26の8.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

「Ⅱ 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二-四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
「ソコデ、モシ、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノガ理解ノウチニノミアルト、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ自身ガ、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ルモノニナル。シカシ、確カニ、ソレハコノヨウナモノデハアリ得ナイ」。

 「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノガ理解ノウチニノミアルト、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ自身ガ、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ルモノニナル」ということについて言えば、われわれ人間の理解ノウチニノミアル「ソレハ」、一般的啓示、一般の真理、自然神学、存在の類比には立脚せず、「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスにとっては、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造(下記の【注】を参照)における主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」、その「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)を起源とした「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として「考えられ得る理解のうちと実在として存在する神」ではあり得ないものである、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する」キリストにあっての神ではあり得ないものである。言い換えれば、われわれ人間の理解ノウチニノミアル「ソレハ」、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」でしかないものである、「人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」神である。われわれは、アンセルムスと共に、「人は、(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」にしか過ぎない≫)タダ理解ノウチニダケある神の存在の仮定された実在を超えて、(≪キリストにあっての≫)神を理解ノウチニモマタ実在トシテ存在するとして考えることができるということを見た」。この時、人は、前者と「同一の神を考えているのではなく」、「前者とは違った、より偉大な、前者に立ちまさったものを考えたのである」。「その結果は、……タダ理解ノウチニダケ存在スルモノガ(≪キリストにあっての≫)神と同一である同一性は不可能となるということである」。キリストにあっての「神の存在としての神の名」は、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノと称する」。したがって、前者のわれわれ人間の理解ノウチニノミアル神は、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という「神の名」において語られた「神を、それより偉大な何かが考えられ得るような仕方で考えることを禁ずる禁止命令に対する矛盾の中で、神と等置された」、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノと呼ばれ、それでいてしかも、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ルモノである」。「このもの」に、「神の名は、……帰せられることはできない」(「……誰ノ理解ウチノアッテモ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ルモノハ、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノデハナイ」)。「ただ理解のうちにだけ存在するもの(≪「神」≫)は、(≪あの禁止命令に対する矛盾の中での≫)内的な矛盾として、無(Nichts)として、正体を暴露する」。その「理解のうちにだけ存在する『神』」は、生来的な自然的な人間の理性・自己意識・思惟や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたそれとして、「すてきな心の産物として、『タダ理解ノウチデノミ』保ち続け生き残るかもしれない」が。しかし、キリストにあっての「神と同一であるためには、それは、少なくとも……結局また、造られた世界にも帰せられる存在を、すなわち理解ノウチニモ実在トシテモ存在スル存在を持たなければならないであろう」。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その自己啓示からして、その「啓示に固有な証明能力」を、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、われわれ人間の思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準として持っており、それ故にキリストにあっての神は、あの総体的構造におけるそれに基づいて「考えられ得る理解のうちと実在として存在する神」である。

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的な「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者。標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

「ソレユエ、疑イモナク、(≪神の存在としての「神の名」≫)ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カハ、理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在スル」。

 「この結論を理解するためには、人は、……ドイツ語の訳Es existiert also ohne Zweifel etwas……〔それゆえ、疑いもなく、……何かは存在する〕をそのまま鵜呑みにしてはならない」――「H・ブシュテの「次の訳〔十一世紀ノ終リノキリスト教的合理主義〕『シタガッテ、確カニ、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノハ、私ノ考エノウチニモ、現実ノウチニモ存在シテイル』は、全く恣意的で、人を惑わすものである」。何故ならば、「この命題の強調点」は、「この章(≪2章≫)の内容全体によれば、それ自体曖昧なexistitの上に置かれることはできず」、「それの説明、et in intell-ectu et in re〔理解ノウチニモマタ実在トシテ〕……を通して」、「existitは、初めてそこで目指されている結果の意味で明瞭となるのであるが」、それは、「『理解ノウチニモマタ実在トシテ』に置かれることができるだけである」という点にあるからである。アンセルムスの神の存在としての「神の名」――すなわち、「『ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ』でもって表示されているもの」が、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する(そして、その限り、まことの存在をもつ)ということ」は、「アンセルムが先行することを通して証明されたとして見ていることである」。「そのことは、どの程度まで証明されたのか」。「それは、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に基づいて、キリストにあっての≫)神の名が宣べ伝えられ、理解され、聞かれるところ、そこでは神は聞く者の理解のうちに存在する」、「しかし、まさにそれだからこそ、ただ単に聞く者の理解のうちに存在するだけではない」。何故ならば、「ただ単に理解のうちだけ存在する神」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に基づいて「自分自身の啓示され、また信じられた名と耐えられない仕方で矛盾するからである」。「そのような訳で、ただ単に理解のうちだけで存在するものとしては、そのものは、として、また理解のうちにも存在し得ない」――アンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」、すなわち「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という定式を、アンセルムスが「あたかも……『プロスロギオン』において、(≪存在的な≫)スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように(≪「絶えず」≫)理解し(≪「誤解」し≫)、また数多くの箇所でそのように(≪「誤解」したまま≫)引用し」論じた「ガウニロニ反対シテ」、「二章に出ている平行記事においては、結論」は、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノガ、モシ誰カノ理解ノウチニアルナラ、ソレハ理解ノウチニノミ存在スルノデハナイトイウ結論ニナラナイダロウカ(≪すなわち、それは、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する。そして、その限り、まことの存在をもつ≫)。モシ理解のウチニノミ存在スルナラ、ソレハソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ルモノデアル(≪というのは、≫)シカシ、コレハ矛盾デアル」(何故ならば、その時には、ソレヨリ偉大ナモノハ、先ず以て具象性と抽象性との総体としてある内在化された対象性として、理解のウチニ存在していないのであるから、それ故にソレヨリ偉大ナモノハ考えられ得ないからである)という「テキストの中で与えられた書き換えを確認している形式を持つようになる」。「人はよく注意せよ。この否定的なこと以上のことは示されていない」。「hoc esse non potest〔ソレハ、コノヨウナモノデハアリ得ない〕と証明の最後の言葉は語っていた――ちょうど、証明の目標が、ただ否定的に表示されていたように、Deus non potest esse solo intellectu〔神ハ理解ノウチニノミアルコトハアリ得ナイ〕」、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下での、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造を持っているキリストにあっての神の啓示は、生来的な自然的な「われわれの理性に内在している神概念の(≪われわれの主観的な、恣意的独断的な≫)再想起としての神認識における「存在者」、「存在者レベルでの神」ではあり得ない、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」ところの神ではあり得ない、「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」「(≪から、この時には、≫)神とはまさに、人間の(≪内的生活の≫)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(≪神であるが、≫)」そのような神ではあり得ない、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造を持っているキリストにあっての「神ハ理解ノウチニノミアルコトハアリ得ナイ」。「結論は、さらに先にまで到達している」――すなわち、「単ニ理解ノウチニダケ存在する神の証明された不可能性から、神が理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在することが結論づけられる」。ここでは、「神ハ理解ノウチニノミアルコトハアリ得ナイ」という「否定的なことだけが証明されたのである」。

 「まことの、また精神の外でも存在する神の存在(概念の一般的意味での存在)についての積極的な命題」は、「証明から由来して来ず、どのような仕方ででも導き出されず」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいた「証明を通してだけ証明されたのである」、「神は理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在する」という「命題に対立している……(≪人間の≫)精神の中だけに存在する神の存在が馬鹿げたこととして証明される限りにおいてだけ、証明されたのである」。「この積極的な命題は、……あの仮説的なpotest cogitari esse se in re〔実在トシテ存在スルコトハ考エラレ得ルシ〕でもって、……突然舞台に導入された」、「そして、ただその命題に対立している命題の愚かさを証明する証明に基づいて、ただそれだけが有効なものとして舞台に残るのである」。このことが、「『証明』である時、それは、まさに、とりわけ、どんな証明もなしに確立している信仰命題の証明である」――「このことが、アンセルムスの考えであるということは、……われわれの命題に並行的な箇所で、決定的な『ソシテ、コレコソ主、私タチノ神ヨ、アナタデス』が現れている『プロスロギオン』三章において明らかになるであろう」、「何故、ここではまだ明らかにならないのであろうか」、それは「『プロスロギオン』二章の証明は、『プロスロギオン』三章でなされるべき本来的な証明への途上における前段階でしかないからである」。キリストにあっての特別な「啓示から由来している積極的な命題は、ほかの何らかから導き出されることはできない」。したがって、「その積極的な命題に対立している命題」も、キリストにあっての特別「啓示から由来している命題(神は、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノと呼ばれるという命題)を手がかりにしてだけ、その不合理サが証明され得るのである」。「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスにおいては、教義学的な合理主義は不合理である、ちょうどバルトにとっては、あの総体的構造における「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連続して行くという仕方で、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける啓示の出来事(キリストにあっての神、キリストの福音)の宣べ伝えを目指すことのない自然神学的な「単なる知識」としての「形而上学的な教義学」(「人間学の後追い知識」としての混合神学、人間学的神学、哲学的神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教義学としては非学問的である」ように(『教会教義学 神の言葉』)。そのことは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて「起こり得る。そして、その限り、神のまことの存在(概念の一般的な意味での存在)は証明されることができ、それは、ここで実際に証明されのである」。