ほんとうは、日本の天皇制は人類史における「<アジア的>段階のディスポティズム」である。また、日本の天皇は「チベットの王」と似ているが、人類史的段階におけるアジア的な原始仏教的「インド的……ヒンズー的」な現人神・生き神様の「ダライ・ラマとはちが」っている。なぜならば、日本の天皇制は、確かに人類史における「<アジア的>段階のディスポティズム」ではあるが、日本の天皇は「仏教圏からはじまって」いるのではなくて、原日本(縄文期)における「一種の部族的な、地域的な原始宗教からはじまっている」と言えるからである。このように、日本の天皇制は、人類史のアフリカ的・縄文的段階における原始宗教からはじまっているという意味においてのみ、山口のアフリカ的王権説も通用する点はあるとは言える。したがって、外在的な「外側からの解釈」は、内在的な「体験的な天皇制、つまり、内部体験……を底のほうまでえぐる」方法を持たないから、その本質にまで届くような考察と追究をすることはできない、すなわちその方法では天皇制を相対化し無化することはできない。
 また、日本民俗学の創始者の柳田國男や折口信夫は、人類学的な知識を知っていながらそれを意識して使わず、「内部の文献と、内部を歩いて集めた村落の習俗」に依拠する方法をとっている。しかし、この方法も、一面的部分的である。すなわち、柳田の民俗学も、折口の民俗学や国語学も、ほんとうは、人類史のアジア的段階以前にまで、「農耕社会」以前の縄文期にまで歴史的な時間をもっと遡って考察し追究しなければならないものである。
 したがって、ほんとうは、人類史段階における西洋近代・「『外部』とはなにかをとくこと」が、人類史的段階におけるアジア的な日本・「内部の民俗、習俗を解くことと同じこと」という方法が必要なのである。そして、史観の拡張の課題として、現在を止揚することは、人類史をアジア的段階の以前、すなわち人類史の母胎・母型・原型・基層であるアフリカ的・縄文的段階にまで遡及して考察し追究していくことと同じことという方法が必要なのである。

オ)吉本は、外在的な文明史的観点の一方通行的な一面性だけでなく、マルクスの次のような考え方――すなわち「ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史のアジア的段階≫)である形態(≪マルクスは、歴史を退歩すること、すなわち循環と停滞にあるアジア的段階にまで歴史を遡及することが、歴史認識・概念を、より有利にすることがありうることに気付いた。したがって、人類史のアジア的段階における肯定性・利点や優越性としてある、例えば相互扶助的なその考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式等≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)という考え方を読み替えて、内在的な精神史的観点から、さらにもっとそれ以前の人類史の母胎・母型・原型・基層としての未開原始の段階(アフリカ的・縄文的段階)にまで歴史を遡及して考察し追究することで、現在においても成立できる新たな歴史認識・世界認識を目指した、と言うことができる。なぜならば、ヘーゲルやマルクスやモルガンやエンゲルスの西欧近代を頂点とする進歩史観においては、「歴史と言う概念は、外在(文明)史という概念と同義になってしまうからである。すなわち、その場合、歴史概念は、西欧近代を頂点とする文明史・「外在史だけに収斂してゆく」とみなされてしまうからである。したがって、吉本は、「歴史は外在(文明)史と内在(精神)史との二重性、そのずれ、乖離によって統合される」として、前述した歴史認識・世界認識の方法に立脚した、と言うことができる。したがってまた、世界普遍的に存在したアフリカ的・縄文的段階を、人類史の母胎・母型・原型・基層として措定することは、「モルガンの『古代社会』がいう野蛮の下層、中層、上層という類別で人類の初源状態を微進過程とする考え方を解体するだけでなく」、「ルソーやヘーゲルからマルクスやエンゲルスなどにいたる巨匠たちが、十九世紀の前半から外在(文明史)と内在(精神史)の稀な調和を前提としてつくりあげた歴史という考え方や、分類原理を解体する」ことになる。ただ、その中でマルクスは、未開・原始と古典・古代(ローマ・ギリシャ)の間にアジア的段階概念を挿入した時、「外在的に進歩を追跡すること(≪現在から未来を考察すること・現在を止揚していくこと≫)が、同時に内在的に退歩を追跡すること(≪人類史の母胎・母型・原型・基層にまで歴史を過去へと遡及して考察し追究していくこと≫)と同義だという方法を、歴史概念にする以外にはない」ということを萌芽の形で示していた。したがって、吉本は、現在でも通用する歴史認識・世界認識の方法を確立するために、マルクスの読み替えを行った。このことは、先のマルクスの『先行する諸形態』の考え方から推測することができる。したがってまた、吉本は、「歴史の外在(文明)史的な未来を考察する」と同時に、もっと人類史の母胎・母型・原型・基層としての世界普遍的に存在したアフリカ的・縄文的段階にまで遡及して考察し追究する時、両者の考察と追究を同在させる時・同時化させる時、すなわち、このような方法で歴史をトータルに考察する時、はじめて現在でも歴史哲学は成立することができる、と述べた。したがって、吉本は、アフリカの現在的課題について、「固有アフリカのエリートたち……アフリカに植民地をもっていた西欧先進国の外在(文明)史的指導者」や「内在(精神)史的なイデオロギスト」ばかりでなく、「いまでも採取食糧でしのいでいるいちばん未明の住民たちも」、一方通行的一面的に「一様に近代主義(≪西欧近代を頂点とする近代主義的進歩史観≫)を基準として」、外在的な「文明の進歩性と遅延性との課題に単純化して」、「その政策や利害の追及」をしているだけであって、したがってトータルな歴史認識の方法と歴史の究極的総体的永続的な課題を自覚して「その政策や利害の追及」を行っていないから、それでは全くの片手落ちである、と述べたのである(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。

カ)現在から未来に通用する、吉本隆明のトータルな歴史認識・世界認識の方法は、次に引用する言葉に尽きると言っていい――①「現在でいえば、……アジア的ということを言う場合、……自分が現在いる社会的な場所を段階論的に自分で規定して、その規定に対して、前規定となるものと未来規定になるものの二つを問題にすればいい」。「天皇制以前の問題を……(≪日本列島の≫)弥生時代より縄文時代だとしてそれを掘っていく(≪縄文時代にまで遡及して考察していく≫)だけだったら、日本におけるアジア的・オセアニア的混合状況が、あるいはキリスト教的問題を加味した日本における天皇制を含めた宗教が、(≪人類史的・世界史的な≫)世界宗教の問題に到達するとは思えません。(≪したがって、この現在に立脚して、≫)天皇制以前の土俗性を掘ること(≪縄文時代にまで遡及して考察し追究していくこと≫)と、高度資本主義社会(≪高度消費資本主義社会・情報科学や情報技術の発達した高度情報社会≫)はこれからこうなっていくに違いないという問題(≪未来を考える問題≫)を掘ることが、同一の方法でなされなければ駄目だというのが僕らの歴史的な考え方です。そこのところまでいかないと、日本に流布されている宗教性が世界的に開かれていって、その一部分になり得ることはない」(『吉本隆明が語る戦後55年 7』)。②「わたしたちは現在、内在の精神世界としての人類の母型を、どこまで深層へ掘り下げられるかを問われている。それが(≪人類史の母胎・基層であるアフリカ的段階にまで遡及して考察し追究することが≫)世界史の未来(≪超西欧の段階の現在を包括し止揚したところに想定される未来≫)を考察するのと同じ方法であり得るとき、はじめて歴史という概念が現在でも哲学として成り立ちうるといえる」。ここで、人類史の母胎・母型・原型・基層であるアフリカ的・縄文的段階にまで遡及して考察し追究するという場合、その段階を「野蛮、未開、無倫理、残虐」として把握する外在的な文明史的観点と、その段階を「情念が豊饒に溢れた感性や情操の世界」として把握する内在的な精神史的観点の二重の観点を必要とする。「文明化を歴史の生理(≪自然史的必然・歴史的無意識≫)とみるかぎり、自然のままの成り行きにまかせるほか方途はありえない。それが現在のアフリカの問題の根本にひそんでいる。この根本にある課題は文明的な環境が早く進んだ地域と遅く後を追っている地域とが、いずれにせよ均等化するところへ集約されることでは解決にならない。なぜならアフリカ的な段階には人類の原型的な課題がすべて含まれていることを掘り起こしえなければ、たんに進みと遅れ、進歩と停滞、先進と後進の問題に歴史は単純化されてしまうからだ。人類は文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」。「アフリカ的ということを段階として設定することは人類の原型的な内容を掘り下げることが永続課題だとすることと同義である。(中略)わたしたちは現在の歴史についてのすべての考察をアフリカ的な段階を原型として組み直すことが必須だとおもえる。アフリカ的な段階のあらゆる初原的な課題を、すべて内在(精神)史化することが、同時に未来的(現在以後の)課題を外在(文明)史として組み上げることと同義と成す方法こそがこれに耐えうるとおもえる」(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。③「わたしがいまじぶんの認識の段階をアジア的な帯域に設定したと仮定する。するとわたしが西欧的な認識を得ようとすることは、同時にアフリカ的な認識を得ようする方法と同一になっていなければならない。またわたしがじぶんの認識を西欧的な帯域に設定しているとすれば、超現代的な世界認識へ向かう方法は、同時にアジア的な認識を獲得することと同じことを意味する方法でなくてはならない。(中略)わたしはじぶんが西欧的かアジア的かアフリカ的かについて選択的である論議の不毛さに飽き飽きしているし、現状で理解できる表面の共通性で、国際的という概念の範囲を定めている国際的と称する認識にも同調する気はまったくない」。「人類はかならず歴史の過程で、古代と原始時代とのあいだの時期に、アジア的という段階を普遍的に通った……。ヨーロッパは割合に速やかにその段階、つまり農耕社会段階を処理していった。人工化して工業も発達させ、それに伴う文明や文化も育てていった」。「ところが地域としてのアジアは、アジア的段階をかなり長いあいだ、日本でいえば古代から近世の終わりぐらいまで、……アジア的という段階のままで、農耕のやり方もスキとかクワとか、さしてかわりばえしないやり方できた」。「歴史段階的な普遍性と、地域的に残っているものと、二重の意味を含ませてぼくらはアジア的というふうにいっている……」。「(≪歴史段階的な≫)アフリカというのをよく見て分析するということと、高度資本主義がどういくかということを分析するということは、……おなじことになる」(『母型論』)。④「現存する日本の社会は、……アジア的な社会に西欧的な社会の問題が混淆しているとか、西欧的な社会という構造のなかに原始未開の社会、アフリカ的な社会の構造を引きずっているとか、いろいろ言えると思いますが、現存する日本が、国家的にも、社会的・制度的・人種的にも、(≪世界史・人類史の≫)アフリカ的世界(≪縄文的世界≫)を含んでいるとしたら、それを徹底的に追及していくことが、日本のこれから先の問題を導いていくことと同じでなければ駄目だということです。過去や歴史的現在を考える考察と、現在的歴史と言いましょうか、現在から先の歴史を考える考え方が違う方法であったら意味がない。(≪その場合、≫)歴史という概念自体が、成り立たないと僕らは原則的に考えているわけです。僕らが……「日本語以前の日本語(≪奈良朝前の日本語≫)」と言っているのは、それをはっきりさせる方法がないと、これから後(≪未来≫)の問題は本当はよくわからないんじゃないかという感じ方が実感的にあるからなんです」(『吉本隆明が語る戦後55年 6』)。⑤「たえず現在を止揚する」というのは「現在論」である。すなわち、現在の「構造をはっきりつかまえられなければ」、「新しい資本論あるいは資本主義論ができなければ、未来の構図なんか出てくるはずがない」。したがって、資本主義の「未来からの視線」・「死からの視線」(これは、「世界視線」に対する「水平線とか地平線から」の「普遍視線」のことである)は、「未来の無階級社会のイメージから見てだめな現在というのはたえず止揚され」なければならないという未来の視座から考えている「永久革命論」の埴谷雄高とは違う(吉本隆明『ハイ・エディプス論』言叢社)。⑥「ハイ・イメージというのは、現在と現在以降の一種の共同幻想」である。この共同幻想を考えることは、世界視線である無限遠点からの「鳥瞰図の時間軸」を「逆に過去を古代のほうに遡った先の共同幻想」を考えることと等しい。したがって、『共同幻想論』においては、「一番古い文学作品で古代的な共同幻想を辿ればよいと考えていた」が、『ハイ・イメージ論』では「共同幻想はもう少し以前にまで拡張できると考え」た。「そこまでいけば民族語という形では取り出せないというあたりまでは、遡って辿ること」ができる(『ハイ・イメージ論』)。⑦「一般的に文化あるいは文明のおくれた地帯とか、遠いところ、そういう空間的な概念は、本当はそのまんますぐに時間的な概念に換えられなければいけない……換えられる原則がなければいけない」。南島を根底的に掘り下げていくと、「日本の統一国家、いいかえれば天皇制国家よりもはるかに以前に、はるかに根底深いところにゆきつきます。そうしますと、天皇制国家の起源がいかに脆弱な根底しかもっていないかという」ことが分かる。「そういう意味あいでは、(≪南島は≫)ちっとも辺境でも離れ島でもありません。やはり歴史の中で、位置づける意味を持っています。そういう意味をふまええないような本土復帰運動、沖縄奪還運動というのは、一種の民族主義的な形になってしまいます」(『敗北の構造』「宗教としての天皇制」)。⑧南島の問題は、「単に政治的に現在を通過してゆく問題としてのみじゃなく、一個の強烈な世界史的な課題をになって、われわれの眼前に現れてこなければなりません」。南島の「問題であることによって、同時にすべての辺境とか、後進国とか呼ばれている地域の問題でもあり、その課題はただちに世界の歴史的現在の課題に<指向変容>しうるものでなければ、無意味であるといって過言でないと存じます」(『敗北の構造』「南島論」)。

 ここにおいて、吉本にとって、「アジア的」段階とは、権力が経済的基盤を農耕と労働地代を包括した生産物地代における「貢納制」を基本としていた段階のことであり、「自分が現在いる社会的な場所」の「段階」とは、人類史における超西欧的段階(高度消費資本主義的段階)のことであり、「アジア的という……場合」の「前規定」・前段階は、プレ・アジア的段階(人類史の母胎・母型・原型・基層としてのアフリカ的・縄文的段階)のことであり、現在に立脚してこのアフリカ的・縄文的段階にまで遡及して考察し追究するということは未来を考えることであり、そしてここで「未来規定」・超西欧的段階の次段階とは、現在を包括し止揚していくことであり――すなわち、それは、還相的な究極的永続的課題としては、資本制的生産様式(等価交換価値論)とは異なる新たな生産様式(人類史の母胎・基層であるアフリカ的・縄文的段階にまで遡及した歴史的批判的な調査・解明に基づく、等価交換的価値論を包括し止揚した高次の贈与価値論)を構成していくことであり、往相的な過渡的緊急的課題としては、現在の資本制的な作品や商品を超えた新たなそれらを創造していくということである。この吉本の歴史認識の方法は、丁度、人間に「不幸な結果をもたらす積極的なメカニズムとはどんなものか」を把握することを主眼としたミシェル・フーコーが、「搾取を告発するかわりに、生産を分析した」マルクスの読み替えであるように、吉本のそれは、「先行する諸形態」におけるマルクスの方法の読み替えである。
 吉本は、アフリカ的段階の設定のモチーフを、次のように述べている――人類史における未明の社会に世界普遍的に存在する「風習や生活を現在も保存させながら、同時に西欧やアメリカの近代文明の洗礼をうけて高度な文明社を実現した諸都市を現存させている『アフリカ』大陸を典型として撰べば、世界のどの地域にもあてはまる普遍性をもった」アフリカ的「段階」という概念を取り出すことができる。したがって、このアフリカ的「段階」の設定のモチーフは、人類史の母胎。基層にまで遡及し追究する史観の拡張において、「人類史のいちばん多様な可能性」を有するその概念を、世界普遍性を有する人類史の母胎・母型・原型・基層・基礎的「段階」概念として再構成しようとする点にある。なぜならば、「十九世紀の西欧資本主義の興隆期」の西欧近代社会を人類史の頂点として考えられたルソーやヘーゲルやマルクスの近代主義的な歴史観においては、人類史の母胎・基層としてのアフリカ的段階も、また超西欧的段階(高度消費資本主義的段階)の未来(現在を包括し止揚した次段階の構成の課題)もその視野に入ってこないからである、すなわち両者を構造化できないからである。言い換えれば、そのモチーフは、「プレ・アジア的な世界としてのアフリカを、時間と空間を同時に共有する段階という概念にまで煮つめると、アフリカ的段階にどんな特性があるのか、またどれだけ(≪それは世界的≫)普遍性をもちうるのか」ということの解明にある。なぜならば、「ナショナルなもの、日本的なもの(中略)とインターナショナルなものを対立概念と考えて、インターナショナルなものは普遍的なもので、世界的なものだと考える考え方は……疑わしい」のであって、「ナショナルなものと対立するのは普遍的なもの」だからである((『吉本隆明が語る戦後55年 7』)。「時間(≪人類史的・世界史的≫)と空間(≪地域的≫)を同時に共有する段階という概念」、「連続性と断続性」の構造としての段階概念とは、例えば地域・アジアにおけるアジア的段階概念は、地域・アフリカにおけるプレ・アジア的(アフリカ的)段階概念を包括し止揚した概念のことである。したがって、地域・西欧における西欧的(生産資本主義的)段階概念は、そのアジア的段階概念を包括し止揚した段階概念のことである。したがってまた、超西欧的(高度消費資本主義的)段階概念は、現在を止揚した、すなわちその西欧的段階概念を包括し止揚した段階概念のことである。そして、この段階概念に依拠して言えば、空間(≪地域的≫)概念は時間(≪歴史的≫)概念に指向変容できる概念であるから、地域・西欧であれ、人類史におけるアフリカ的段階とアジア的段階を経由してきた、と言うことができる。この時、例えばフレイザーの言う文明の尖端にあった地域・西欧にも残る自然宗教としての「樹木崇拝の名残り」を論理的に根拠づけて説明することが可能となる(『金枝篇』)。また、外部の観点を持たない臨済禅の僧が、アジア的日本的な禅思想の直接的な言葉で、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」(『フーコーと禅』)と語った時、その語り方は、ほんとうはただ、「精神と自然との直接的な統一の段階」(ヘーゲル『哲学史序論――哲学と哲学史』)が世界普遍性を持ち得た、すなわち自然を原理としていた人類史のアジア的段階においてのみ可能なことなのである。したがって、この段階概念に基づいて言えば、自然に対する最大限の利益の享受と感謝の念が浸透し・人と樹木や動物との情念の交流ができ・山川草木に霊(神)が宿ると考える内在の精神は、人類史・世界史のアフリカ的・縄文的段階においては世界普遍的に存在していた、と言うことができる。したがってまた、この内在の精神は、地域・黒人アフリカにおいてだけでなく、縄文期にも、アイヌにも、白人進出以前の二万年前から先住する征服併合された被支配民である北米インディアンにも、オーストラリア先住民のアボリジニにも、世界普遍的に存在していた、と言うことができる。

 この吉本の歴史認識・世界認識の方法は、『敗北の構造』「南島論」・「南島の継承祭儀について」、『家族・親族・共同体・国家 日本~南島~アジア視点からの考察』、『アフリカ的段階について 史観の拡張』、『<信>の構造3 吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「共同体論について」・「国家と宗教のあいだ」等々に貫徹されている。


【D】吉本の南島論――その課題である天皇制を相対化し無化するための諸観点
ア)
「日本の国家というのは、近代国家として、せいぜい百(≪四、五十≫)年、それから日本の古代国家・律令制国家・天皇制国家としてせいぜい千数百年です。それならば、天皇制国家以前に(≪すなわち原日本に≫)、国家以前の国家はなかったと考えたら、歴史をまちがうことになる……。……それ以前に(≪すなわち原日本に≫)、国家以前の国家というのは」あった。国家以前の国家を考察するという場合、「せいぜいさかのぼって千数百年」の「弥生式国家は、他愛のないもの」であって、「少なくとも四、五千年の範囲でわが国家(≪わが原日本の国家≫)というものはかんがえられ」る。また、それと同じように、日本列島には、「旧石器時代またはそれ以前から」先住民・原日本人が「住んでいた」のであって、決して天皇制国家成立以降においてではないのである。この認識と自覚は重要である。

イ)観念の共同性(共同幻想)の問題――すなわち、制度的政治的問題の観点からすれば、原日本・原日本人・原「日本の歴史」と、経済的基盤を農耕に置き・人類史のアジア段階における生産様式論――すなわち、土地は村落の所有、さらには総括的な共同体の統括者・専制君主のものという土地の総括的な共同体所有と貢納制をとった「天皇家の歴史」・「初期の大和朝廷以降の国家」の歴史は決して同じではなく、前者の歴史の方が後者の歴史よりも「ずっと古く」、また前者の歴史は、人類史において世界普遍的に存在していた人類史の母胎・母型・原型・基層であるアフリカ的・縄文的段階にまで遡及できるものを持っている。

ウ)神が「高千穂の峰に天降」るという信仰は、「縄文時代あるいは弥生初期からあった巨石・磐座・樹木信仰と同じもの」である。また、「初期の天皇が大和盆地」に入り、「そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のやり方と同じ」である。すなわち、それは、「一種の巨石信仰あるいは樹木信仰、……あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくる」という類型に入る。聞得大君の即位式・「お新下し」の場所は、ニライカナイからやってくる神々が降臨する御嶽である。とすれば、その信仰は、天皇家・「農耕民に特有な信仰」というよりも、それよりももっと古い、そこに「前からいた先住民」の「信仰」と言うことができる。

エ)天皇制を相対化し無化するために、日本「民族あるいは種族としての言葉以前、つまり種族語になる以前の言葉」にまで遡及して考察し追究する必要がある。「種族語になる以前の言葉」すなわち旧日本語は約「30%から40%くらいの割合で、南と北の方の言葉にのこっている」。例えば「琉球語とか、もっと先の八重山語というふうに限定してもいいんですが、そこでは三母音……『あいう』しかないと考えます」。「例えば『雲(くも)』という言葉は五母音(中略)だけど、三母音だとしたら『O』がないから『くむ』になるわけです。琉球語では『雲』のことを『くむ』と発音します」(吉本隆明・北山修『こころから言葉へ』弘文堂)。吉本は、「三母音の言葉の方が古くからあり、日本語の基層になっている」、と述べている(吉本隆明他『吉本隆明の文化学』三交社)。「奈良朝以後に、漢字を借りて表意的、また表音的に文字に表されて古典語とか近代語とか呼ばれているものを日本語とかんがえると、日本語という枠組みからはみだしてしまう表意や表音」があり、「それは『記』『紀』の神話や神名のなかに、また『万葉』や『おもろさうし』や『アイヌの神話』や日本列島の『地名』のなかに、遺出物のように保管されている。そこで文字表記がなされなかった以前まで遡行して、日本語とはなにかを考える必要がある」(『母型論』)。

オ)天皇制の相対化と無化の課題を日本における宗教祭儀の問題として扱えば、南島の視点から宗教的祭儀を調べ、その新しい形態とその古形を調べることで、天皇制固有のものとされてきた宗教祭儀を相対化し無化することができる。宗教性の基本的性格は、ひとつは、祖先を信仰するという、南島に「宝庫のごとく保存されている一種の祖霊信仰」にあるから、天皇制における宗教性は、古形としてのそれではなく、それよりも新しい形態である。この南島に「宝庫のごとく保存されている一種の祖霊信仰」の宗教性の段階では、「宗教性の観念が、少なくとも家族の共同性から逸脱しないで出てくる」。もうひとつは、「海の向こうには神の国」・「常世の国」・「ニライカナイ」があって、「そこから神がやって来て村々にお祝いをしてまた帰って行くという、来迎神信仰」があり、その本質は「それが共同宗教だという点」にある。この「来迎神信仰にともなって、まず田の神信仰、稲作到来信仰が現れる」。それが共同宗教という意味では、それは支配へと至るところの、マルクスのいう宗教から法へ、法から国家へと登りつめる権力としての宗教である。前者の祖霊崇拝と、後者の来迎神信仰との混在として現れたのものが、「日本の<本土>でいえば、近代国家における天皇制、あるいは天皇における世襲祭儀、つまり大嘗祭」の中にある。そうした「宗教的威力、権力が、どのように継承されるかというのが、大嘗祭の問題」である。世襲祭儀には、第一に、氏族共同体から前氏族共同体の範疇を出ないところで成立していた南島のノロ継承祭儀があり、第二に、琉球王朝における制度的表現であったノロの最高位としての聞得大君になるための<御新下り>儀式があり、第三に、天皇の世襲大嘗祭の儀式があって、その「共同宗教としての祭儀の中に、農耕祭儀的な要素が見え隠れする」ところに三者の共通性がある――「ノロや聞得大君の継承の祭儀と天皇の大嘗祭の祭儀に共通するのは、あくまでも宗教的<威力>の授受なのですが、同時にその祭儀には、農耕祭儀、稲作祭儀のあり方が、潜在的に見え隠れしている」。そして、「地域的な相異は時間的な相異に変換できるという考え方からゆきますと、田の神行事とかノロ継承の行事のほうが、天皇の世襲大嘗祭や聞得大君の御新下りより、(中略)時間的に古形を保存している」と言っていい。ところで、近代国家を<政治的国家>として捉えるということは、資本主義社会を前提とするということである。つまり現在、産業構造的には天皇制の基盤であった農耕・農耕村落共同体は解体されているから、政治権力としての天皇制・制度としての天皇制ファシズムはほとんど解体していると言える。それだけではなく、戦後憲法の象徴天皇制の規定により、憲法上も政治権力としての天皇制の問題は終焉していると言える。しかし、天皇制は「現在、資本主義の〈影の部分〉」として、「〈政治〉的な標的としては副次的なものに過ぎない」が、「<歴史>的に根底をつきくずさなければ」「一木一草にまで染みついているという問題は解決」できない、すなわちその問題を止揚し相対化し無化することはできない。政治的権力と宗教的権力を有した天皇制が成立していたのは奈良朝以前の初期天皇制の時期だけであり、天皇制的な専制君主が、「機構化されたのは律令官制による」が、「日本的なデスポットとしての天皇制」の特徴的威力は、「政治的権力に直接たずさわっているときも、間近にあるときも、遠ざかって棚上げされているときも、<天皇制>が一貫してその背後に<観念>的な<威力>を発揮していたという事実にある」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。
 国家を共同幻想の一形態と考えず、土台――上部構造論において天皇制の問題を扱えば、戦後資本主義の成熟と高度化、すなわち市民社会の成熟によって天皇制の問題はほぼ解体・終焉したことになるが、天皇制のもうひとつの側面である宗教的権力(宗教的威力)・共同幻想としての天皇制は観念的遺制として今も残存し続けているのである。このように、「象徴天皇」という曖昧な規定と共に、宗教性としての天皇制は、観念的遺制として残存しつづけているから、いつでも、日本の自然思想の伝統である世界普遍性を無視した民族性を強調する権力は復古してくるだろうし、また自己と異質な外部的な産業的思考や個人主義的思考に対しても「権力」として復古してくるのである。したがって、その起源である大和朝廷が成立した以前にまで過去を遡及して考察し追究し、そうした自然思想の伝統を相対化し無化していく必要があるのである。
 なお、現在でも天皇が行っている農耕的な宗教祭儀は、中国ではそれ以前から行われていて、日本の天皇制に固有なものではない。

カ)吉本の南島論の一つの主題は、天皇制を相対化し無化する点にあった。吉本は、南島に古くからあった、人類史におけるプレ・アジア的・アフリカ的・縄文的段階に属する「氏族母系的な制度」の名残りに、すなわち「母権的に、女性が宗教的なことを司って、男性の「その兄弟が現実的・社会的・政治的なことを司る」制度の名残りに関心があった――例えば、宗教的権力として聞得大君は、政治的権力の尚真王(男)の妹(女)であったが、大和朝廷以前の邪馬台国では、姉の卑弥呼(女)が宗教的権力を掌握し、その「御託宣」の下にその弟(男)が政治的権力を執行していた――。なぜならば、吉本の『共同幻想論』の意味は、①マルクス<主義>的な経済的社会構成とその「上部構造としての国家や宗教制度」という経済決定論の考え方を止揚し変成させることにあったからだけでなく、②「日本の南島を中心とした風俗習慣が、一種の母権制を保存していて、その風俗習慣を追究していくことで、共同幻想という考えのなかに、歴史的なもの(≪世界普遍性としてある人類史におけるプレ・アジア的段階とアジア的段階の差異性≫)をはめこめる」ことにあったからである。すなわち、この後者の南島における「母権制の遺制」は、日本「本土における天皇制以前の段階を保存していると理解」して考察し追究していけば、南島から日本本土の「天皇制」を相対化し無化できるからである。したがって、ほんとうは、南島出身の「沖縄学者、民俗学者」・知識人は、この観点に立脚して南島から日本の国家・天皇制的遺制を相対化し無化すべきであったにもかかわらず、その学問的なモチーフを、日本本土の日本人との同一化・「差別」の「解消」に置いてしまった(『吉本隆明が語る戦後55年 3』)。


【E】婚姻・家族・親族・共同体・国家としての南島論
(『知の岸辺へ』「家族・親族・共同体・国家 日本~南島~アジア視点からの考察」弓立社を基軸にして)
(1)人類がとってきた婚姻の段階――婚姻の三形態
 この婚姻の三形態は、どこの地域においても――すなわち、南島、日本本土、アジア諸国、太平洋の島、ヨーロッパにおいても、世界普遍的に存在していた。
ア)「共同婚」の段階――この婚姻形態は、「集団婚」、「自由な婚姻」ではなく、「男・女の結合が共同体によって規制された形態」・共同体によって「先験的に、……習慣的に、……掟的に規制された婚姻形態」であり、婚姻形態の原型である。したがって、南島、日本本土、アジア諸国、太平洋の島、ヨーロッパも、この人類史におけるアフリカ的・縄文的段階の婚姻形態を経由した。
①この婚姻形態は、村落共同体における「成人式を終えた男女が共同体の共通の広場」、すなわち「共同の……住居」・「夜なべ宿」(「琉球、沖縄」)、「若者宿」・「寝宿」、という男女の集まりにおいて成立する(「野遊び」・「浜遊び」という共同の住居においてではない形態もある)。そして、これらの宿は、「部落共同体の共同性……の象徴」・「共同体の権威の象徴」である。
②「共同体の各成員」や「共同体の中の家族」にも属さない、それゆえにあくまでも「部落共同体の共同性」に属する、それら「部落共同体の共同性……の象徴」・「共同体の権威の象徴」である宿は、婚姻における<地縁性>としての「居住性の原点」となる。
 したがって、このことから言えば、そうした宿で「自由に相手を選択して、……婚姻が成立」して、「実質上の婚姻が済んだ後で親の承認を得る」という「自由恋愛」的な形態が「一世代または二世代前にあった」(吉本が発言した昭和47年を基点に考えて)という民俗学者の報告は間違いである。その考え方の誤謬は、人類史における「共同婚」の段階についての無知から生じている。

イ)「招婿婚」の段階――母系的な家族形態、「家族の財産の所有権とか祭の継承」等が「母親から娘へと……相続」「継承され」ていく家族形態における婚姻形態である。娘のいる家に、親の「黙認」の下で、「一定の入口……から男性がしのんで……現実上の婚姻が成立する」婚姻形態である。
 7,8世紀をその起源とし、日本の近代国家の「最高の統治者」・「最高権威」・「最高威力」とされてきた天皇一族の婚姻儀礼――すなわち、「けしきばみ」(婿方からの求婚のほのめかし)から始まって、「文使」(婿方の近親者が求婚の打診に行く)、「婿行列」(夜に婿が嫁の家に行く)、「火あわせ」(両家の結合としての共火儀礼)、「沓かくし」(嫁方が婿のはいてきた履物を隠す「入婿の承認」)、「衾覆フスマオオイ」(性行為としての「共床儀礼」)、「後朝使キヌギヌシ」(共床儀礼から三日目の「露見(三日餅)」まで婿は嫁方に通うのだが、その間に、男女は「恋歌をとり交わす」)、「露見トコロアラワシ(天皇一族では三日餅ミカノモチ)」(嫁の親への露見、嫁の親の承認、「嫁方でついた餅を、親とか近親者が一緒に食べ」る儀式)、「婿行列」(婿は、母系的な嫁方の家族の一員として、婿方の親とか近親者に挨拶回りを行う)で終わる婚姻儀礼は、このように、現在でも、形式上は嫁をもらうというようになっているが、儀礼的には、「日本でいえば奈良朝末から平安朝にかけて」行われた招婿婚段階の儀礼(意識)にある。この招婿婚段階にある天皇一族の婚姻儀礼一つとってみても、原日本的・原日本人的な(1)の「共同婚」の段階より新しいのであるから、婚姻形態を(1)にまで遡及して考察し追究していく時、理念的には、天皇制を、天皇制<国家>を、相対化し無化することができる。

ウ)家族婚・見合婚の段階――母系的な家族形態ではなく、「母方、父方、男性方あるいは女性方、それが同等の重さを持って考えられ」ている双系的な家族形態における婚姻形態である。両家の仲介人による見合の後で相互の承認の下に婚姻が成立する。


(2)古代の家族形態、古代家族の空間と時間の構造
 対幻想とは、個体の自己意識が、<性>・<対>の意識を伴わせた関係のことである。したがって、吉本は、個体と個体との関係は、依然として個体と個体との関係であるとする現象学的な人間理解を根本的に批判して、個体が他の個体、すなわち他者と関係する場合の根源的な関係の仕方は、男性または女性としての人間という一対のペアとなった<性>的関係(<対>幻想・<対>観念)である、と述べている。「そこで、家族というのが問題になるわけですけれども、家族というものはなにかというと、対幻想の領域を意味しております」(『吉本隆明全著作集14』「個体・家族・共同性としての人間」)。「家族とは何か。それは人間の個体が性」・「男または女」として現れざるを得ない場所である。「そういう世界が現実的な場面、場所を獲得すれば、それが家族である」。ここで、性的な関係とは、生理的なものと観念的なものとの総体である。この「家族」・「家族の集団の共同性の次元を、ある共同性がいささかでも離脱したとき、国家を形成する<可能性>を得たことを意味する。その場合、国家と共同体を同等として扱う場合、まず「家族または家族集団の共同性をいささかでも離脱した共同性」であるかが問題となる。しかし、例えば「法的に、あるいは宗教的に、風俗、習慣的に、ある一つの規範を成立せしめた」場合、その規範の大きさが、国家の「さまざまな公的機関が行使する規範の大きさ」と同等であると考えられる場合、共同体という概念と国家という概念とを同等とみなし得る。「しかし、しばしばその共同性の規範が、国家的規範と同じ大きさで現われるとは限らないことがありうる」。その例証――現在の日本の国家と市民社会との関係において、日本の国家は法的な意味での国家として、憲法を持ち、法律を持ち様々な規定と規制がなされている。それに対して、私たちは経済社会構成体を中核とする市民社会の中で、生活している。この場合、私たちは、日常的には、国家の憲法とか法とかを念頭に置かずに生活しているのであるが、そのことは、「市民社会(≪共同体≫)の概念のほうが国家(≪共同体≫)という概念よりも大きい」・広いということを意味しているのである(『敗北の構造』「南島論」)。
 このように、家族の本質は性そのものにあるから、家族形態は、その性に基づいて発展していく。
 「742年における部落のおさぐらいの位置にある人」の戸籍――例えば「大和朝廷の根拠地に割合に近い」、当時の先進地域である「近江の国の大友但波史族広麻呂計帳」(家族形態の戸籍)には、戸主や寄口や奴隷階級である「奴と婢」の記述がある。
 方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>に依拠して言えば、その空間的地域的な近江の国の家族形態の中に――すなわち、人類史におけるその段階的な断層・差異性を累積させた時間の中に、日本の・「日本人の歴史の婚姻形態の全ての段階」を見出すことができる。すなわち、その家族形態の戸籍から、<共同婚的段階>――奴と婢は、「若者宿とか、共同体が共有している箇所で、婚姻を結ぶ共同婚的段階の婚姻形態以外に想定できない――、<招婿婚的段階>――村落「共同体から疎外されているけれども、「自分自身は……共同体の基本成員と違った次元に、家族形態を取ることができなかった……戸主の近親者、あるいは非近親者」であるが「何らかのつながりのある者」である寄口は、「家屋としても居住性としても戸主の居住性と別個」の妻と同居できる「棟を与えられるとか、そういうふうな形で存在する以外」になかった者であるから、この寄口においては招聘婚的段階の婚姻形態を想定せざるを得ない――、<家族婚的段階>――「戸主あるいは、その戸主一族の直接家族における家族婚的段階の婚姻形態を想定できる――、というものを「想定することができる」。言い換えれば、その先進的地域における一家族形態は、「人類がとってきた婚姻形態の様々の段階を包括」している・時間累積させている、ということである。
 したがって、家族形成(その意識形態・婚姻形態・家族形態)の在り方を、空間的な地域的差異性の比較に求める――すなわち、先進地域(当時の関西)と後進地域(関東、例えば安房国)との差異性の比較に求める古代家族形態の研究者の研究意識・方法は、一面的部分的な「単純な発展段階論」のそれであるから、そこにおける認識を全体性として押し出す時、根本的な誤謬と迷妄性に陥ることになる。

 さて、家族・家族の集団と、国家・共同体を媒介するものは、親族概念であり、親族組織・親族体系である(『敗北の構造』「南島論」)。

ア)家族の共同性から親族の共同性への転化――兄弟姉妹関係と双系的親族関係
①家族形態における性的関係と親族展開における性的関係の差異
 <家族形態>における性的関係は、「性的親和性あるいは反発性」を基本的な基軸とする。
   <親族展開>における性的関係は、「性的親和性あるいは反発性」と「性的なタブー・禁制」との同在を基本的な基軸とする。すなわち、<親族展開>における性的関係には、「性的なタブー・禁制」の概念が含まれる。
②南島における親族組織の構造
◎親族展開は、「地縁優勢の契機を持」ち、「宗教的結合の契機を保存する」、性的な関係としての兄弟姉妹を基本的な基軸として発展する。
 「所有権……宗教権……が母親から娘(≪娘がいない場合は、「父方のほうの伯母・叔母」≫)に相続されていく」母系的な相続形態において、「男の兄弟は家族から出ていくより仕方がない」(「出ていかなくても、その家族の直系の相続人からは除外される」)。この場合、その兄弟は「階層によって」、共同婚的形態をとるか、招婿婚的形態をとるか、家族婚的形態をとるか様々であるが、「その直系の家族からは疎外されていく」。また、この場合、その男の兄弟と姉妹との関係を持続させる根拠は、第一には、「祖先を同じくする」という点にあり、第二には、「様々の儀礼習慣の中」――例えば、「オナイ髪関係」という「儀礼習慣」の中に見出すことができる。南島には、兄弟と姉妹との関係は、禁制において直接的な性行為ないのであるが、「長く漁に行く……とき」、「無事にうまく漁がいくように、その漁師の妻ではなく姉妹のどちらかの髪の毛を持っていく」という「オナイ髪関係」の「儀礼習慣」の中に存在している。このような兄弟・姉妹関係は、家族の共同性を親族の共同性へと転化させ、親族展開を発展させていく根本的な基軸である。
 こうした「家族の分化過程において、生理的な意味での性のタブーはますます強固になり、かつ可能性としてはますます減少するにもかかわらず、親和関係としては緩くはなってもわりあいに持続しうる、究極的には断ち切れない関係」、そうした「観念の血縁性」が兄弟姉妹の関係性にはある(『敗北の構造』「南島論」)。
 現在は、「直系的、単系的な家族関係から外れた」、「母方の親戚、父方の親戚」、両者共に、同等の重さを持って考えられている「双系的な親族関係、親族組織」が一般的である。それに対して、兄弟姉妹関係を軸とする親族展開は、「儀礼習慣」として存続している。いずれにせよ、南島には、「兄弟姉妹関係を基軸として展開される親族体系が著しく残っている」という点に「最大の特徴がある」。さらに、それは、家族の共同性から親族の共同性への転化の契機・根拠として重要なものである。
 なお、「いろいろな手伝いをしたり相互扶助をしたり……する『組』」・「寄り集まり」や、一部士族階級の間で行われてきた、男系、父系だけが集まって、一族の共同墓地・門中墓を守る祭祀を営む門中組織は、「二~三百年以上を遡ることはでき」ず、武士道と儒教的イデオロギーに促されてできたもので、「重要なものでもない」し、「家族の共同性から親族の共同性へと転化できる契機を持たない」ので親族組織と呼ぶことはできない。
◎親族展開の基本的な基軸は、それ以外には、第一に「財産権とか所有権とか」の所有の問題があり、第二には「宗教的な祭祀権の継承」の問題がある。


イ)親族展開から共同体への転化の契機、親族形態の終焉と共同体への展開の契機――グスク祖型と血族→地縁変化
 第一に、家族が親族として展開される次元を離脱した共同性を「共同体」と呼ぶ。その契機は、①「祖先」は同じでも「血縁から地縁へ」と転化しやすい、②「<性>的親和性がゆるく、そのため永続しやすい」、③「往古」の母系制において、「宗教的な権威の相続と継承」が母から娘へと相続されていた、という点で、「同世代の兄弟姉妹を軸とした親族展開の仕方」にある。「父系、男系の地縁的な結合」である南島の「門中や組」は、①家族的基盤を持たない、②「近世以前にさかのぼることができない」から、その契機となり得ない。
 第二に、親族組織の展開が共同体へ転化する契機は、①親族名称と親族呼称が一致することにある。②親族組織の展開の仕方が「宗教を表出する」ようになることにある。③親族組織の展開が、倫理的規範、家族の祭祀宗教等宗教的に、土地所有等経済的に、家族の存在の仕方と矛盾をきたすようになった時である。
 共同体に転化した共同性の祖形は、宗教からと、所有関係から考察できる。(『<信>の構造3――吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「共同体の起源についての註」春秋社)。

①親族展開(血縁的結合、村落的結合、集落結合)から共同体への転化の契機
 親族展開(血縁的結合、村落的結合、集落結合)から共同体への転化の契機は、「親族展開の仕方」――すなわち、その肉体的血縁的、「相互経済的(≪土地所有≫等)、宗教的、政治的」関係が、具体的な生活過程においても観念過程においても、「血縁性に矛盾をきたしたとき」・「親族を構成する個々の家族にとって矛盾をきた」した時――すなわち、親族関係がある家族にとっては「全く重荷ではない」(「利益である」)けれどもある家族にとっては「非常に重荷である」(「大変不利」である)という矛盾が生じた時、血縁性を基軸とした「親族展開は終焉」する。ここに、親族展開が共同体へ転化する契機がある。このように、「血縁性に矛盾をきたしたときに出てくる地縁的形態……を村落が取った場合には、それはいわば共同体の萌芽である」。
②共同体の祖型
 南島において、村落共同体における城(グスク・グシク)は、「村落共同体の成員全部の共有地として考えれていた」のであるが、ここは、女性にとって、神のいる、神の「天降る聖所」、「礼拝する拝所」である<御嶽>であり、ここに籠って村落共同体を「守護する神託を得ていた」。また、ここは、男性にとって、他の共同体との抗争の時に、村落を守る砦であった。この共同体の場合、それは、すでに家族と分離した異なった次元に転化している。この村落共同体は、「より大きな共同体あるいは国家に転化」するものである。
 この城(グスク・グシク)には、村落共同体の支配者(首長である按司)の屋敷・「居住地……同時に防衛する城」という意味でのそれ(例えば、琉球王朝時代の首里王府の首里城)があるが、こうしたグスクは、その祖型・古型にまで遡ることができないから、「余り重要ではない」。それに対して、「グスクの祖型」・「古型」を保存している、「村落のはずれの丘陵地……やあるいは平地」にある、「支配、口碑」、「文献」・「口述伝承」などからも不明な「野面積みの石垣遺構」(祭器、土器が出土する)としてのグスクは重要である。ただ、このグスクの遺物だけでは「わが国の奈良朝後期までしかせいぜいさかのぼれない」。しかし、この丘陵地村落共同体は、「稲作農耕以前の丘陵地畑作と狩猟段階を想定することができ」、祖形・古形に近いものと考えられるから重要である。このように、「地勢のうえに展開される考古学的な遺跡の集積や推移と、習俗や制度のような眼に見えない体制が重層された考古学的な様相とは、全く別途なものとみなさなければならない」。この母系的な共同体では、首長が行政権・政治的権力を兄弟が握り、その首長の姉妹が祭祀権・宗教的権力を掌握していた、ということができる。この共同体の土地所有について言えることは、いずれにせよ「グスク――御嶽をめぐる森林の聖域」は「共有地」であった、ということである。そして、「この聖域は、村落の女性神人の所管に属していた」、ということである。
 この「女性神職者(あるいは村落の女性)だけが籠ったり、近づいたりできる場所だった」丘陵地の石垣遺構のグスクは、農耕を経済的基盤とした人類史におけるアジア的段階より前の「非常に古い時代において」、このグスクを中心に、「非常に古い集落が営まれていた」ことを例証する遺構である。そして、農耕が大きなウエイトを占めきたとき、その集落は、丘陵地から平野地へと移る。その場合、その村落共同体は、山側・「丘陵に近いところの森」を、「神聖な場所」(本土のヤシロの代用である「鎮守の森」)、すなわち「森の木自体に神性がある」・「木」に神が降臨するとして、「信仰の対象としていった」。このように、村落共同体が平野部に住居を移した時、「森林信仰」が生じる。南島の「ウタキ」(御嶽)がそれであるが、そのウタキを遡れば、共同体の祖型・古型に辿り着く。(『<信>の構造3――吉本隆明全天皇制・宗教論論集』「共同体の起源についての註」春秋社)


ウ)包括的共同体の形成過程――直列型、略奪型と南島、日本、アジア的共同体
①南島の包括的共同体の形成過程の特徴は、直列型展開・直列共同体形成にある。
 まず、祖型に近い村落共同体・グスクが「幾つか集まって作られている共同体」・「間切」・「マキリ」(「本土で……字」「概念に……該当する」)があって、それが統合して本土で「県」・「郡」概念に該当する中山、北山、南山という三山の共同体(国家以前の国家)が形成され、その内の中山の尚氏が勢力を拡大して武力的に北大と南山を制圧して「琉球王朝(首里王朝)」・統一王朝・包括的共同体を形成した。形成過程は下から上へであるが、体制的には「上から下へ序列がきまる」体制であって、「南島の人々の意識形態……を、ある程度規定している面がある」。この共同体形成の仕方は、世界普遍的な「一つの大きな典型である」。
②日本本土の統一国家成立の起源・包括的共同体の形成過程の特徴は、直列型展開と接合型展開との混合・直列共同体形成と接合共同体形成との混合にある。
 日本本土における後者の接合型展開・接合共同体形成とは、次のような国家形成のことである。国家の本質を観念の共同性として考えた場合、直列型展開・直列共同体形成を辿らなくても、全く違う国家や勢力が「横あいからやって来て」、現にある既存の共同体(支配上層、政治制度、政治権力)を<接木>の構造によってかすめ取れば、国家「共同体の首長として、統合」し「支配する」ことができる。ここに、日本的特殊としての支配の構造がある。天皇制国家(権力)が、国家として、「村内法の規定されている小部落、あるいは小部族を統一」していく支配の構造は、全く異なった支配の側の法をその村内法に覆いかぶせて「接木」して国家形成をしていくというものであるが、その場合、時間の経過とともに、その「継目が分からなくなってしま」うから、「統一国家を形成したものは、もともと天皇制の権力で、古い神話時代までさかのぼれるという一種の虚構がつくられていく」、点にある。氏族共同体の段階では「親族の本質的な要素はあまり消滅」しない。したがって、「地域的、あるいは(≪土地所有をめぐる≫)経済社会的な利害関係の共同性、あるいは排他性から生じてくる共同性とのぶつかり合いの中で、血縁的親和性が、宗教とか風俗、習慣としては保存されえたとしても、制度としては保存されない場合」、その共同体は、「部族的な国家と呼ぶ」ことができる。また、観念の共同性を本質とする国家の場合、「種族が異なり、言語が異なり、風俗、習慣が異なるもの」が、「横あいからやってきて」、自分たちの法等をかぶせて「接木」し、既存の「氏族国家」、「部族国家」、「国家を掌握」し、「グラフト国家」・「接木国家」として統一することが可能なのである(『敗北の構造』「宗教としての天皇制」)。
 また、日本語という場合、その日本語は、一般的に8世紀以降、すなわち奈良時代以降の日本語について言われるように、「日本民族」も、「文化的、……言語的に統一性をもった」ところの「統一国家が成立した以降」について言われる(『敗北の構造』「敗北の構造」)。しかし、奈良時代以降の日本語と起源としての日本語との間には差異があるように、日本民族と起源としての日本人との間にも差異がある。それは何故かと言えば、支配としての天皇制「統一国家を成立せしめた勢力の共同幻想」は、被支配としての先住民(起源としての日本人)の共同体における「法、宗教、……風俗、習慣」等の「共同幻想」と「接木」を行うことによって成立しているからである(『敗北の構造』「南島論」)。例えば、第一に、経済的社会構成を農耕に置いていた支配としての大和朝廷はその法構成において、被支配の先住民に属する呪術的・婚姻的な部分を国津罪として下位に残し、その国津罪に支配の法に属する農耕的な天津罪を「接木」することによって、「支配と被支配との均衡」を企てたからである。第二に、支配としての大和朝廷は、被支配の先住民(起源としての日本人)の言葉である「さねさし」を枕詞として下位に残し、その枕詞に支配の言葉である相武(現在の相模)を「接木」することによって、「支配と被支配との均衡」を企てたからである(『古事記』「さねさし相武(さがむ)の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも」)。このように、例えば起源としての日本語は、「日本語」を成立させた以前にまで歴史を遡及して考察し追究していかなければそのことを把握することが不可能なように、起源としての日本人を把握するためには、「日本民族」という概念を成立させた以前にまで歴史を遡及して考察し追究していかなければならないのである。
③アジア的共同体
 マルクスのゲルマン的共同体の前段階の古典古代(ローマ・ギリシャ)の前に付加したアジア的段階概念は、空間的概念であると同時に時間的な概念、すなわち「時間的な推移形態のひとつ」としてのそれであり、人類史における段階概念でもある。言い換えれば、人類史のアジア的段階においては、空間的地域的なアジアが人類史にとって世界普遍性として成立していた、ということである。したがって、現在の文明史的尖端にある地域・西欧は、アジア的段階に長い間停滞していた地域・アジアとは違って、その段階を速やかに通過したのであるが、やはりアジア的段階を経由してきた、ということである。したがってまた、地域・西欧であれ、アジア的段階以前の人類史おけるアフリカ的段階を経由している、ということであり、それゆえに、地域・西欧にも樹木(自然)崇拝の名残りがある、ということである。このことは、吉本の方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>の例証となる事柄である。片田舎は単なる後進地域・片田舎ではなく、「片田舎……は、……都」であると言うためには、「ある歴史的時間性というものが思想的定義の中に入ってこなければならない」。すなわち、方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>を必要とするのである。その時、トータルな歴史認識・世界認識が可能となるのである(『<信>の構造3 吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「南島の宗教祭儀について」)。マルクスが、「資本制生産に先行する諸形態」において述べていたように、世界史的に言えば、「未開の種族もまた世界史的現在」・「世界的同時性」・「現代性」の中に存在しているのである。この認識と自覚は必要である(『知の岸辺へ』「家族・親族・共同体・国家 日本~南島~アジア視点からの考察」)。
 マルクスの共同体の段階概念の基準は、「土地所有」にある。そして、アジア的共同体の「土地の所有者」は、ひとにぎりの「共同体の……首長、君主」・「その側近」であって、大多数の個々の成員は「土地の私有者ではなくてただ保有しているだけ」、というものである。アジア的共同体の場合、「ひとにぎりの君主、またその周辺のメンバー」・土地の所有者によって、国家は形成される。したがって、個々の土地を保有して耕作するものは、国家の構成員とはならない。そうすると、それら共同体の概念と国家は一致しないことになる。なぜならば、「社会は、そのなかに存在する社会のメンバーが構成するもの」でありながら、「社会の上層に(≪ごく一部の土地所有者を構成員とする≫)国家」があり、社会の構成員でありながら国家に対して「なんら関与していない」とか少ししか関与しないとか「その関与の度合いがまったくちがっている」からである。いずれにせよ、その共同体が、南島的であれ、日本的であれ、中国的であれ、インド的であれ、その共同体は、人類史における<アジア的>段階のそれとして総括できる。この語り方に依拠して言えば、宗教改革のそれを含めて既存のキリスト教は、ローマ・カトリック主義的なそれとか近代主義的プロテスタント主義的なそれとか等々に分けられているのであるが、ほんとうは、それらの信仰・神学・教会の宣教におけるその原理・その認識方法と概念構成は、根本的には、<自然神学>の系譜に属する<段階>にあるキリスト教として総括できるのである。この<自然神学>論についてはすでに述べているので、省略する。

 このアジア的段階においては、専制君主共同体に対して住民は、物神すなわち「霊威(権威)」としての専制の「貢納」(制)――物に付いている宗教的な霊威・霊力を与えられた住民がその専制の政治的権威を受容し貢納する――と、制度と生産物の占有、すなわち賦役を包括した生産物の貢納(制)と、軍役(制)に服することで、土地の使用が認められた。それと引き換えに、専制共同体は、そして日本の場合は小規模であったが、農耕を基盤とした経済社会構成体の維持のために、灌漑工事や河川の整備や軍事的保護都市の構築を請け負った(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。このように、農耕を経済的基盤としたアジア的専制の成立の条件は、水利灌漑工事の請負にある。また、アジア的共同体を大規模な灌漑工事を要した「内陸性」(中国等)と小規模の灌漑工事で済んだ「島嶼性」(日本・南島等)とに分けることができる。日本的デスポット、総括的共同体は、吉本が『常陸風土記』や『古事記』に基づいて述べていうように、大規模な灌漑用水工事を必要とせず、井戸や池を掘る・傾斜地に水を貯水する工事を行う「小規模、狭領域のデスポットだということ」で、「はじめに自然の水源をおさえたものがデスポットに近づき、つぎに小規模な灌漑用水工事を、技術的に手に入れます。この技術は大陸からの導入です。そこで日本的デスポットは、中国の冊封体制に迎合」しながら、「国家本質を手離さない」で「接木国家」を形成していくことを体得していった。したがって、日本独自のデスポットの「解明のひとつは、日本的デスポットの成立過程を、前共同体との関連においてはっきりさせること」にある。また、その「時間的な遡行が、同時に現在的な政治権力にたいするより包括的な、より世界的な把握であるような視点の発見」でもあるという方法が必要がある(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。
 また、日本において、現存する危機に対処し現存する危機を処理しようとするときいつも復古してくるのは、日本の自然思想の伝統である。なぜならば、宗教性としての天皇制は、今でも観念的遺制として残存しつづけているからである。それは、いつでも、世界史的普遍性を無視した日本の自然思想の伝統である民族性を強調する権力として復古してくるだろうし、また自己と異質で外部的な産業的思考や個人主義的思考に対しても「権力」として復古してくるだろう。そしてその場合、それらを支えるのは、どんなにひどい権力の支配をも自然災害を受け入れていくように受け入れていく民衆の意識(共同幻想)であり、いつも個体性を超えていく共同体至上意識であり、村八分の意識であり、反個人主義であり、中央への委任的意識等である。バルト読みのバルト知らずで、「権威」としての天皇・天皇制の護持とその権威と権力の分離による国家体制(国体)を主張する国家主義者である、一方通行的で一面的で独断的で出鱈目な馬鹿げた似非使徒の佐藤優は、メディア的組織性の後光に守られた、まさしく退行的復古的なメディア的著述家に過ぎないのである。天皇制論も、南島論も、状況論も、知識的課題も、思想的課題も、全く持たず、靖国神社を参拝する冨岡幸一郎も同じだ。戦争責任を告白した日本キリスト教団(教会)自体が、根本的な批判も加えずに、講演等に呼んで拝聴してまで、そのような馬鹿げた似非使徒たちを温存させているのだから、どうしようもない。日本キリスト教団の戦争責任の告白は、一体何だったのか? イエス・キリストを頭とするほんとうの教会は、神的側面と人間的側面(徹頭徹尾第一義的に、感謝の応答としてのイエス・キリストへの奉仕・そのインマヌエルの宣教)との構造において存在している。しかし、現にあるそうした教団(教会)は、そうした奉仕としての人間的側面においては破綻していると言えるだろうから、ただ神的側面においてのみ存在している、と言うことができる――第二次世界大戦後において、「私は教会のなかに、破滅に急ぎつつあった一九三三年当時と同じ構造、党派、支配的傾向を見出した」。「公然たる信条主義や教権主義、およびいろいろ賑やかな姿で現われている典礼主義への興味によってよびおこされた関心」を見出した。「私は、前よりももっと明瞭に人間――キリスト者もまた、そしてキリスト者こそ!――がもともと頑なであり、容易に悔改めに導かれえないということを認識したのである」(カール・バルト『バルト自伝』)。吉本は、次のように述べている――「アジア的様式の最たるポイントは、共同体の専制的な遺制が、経済的にも政治的にも宗教的にも、あるいは風俗、習慣としても、たいへん強いということです」(吉本『敗北の構造』「宗教としての天皇制」)。
 吉本は、人類史的・世界史的なアジア的段階概念を、次のように明確化した。
①共同体論としてのアジア的段階概念、すなわちアジア的農耕村落共同体内部の内在的構造の明確な把握の問題である。
②生産様式論としてのアジア段階概念、すなわち土地の総括的な共同体所有と貢納制、土地の共同体的所有と分配方式の明確な把握の問題である。
③政治形態論、政治権力論としてのアジア段階概念、すなわち支配共同体と被支配共同体との関係、アジア的専制、中央集権体制の明確な把握の問題である。
 ①について言えば、農耕村落共同体の規模や、その共同体が育む相互扶助感情や、逆に自分の所属する村落が世界のすべてであるという閉じられた在り方が生み出す未開の心性や村八分や、村落以外のことに対する無関心や、アジア的な風土的自然環境(広大な 砂漠・平地帯を有する、気候・地形)から経済的基盤を農耕においた農耕村落共同体における農耕民(循環と停滞)と神人(進歩と発展の契機)と呼ばれた非農耕民との関係性を扱うものである。アジア的共同体の当初において、農耕以外の職業に携わる人たちは「神人」(民俗学)と呼ばれた。それは、尊ばれると同時にさげすまれる存在であった。神人は、具体的には芸能者・宗教者・鍛冶屋・ハンセン病・非農耕民、ざるやかごを生産する竹細工師、海部民のことであったが、農耕民・狩猟民・海部民は相互転換が可能であった。したがって、経済的基盤を農耕に置いた「農耕種族」(日本で言えば、弥生時代以降)と農耕段階以前の経済的基盤を狩猟に置いた「狩猟種族」(日本で言えば、旧石器時代→縄文時代)は「全くちがう種族あるいは共同体に属」し、後者が前者に淘汰されて農耕社会になるという考え方は、島嶼性の日本や南島では通用しない。例えば、島嶼の日本においては、「海辺に住んで魚あるいは貝を取って暮らしている」村落共同体、種族(「アマベ」・「ハヤト」等)は、「少し内陸のほうに入って、平野部に定着したばあいには、農耕民に転化することができた」。逆に、「農耕をやっていた共同体のある種族」が、狩猟をやろうとすれば、「丘陵地とか山間部」に入って狩猟すれば「狩猟民」に転化することが可能であった――「古代の海人部のひとつの共同体である安曇族」は、「いまの長野県の安曇郡」に入って「農耕を営む」村落共同体を形成した(『<信>の構造3 吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「共同体論について」)。
 ②について言えば、土地の総括的な共同体所有の中における生活のために、共同体至上意識がいつも個体性を超えてしまうアジア的心性や、家族の住居・農具・庭畑地の所有が認められてはいたが、それらも総括的な共同体のものとみなしてしまう感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式が形成されていった。アジア的段階を痕跡もなく速やかに通過した地域・西欧とは異なり地域・アジアは、非常に長い間、自然と停滞と循環を本質とする世界普遍性としてあったアジア的段階にとどまっていたから、そうした心性、感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式が無意識の層にまで浸透していった。また、それらを、無意識の層にまで蓄積させてきた。
 ③について言えば、支配共同体としてのアジア的専制は、被支配共同体に対して支配を及ぼしたが、下層の農耕村落共同体の個々の農民等に対しては具体的に支配を及ぼそうとはしなかった。支配共同体は、従前の村落共同体の掟等を排除するのではなく、<接木>することで支配を完成させた。すなわち、総括的支配共同体は、それ以前からあった下層の農耕村落共同体の、自然的規定や風俗や習慣や文化等にできるだけ手を加えないで温存させていくという支配の形態をとった。

 さて、日本の共同体構成について言えば、
第一に、共同体の首長が政治的権力と祭祀権・宗教的権力を同時に所有している共同体の形がある。この場合、ほとんど男性であるが、生き神様化・「生神化」される。「生神化」された「祭祀権の所有者は、世襲されていくわけですけれども、ただ実際的な祭祀を執りおこなうばあいには、だいたいその生神」は、「じぶん自身ではなくて……代理者(≪「生神の象徴」≫)をたてて、……共同体のすみずみまで派遣して」、農業でも漁業でも「共同体の生産」が「うまくいくような宗教的な意味つけをやっていく」。そして、その代理者は、その祭りの派遣を終えると、「密殺されてしまうこと」があった。そうすると、共同体の個々のメンバーは代理者に選ばれることを拒否わけであるが、その場合、代理者の選出を命令された共同体は、「諸国を流れ歩いてくる……浮浪者を……つかまえてきて、……その浮浪者を代理」に出した。
第二に、共同体の首長は、祭祀権・宗教的権力の所有者である、という共同体の形がある。この場合は、たいてい女性である。そして、女性の最高首長である宗教的権力者の託宣によって実際的な政治的権力を所有し執行するのは、「たいていその肉親の男性」・「弟」・「兄」・「叔父」である。この場合、「性的対象」としての夫は、決して政治的権力の所有者・執行者とはならない。
 日本の古い時代においては、この「二つの形態が、複合したり、錯合したりして存在している」。例えば、海人部における首長が政治的権力と宗教的権力とを兼ね備えている共同体の形において、その共同体、種族が海辺で村落を形成している場合には、「海の神に対する祭り」になっていく。しかし、その共同体、種族が、内陸に入って農耕村落共同体を形成した時には、宗教祭祀の対象は、「農耕水利灌漑用水」としての水神に転化する。これは、「海の水」・「海の神」の水神・水に対する信仰への転化である(『<信>の構造3 吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「共同体論について」)。


【F】体内言語と方言から見た南島論
(『琉球弧の喚起力と南島論』「南島論序説」河出書房新社を基軸として)
(1)普遍的言語からみた南島論
 言語は一般的な言葉以外に、ウィルス言語と遺伝子言語、方言(その空間的分布)がある。「日本人とは、縄文人(≪「プレ・アジア的・アフリカ的段階で、大陸を離れた」多くの旧日本人≫)と新日本人との混血であるということになります」(『吉本隆明が語る戦後55年 9』)。
ア)体内言語としての成人T細胞白血病(ATL)ウィルス担体から見た南島論
 ATLウィルス担体は、「古アジア的な北方型のモンゴル系に固有なもので、いまのところこのウィルス・キャリアーは日本とアフリカだけに見出されているもの」である。
 このATLウィルスは、「大体母から子へという伝播いがいの仕方をしないので、母体から、その前の母体へとたどって」いくと、「祖先までたどれる」。ATLウィルス担体を持っているひとの割合は、概ね、アイヌ45.2%、南島の八重山諸島33.9%であり、「かつて古代の中央であった近畿地方」は1.0%位である。四国0.5%、関東0.7%、東北1、0%位、九州7.8%である。この言語分布からは、天皇制の基盤に対して、特に、北海道アイヌと南島は大きな断層を構成しているが分かる。すなわち、アイヌと南島は人類史の母胎・基層にまで遡及して考察し追究していくことができるものを保存させている、ということが分かる。

イ)体内言語としてのGm遺伝子担体から見た南島論
 「人間の体内の抗体抗原反応の場合に、抗体のなかに生じ……る遺伝子」、ということらしい。この言語の特色は、自己同一言語性という点にあって、「この遺伝子はキャリアーからキャリアーへ1億年ぐらい……変わらないとされている」。すなわち、この言語も、祖先にまで遡及できる性質を持っている。
 「バイカル湖畔にいる北方モンゴル系の種族が一番多くGm遺伝子を持っている」ということである。そして、このGm遺伝子を、南島の八重山諸島の人の81%、北海道アイヌの人では80%持っている。したがって、「縄文時代、あるいはそれ以前に、日本列島の全体にいちばん最初に分布した種族」が「北方モンゴル系の人たちで、北は北海道から南は八重山諸島まで」「先住」していた。この人たちが、原日本人――すなわち、日本に先住していた「縄文人及び縄文人以前的な日本人」である。ただ、台湾までは行っていない。台湾には、「南中国の雲南省とか……を基点とした南方モンゴル系の人たち」が行った。この南方モンゴル系の人たちが、「後から入ってきて、日本列島の全部に分布した」が、北海道と八重山諸島には南方モンゴル系のGm遺伝子を持った人たちは4%位しかいないから、北海道と八重山諸島にまで分布は波及しなかった、と言うことができる。このことは、体内言語の分布からみた南島理解であるから、「文化とか、言語とか」、「宗教や習俗」は、「南中国とか、……南方系の……影響をたくさんうけている」、ということもできる。「大体東北から九州まで、南方蒙古系の要素が8~10%」である。7,8世紀を起源とする天皇制は「近畿地方に弥生時代以降に成立しているから」、「天皇制の基盤は大体南中国」から直接的・間接(例えば朝鮮半島)的な経由によって「入ってきた南方系」の種族である。

ウ)方言の空間分布からみた南島
 「女という言葉が特別な言葉」になっている地域は、「八重山諸島と能登半島の小部分」と「北海道のアイヌ」である。八重山では「ミディウ(ム)」、能登半島の小部分では「メロウ」、アイヌ語では「メット」・「メチ」・「マチ」である。「小野小町」の「マチ」は「女を意味する」。このように、すべて「M系言語」である。しかし、九州、四国、中国、近畿地方、東北地方は「オナゴ」、関東地方は標準語と同じ「オンナ」である。このように、すべて「O系言語」である。「この分布のパターン」は、「ウィルス言語」や「Gm遺伝子言語のパターンととてもよくにている」。このことから言えば、地域的な方言の空間分布は、ただ単なる地域性を意味しているのではなくて、北海道アイヌや「南島の基層の深さと……日本国の基盤の浅さ」の分岐を確定し、「M系言語」が世界普遍性としてあった人類史の母胎・基層にまで時代を遡ることができるものを保有している、ということができる。

(2)自然、神話、祭儀の段階論から見た南島論
 方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>に基づいて言えば、人類史のそれぞれの「段階を飛ばして人類の集団性が発展していくこと」は原理的にあり得る――「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪アジア的≫)である形態を破壊しないで、それを発展させ変形することができる。」(マルクス『資本主義的生産に先行する諸形態』)。
ア)自然の段階論
 人工衛星ランドサット映像は、人間の「感性の歴史」に、今までとは違う次元の視線――すなわち「無限の上方から下の方を俯瞰」する垂直的な視線を、天然自然だけでなくその人間化された人間的自然をも包括した<自然>・「人工地質」を見ることができる視線を獲得をしたことを意味する。
 この世界視線から、(1989年時点での)、西欧的・西欧現代的な段階の先進的な世界都市としての東京(皇居を中心とした10km四方の範囲)・ニューヨーク(タイムズ・スクエアを中心とした10km四方の範囲)・パリ(ルーブル美術館を中心とした10km四方の範囲)と、アジア的な段階の都市としての北京(故宮を中心とした10km四方の範囲)・バンコク(ホワランポン駅を中心とした10km四方の範囲)と、アフリカ的な段階の都市のケニア(ナイロビ駅を中心とした10km四方の範囲)のナイロビを俯瞰する場合、次のように言うことができる――第一に、「森林」について言えば、東京・ニューヨーク・パリは5%未満~1%強、北京0.3%・バンコク0%、ナイロビ14%である。第二に、「果樹園」を含む「農作地」について言えば、東京0.8%・ニューヨーク0%・パリ0.9%、北京8.1%・バンコク13.6%、ナイロビ13.6%である。第三に、「草原」について言えば、西欧的な世界都市も、アジア的な都市も0%であるが、ナイロビ28.3%である。この第三の点から、世界視線から見た場合の典型的な「アフリカ的段階の特徴」を見出すことができる。
 このアフリカ的段階の都市の発達の仕方は、自然史の一部である人類史の自然史的過程としての文明史的な段階概念においては、自然史的必然(「歴史的無意識」)として、先ずアジア的段階の都市へと向かう、そうして、アジア的段階の都市の発達の仕方は、西欧的段階の都市へと向かう、と言うことができる。このことは、それが自然史的必然であるから、「エコロジー政府」の政治的権力が確立されて、そういう政策をとったとても、その政府は、「天然自然の減少」を遅延させることはできても抑止させることはできない。
 そうした中で、アフリカ的段階の都市の課題について考える場合、世界都市論と人類史の母胎論・基層論を同在的・同時的に考察する必要がある。すなわち、その都市の「特徴」であった「草原地帯」を開墾し耕作地にすれば、その場合、自然史的必然としてアジア的段階に向かうだけであるから、またその場合、都市と農村の対立を止揚し超出することはできないから、都市を包括した自然、農村・自然、農村を包括した都市という高次の「都市像」(「計画的人工都市」)を構成していく必要がある。

イ)神話の段階論
 先ず、「土地の命名」について、その名前が自然の「地形や地勢」の名称となる段階がある。「東北、北海道にいっぱいのこっている」「サル」(「猿」とか「去」が当てられる)は、「アイヌ語でヨシとかアシとかの原っぱのこと」である(日本列島は、自然のアシの原っぱが多かった。『古事記』には、「葦原中国アシハラノナカツクニ」平定に「穀物の豊かに成育する葦原」・「豊葦原」の国とある)。また、「ナイ」(「内」が当てられる)は、「川とか沢」という「意味」になる。したがって、岩手県にある「シャカナイ」(釈迦内)は、「サル・カ・ナイ」ということで、「葦の原のたくさんある沢とか川とかいう意味になる」。このように、「神話的な段階を、地名の段階に置き換えて単純化」して言えば、「それがいちばん最初の段階」である。すなわち、その段階は、日本国・日本・日本人・大和朝廷成立以前の、原日本国・原日本・原日本人の「神話的段階の特徴である」。次の段階は、「地勢の名前が地名」であり、その地名が「人名である」という、「地名」・「人名」・「地勢」が「一致」する段階がある。現在の「6、7割……苗字」がそうである。この段階も、日本・日本国・日本人・大和朝廷成立以前の、原日本・原日本国・原日本人の「神話的段階の特徴である」。そしてまた、人(神)名が、「国」、自然の「山や川」・「草、木、動物」、自然現象の「波、泡」等と一致する段階があるが、その段階も、原日本・原日本国・原日本人・「日本列島の民衆の考え方の……特徴である」。なお、「讃岐の国」は、男の「人(神)名」としての「イイヨリヒコ(飯依比古)」であって、「讃岐の国に……イイヨリヒコという名前の神がいたということ」ではない。
 この三つの段階までが、人類史にけるアフリカ的・縄文的段階に属している――それは、全自然物(例えば「鳥や獣や岩や樹木や河川」の中に神(霊)が宿る、という感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式の、段階である。「いつでもじぶんの意識が全自然物に入り込んで、じぶんの存在でありうる」意識の段階のことである。したがって、「鳥や獣や岩や樹木や河川」等それら自然物は、「人(神)に擬して表現」される。このように、「全自然物を擬人化」することは、「人(ヒト)が擬似的に自然物化」するところで存在していることを意味している。したがって、「草木・……・山河・大地・大海皆是れ……仏なり」・「山川草木悉皆仏性」・草木国土悉皆仏性・「草木国土悉皆成仏」を説いた天台本覚論(大久保良峻『天台教学と本覚思想』法藏館)は、プレ・アジア的(アフリカ的・縄文的)段階を前提としない限り成り立つことはできないと言える。
 日本神話の『古事記』・『日本書紀』における全自然物を神としている「初期の自然認識」は、アフリカ的段階と同じ質のものである――①『日本書紀』の一書のイザナギノミコトと女神イザナミノミコトの国生みにおいて、両者が協力して大八洲国を生み、イザナギノミコトが朝霧を「呼気」で吹き払うと、シナトベノミコトという「風の神」が生まれた、また「飢えたとき」に生まれるのはウカノミタマノミコトという「稲の神」である、そしてまた海として生まれた神はワタツミノミコト、山の神はヤマツミ、「水門(港)」・海峡の神はハヤアキツヒノミコト、「樹木」・木の神はククノチ、「大地」・土の神はハニヤスノカミである。また、②『古事記』の黄泉の国で、イザナギノミコトがイザナミノミコトに会いたいと思い黄泉の国に出かけるのだが、イザナミノミコトの身体には蛆がわき「八の雷神」がいたのをのぞき見て逃げ帰る時、黄泉と現世の境目のヒラ坂(「黄泉比良坂」ヨモツヒラサカ)で、イザナミノミコトは、桃の実三つを取って黄泉の軍勢に投げつけて退かせた。そこで、イザナギノミコトは、桃の樹に「この国の人々がわざわいにあったときは、今日のように人々を助けてもらいたい」と告げる。ここでは、イザナギノミコトと桃の実(樹)の間には「呪的な交感が成り立」っている。すなわち、このイザナギノミコトの振る舞い方においては、桃の実(樹)には「神が生きて宿っているという認識」と「樹木が自分とおなじ次元で交感できるという認識」が成立している。「そこでイザナキノ命が、その桃の実に仰せられるには、『お前が私を助けたように、葦原の中国(なかつくに)に生きているあらゆる現世の人々が、つらい目に逢って苦しみ悩んでいる時に助けてくれ』と仰せられて、桃の実にオホカムヅミノ命という神名を与えられた」(『古事記』)。③『古事記』「国生み」において、イザナギノミコトとイザナミノミコトが「天つ神の命令によって」天の柱をめぐって島々を生み出すのだが、淡路島は「ホのサワケの神」(「淡路之穂之狭別島」、ここで「ホ」と「サ」は稲穂に関係がある)であり、伊予の二名島・フタナノシマ(四国)は身体は一つで顔は四つある神で、伊予の国は愛比売・エヒメ、讃岐の国は飯依比古・イイヨリヒコ、安房(阿波)の国は大宜都比売・オオゲツヒメ(ここで、「ケ」は穀物・食物の意である)、土佐の国は建依別・タケヨリワケという人名(神名)を持つ人(ヒト)でもある。これらのことは、「土地や地勢がそのまま人(ヒト)また神であるという認識」の在り方を示している。また、速秋津日子・ハヤアキツヒコと速秋津比売・ハヤアキツヒメの二神が生んだ海の泡は沫那芸神・アワナギノ神、沫那美神・アワナミノ神であり、風の神は志那都比古の神・シナツヒコノ神であり、樹木・木の神は久久能智の神・ククノチノ神であり、山の神は大山津見の神・オオヤマツミノ神であり、野の神は鹿屋野比売・カヤノヒメノ神である、というように「個々の自然現象ももた人と同じようにみなされている」。これらの認識も、人類史において世界普遍的に存在していた、「自然と人間とがおなじレベルで区別できずに融合しているプレ・アジア的」・アフリカ的・縄文的な段階における認識の在り方を示している。すなわち、支配は、このような先住の原日本人の宗教性、このような先住の原日本人の感じ方の様式・考え方の様式・行動の様式を横からかすめ取り「接木」したのである(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。

 したがって、前述した三つの段階の後は、アジア的段階、「アジア的な専制君主のひとつの形である天皇制、大和朝廷」の段階に入っていく。すなわち、アジア的段階、「アジア的な専制君主のひとつの形である天皇制、大和朝廷」の段階に入っていくのは、アフリカ的・縄文的段階における地名は地勢命であり人名であるという段階を経由して、「地名の物語化がはじまったとき」である。したがって、両者には断層があるのであって、「全部地名を物語化」した、「『風土記』は」、人類史のアジア的段階における大和「朝廷に献上したもの」である。この場合、その物語化は、「フィクションという意味でのうそ」の物語ではなく、大和朝廷の側からする支配的「作為にみちた」うその「物語化」である。地名の物語化の典型的な要素は、大和朝廷に反抗する先住民(『記』・『紀』における「ツチグモ(土蜘蛛)」・「サエキ(佐伯)」・「クス(国栖)」・「オノアルヒト(有尾人)」)の征伐における「支配と被支配との均衡」化・「接木」にある。
 「神武紀」以降の記述では、人里の住民は、山をご神体として山頂の大きく堅固な石を祭り、河川も「その源流に坐す神」として祭り、樹木も神格化して神社とし、自然現象も雷(いかづち)、科戸(風・しなど)の神などとして村里の周辺や要所に分離し祭りというようにして、人里で神社信仰が形成されていった。この最初の「自然物の宗教化」、「自然」と「人里の住民」との分離の意識からアジア的な段階における宗教がはじまった。また、王権による小規模な灌漑用水の整備と管理、平野の田畑の耕作など野(自然)の人工化(人間化・非有機的身体化)がはじまったとき、アジア的段階における農耕を中心とした経済的社会構成が成立した。このとき、「耕作地を王権から貸し与えられるという名目を獲得した農民層は、貢納いいかえれば農産物、漁獲物、織布などの形で租税を収めることになった」。そしてここに、生産様式論としてのアジア段階概念、すなわち土地の総括的な共同体所有と貢納制、土地の共同体的所有と分配方式を支配の核心においたアジア的専制の形態が成立することになった(『アフリカ的段階について 史観の拡張』)。

ウ)祭儀の段階論
 支配の祭儀である聞得大君の継承祭儀と天皇の世襲継承祭儀(大嘗祭)と、被支配(民俗的な村落や部族)祭儀(田の神行事、大祝即位儀式、ノロの継承祭儀、ナルコテルコ祭祀、赤マタ黒マタ祭祀)との両者の即位儀式、継承儀礼の共通性は、①神との共食、②神と共に寝る、という点にある。唯一の例外は、弥生式国家、天皇制統一国家の勢力に対して「敵対的な、出雲族とか安曇族とか隼人」は、「天皇制の種族と同等の時期、或いはそれ以前に存在していた種族」で、「天皇制の権力が畿内で統一国家をつくろうとした過程で、相当激しい抵抗を示した」のであるが、その種族の祭儀の一つに呪術的宗教の要素を持った統一国家以前の、例えば地域的国家における「諏訪の生ける神(大祝オオハフリ)」の即位儀式がある。大祝は石の上で即位するのであるが、これは、稲作信仰以前の、「磐座(イワクラ)といわれている石に、神は降りる」という信仰である山岳信仰にも繋がっている。この山岳信仰は、「狩猟」とか、「自然農耕に近いもので、生産をささえ、平野で農耕を正規にやり始める前の時代における信仰」である。「樹木や山の上の石に神が降りるとか、人間が死ぬと山」の頂きに死んだ「霊が行くという信仰は、農耕祭儀よりはるかに古い信仰の形態」である。
 この大祝は、男性の継承祭儀であって、8歳くらいの男の子を、代々諏訪社の頂点の神職の家で現人神となるために「精進潔斎させて」、神が降臨する「樹木の下にある岩(磐座)の上で、冠をかぶせ、呪文を唱え、……降りてきた印があったときに位を継ぐ」即位儀式である。また、この大祝は、「その代理の子供をどこからか連れてきて」、「オオハフリの代理にして」「オコウ様と呼び」、神域にある「村里を巡廻して回っていくという行事がある」。この「巡回の途中」で、人類史のアフリカ的段階における、そのオコウ様を「殺してしまう犠牲の王の行事」・「御頭祭巡廻(殺され王)」の行事を行う。この大祝の継承祭儀は、人類史のアフリカ的段階にまで遡ることができる古形を保存している。
 南島を含めて日本本土の宗教性の「基本的な性格」を考える場合の基軸は、
第一に、家族の共同性から逸脱しない「祖霊信仰」にある。
第二に、海の向こうに常世の国があって、そこから神がやってきて村落を祝福しまた帰っていくという、家族集団の共同性を逸脱した共同宗教としての来迎信仰がある。この来迎信仰に伴って、「田の神信仰、稲作到来信仰」が現われる。この共同宗教は、宗教から法へ、法から国家へという展開から考えて、権力であること、その宗教自体が権力であることを意味する。この常世の国、ニライカナイは、海の彼方、海の底、「水稲がやってきたところ」、「水稲とともにやって来た種族の原住地」という意味合いがある。
 この両者の錯合が、日本の「近代国家における天皇制」の問題であり、「天皇における世襲祭儀」(大嘗祭)の問題、「共同宗教としての農耕祭儀と結びついた宗教的<威力>」・宗教的権力の継承のされ方の問題である(『敗北の構造』「南島論」)。
 稲作種族の天皇の世襲祭儀(大嘗祭)の「本祭の前後に行われる祭儀」の「天皇一族の内部で行われる」、「鎮魂祭」(大嘗祭の一日前、天皇一族の家祭)とそれを時間的(1年前か1年後に行われる)にも空間的(難波の海辺で行われる、元来は家祭であったけれども、共同祭儀の性格が強くなり、共同的<威力>の継承という意味を持つに至った)にも拡大した「八十嶋祭」、という二つの祭儀の本質は、天皇の「代理物」である「衣装」に呪術的に「<霊威>を入れる」まじないを行うことにある。この「まじない」の祭儀の仕方は、「来迎神信仰、或いは稲作信仰と比べて古形」であるばかりでなく、「質的に違うもっと」「古い宗教的遺制」と言える。すなわち、もっと古い、「質的に異なった先住していた種族の祭儀を象徴」している。言い換えれば、「質的に異なった先住していた種族の祭儀」を「接木」したものである(『敗北の構造』「南島論」)。
 歴史的時間の経過は、性的な親和性と性的な禁制(タブー)の親族展開を媒介として、母系制の先行から父系制へと転化していったことを示している。南島の宗教的威力の継承は、ノロ継承祭儀においても、聞得大君継承祭儀においても、女性であるが、天皇位継承の大嘗祭になるとその宗教的威力の継承は男性(例外的に女性もいるが)である。このことからも、ノロ継承祭儀→聞得大君継承祭儀の方が、人類史のアジア的段階に位置づけられる7、8世紀を起源とする天皇制国家における天皇位継承の大嘗祭よりも、それ以前のアフリカ的・縄文的段階にまで遡ることができる古い古形を示している。

エ)天皇の世襲継承祭儀(大嘗祭)と南島の継承祭儀
(『敗北の構造』「南島の継承祭儀について――<沖縄>と<日本>の根柢を結ぶもの――」を基軸にして)
①「宗教的威力の継承方式」、天皇位の宗教的な世襲祭儀(大嘗祭)の構成要素
◎「神との共食」祭儀
 「ト定」によって選定され東西方向にあたる地域の二国(悠忌・主基国)から献上された供物・稲米を、天皇位の継承者が神と共食する。ここで「共食する」とは、「部落中が一緒に喰べる」とか「部落の主だった」者たちが「食事を共にする」ということと同じことで、「利害が同じだとか、血筋がおなじだというマジックを成立させる」ものである。そして、天皇位を継承する者は、「悠忌殿・主基殿」という二つの「仮の小殿」を建てて、そこを巡回し、そこで共食祭儀が行われる。この天皇位の継承における神との共食祭儀は、経済的基盤を農耕に置く国家の権力誇示でもあるが、「宗教的権威・威力」としての天皇という擬制を成立させるものでもある。

◎「神と共に寝る」祭儀
 「蒲団は二つ敷かれてあって、……一方に天皇が寝て、片方に神が寝ること」になっている。これは、「平安朝以降」のある時期には「神の代わり(≪神が寝る蒲団≫)に諸国の豪族の娘(≪国造とか県主の娘で、「ある支配性、人質的要素」としての采女≫)が、……性行為を行っていた時代」もあったが、観念的な「神との性行為」のことであって、それは、天皇位を継承する者が「神の威力」を「ふきこまれ」・「自分が受け取る」ということを意味している。また、この性行為は、水稲耕作の農耕社会における生産行為と重なることで、農耕社会の豊穣の約束を演じる行為をも意味している。
 この「共同宗教としての祭儀の中に、農耕祭儀的な要素が見え隠れする」(『敗北の構造』「南島論」)。

②琉球、沖縄の聞得大君(各村落共同体のノロ・女祭司を「体制的に編成したとき」の制度的な最高の巫女)お新下り(オアラオリ)の構成要素
◎ノロ(女性)の継承儀式

 「水撫でウビナデ」儀式――すなわち、「神前に供えた水を、4回。新たにの蘆となる女性の額につけるおまじない」を行う。「神霊づけセジヅケ」――供え物の洗米を三粒頭に載せて、「新たに継承するノロとしての神名を称える」儀式を行う。「神酒もり」――すなわち、供え物の酒を神前に注ぎ、その残りを新たにノロになる人が飲むと同時に、この儀式に参加した神人(カミンチュ)も一緒に飲む儀式を行う。最後に、御嶽で一泊し、ノロが神と共に寝る、「天神と結婚する意味合いの儀式」を行う。
 このノロは、「氏族共同体、あるいは前氏族共同体」において存在していた(『敗北の構造』「南島論」)。

◎聞得大君(制度的に最高位のノロ)の継承祭儀
 この聞得大君は、「大体において当初国王の姉妹」がなった。この制度的な聞得大君以前にまでもっと歴史的に時代を遡れば、すなわち琉球王朝が聞得大君という制度を作らない以前にまでもっと時代を遡れば、宗教的威力・権力が政治的権力よりも優位に置かれていた古い時代(「ヒメ――ヒコ制」の時代)に辿り着き、そこでは、宗教的権力者(王の姉妹)の「御託神・御託宣」によって、その姉妹の兄弟である王は政治的権力を執行して、国家・共同体を支配していた時代にまで遡ることができる。
 そして、各村落共同体の宗教的権力を掌握していたノロ(巫女)が、その制度・「体制の裾野を形成して」いた。この体制的編成に入らない巫女は、ユタ(里巫女)と呼ばれていた。ユタは、「村々を巡廻して、祈禱し……布施をもら」っていた。
 この聞得大君の就任儀式は、「天皇位の世襲大嘗祭と……構造からいえばほぼ同じ」である。就任する聞得大君を大庫裡(オオコナリ)の神座に着かせて、王冠を頭にのせて「聞得大君みおうしぢ」というまじないをする。聖所としての「サングーイ」(三庫裡)と「ユインチ」(寄満)を順に巡拝する。大嘗祭で言えば、それは「悠忌の国・悠忌殿」と「主基の国・主基殿」に対応している。「御待御殿オマチオドン」儀礼・「神との結婚」儀式――御待御殿には聞得大君と神との二つの蒲団と金の枕あって、「神と共に寝る」儀式が行われる。大嘗祭との違いは、天皇が男性なのに対して、聞得大君は女性である、という点だけである。

◎天皇の世襲大嘗祭における神と聞得大君のお新下りにおける神、信仰
 世襲大嘗祭における神は、「神聖な山の頂」・「上の方」から「垂直に降りてやってくる「垂直来訪神」であって、「天皇の先祖の神」であるという擬制が行われると同時に、天皇は「天孫降臨という<聖なるもの>としての帝王である」という擬制が行われる。また、「各地の村落共同体にある、田の神祭等の豊作の神という解釈もつけ」加えられる。それに対して、聞得大君の継承祭儀のお新下りにおける神は、「海の彼方の原郷」・「海の底の竜宮」・「種族の故郷」・「死者の霊魂が行くところ」・「死者の眠る国」・ニライカナイからやってくる「水平来訪神」である。これを先進地域と後進地域との空間的地域的な差異性に還元してしまった場合、先進地域と後進地域という枠組みで問題が立てられ、間違ってしまうことになり、それでは駄目であるから、その問題は、空間的地域的概念は時間的歴史的概念に転換できる方法、すなわち方法としての<時間――空間の指向性変容>・<構造的時空置換>において扱う必要があるのである。言い換えれば、人類史におけるアジア的段階以前のアフリカ的・縄文的段階にまで遡及して考察し追究していくことで、アジア的段階に位置づけられる7、8世紀を起源とする天皇制国家の世襲大嘗祭における神を、相対化し無化することができる。

◎聞得大君の就任儀式の場所、沖縄本島の聖地、斎場御嶽(サイバウタキ)の構造
 斎場御嶽は、日本本土における「天孫降臨の地」である「久高島における聖地(コバウ御嶽)に対して、真西に置かれ」た。その「真西・真東を結ぶ方位に対して、三〇度の角度で延長線を引」いたところに「聖地に入る入口」・「御門口ウジョウグチ」が置かれた。そして、その手前に御待御殿が置かれた。また、「その聖地の入口に対して六〇度の角度で、久高島における聖地と、それに対して真西にあるほんとうの聖地とを結んだ線と交わった処に「サングーイ」(三庫裡)が置かれた。
 聞得大君の就任儀礼における巡拝行列は、「御門口」から入って、先ず「三庫裡・久高遙拝所」(「石畳が敷いてあって、カワラケが置いてある神聖な場所」で、ここに、水平にやってきた神が、「神木を伝わって……垂直に降りてくる」)を拝み、次に聖所「寄満」(御待御殿から寄満の延長線上に「標高三九〇メートルぐらいの山」があり、その山には「男根と女陰の形をした頂きがあり、人骨が埋められたりしている」)を拝み、そして次に大庫裡で就任儀礼を行い、御待御殿で「神と共に寝る」儀式が行われる。「男根と女陰の形をした頂きがあり、人骨が埋められたりしている」「寄満」は、三庫裡・久高遙拝所における神・信仰より古い「一種の山岳信仰・性神信仰」が存在したことを意味している。山岳信仰の痕跡である。言い換えれば、琉球王朝は、既存の共同体の祭儀を「接木」し再編したことを意味している。
 「一般的に言えば、ある共同体の信仰の段階は、性神信仰の以前に、天空信仰がまずあり、次に山岳信仰と結びついた性神信仰がやってきて、そのあと平地のはずれの森林や樹木信仰に結びついた農耕信仰の段階が考えられる」。弥生国家に対して前古代的な共同体の信仰の核は、山岳信仰である。
 宗教的な「威力の継承、共同宗教という面」からは、天皇の世襲大嘗祭よりも聞得大君やノロ」等の方が「古形を保存しているといえ」る。また、聞得大君の継承祭儀よりも、ノロ継承祭儀の方が「時間的に古形を保存している」。「弥生式国家と呼ばれている畿内における天皇族を中心とする統一国家の形成を考えると」、天皇の世襲大嘗祭の祭儀よりも、「南島、あるいは特異ないくつかの地域(≪例えば、諏訪の大祝≫)で、いまも伝承されている祭儀」の方に、人類史における時間的な古形を見出すことができる(『敗北の構造』「南島論」)。


(参考著作)
『琉球弧の喚起力と南島論』「南島論序説」河出書房新社
『知の岸辺へ』「家族・親族・共同体・国家 日本~南島~アジア視点からの考察」・「共同体論について」弓立社
『敗北の構造』「南島論」・「宗教としての天皇制」・「南島の継承祭儀について――<沖縄と日本>の根柢を結ぶもの」・「敗北の構造」弓立社
『<信>の構造3 吉本隆明全天皇制・宗教論集成』「国家と宗教のあいだ」・「共同体の起源についての註」・「天皇制および日本宗教の諸問題」・「家族・親族・共同体・国家――日本~南島~アジア視点からの考察」春秋社
『母型論』学習研究社
『詩人・評論家・作家のための言語論』メタローグ
『ハイ・イメージ論』筑摩書房
『アフリカ的段階について 史観の拡張』春秋社
『ハイ・エディプス論』言叢社
吉本隆明・赤坂憲雄『天皇制の基層』「天皇制論の視座」作品社

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