4.『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(93-143頁)(その2-1)

4の1.「啓示の時間――神の時間とわれわれの時間」

 この「神の時間とわれわれの時間」という概念は、先ず以て「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で論じられている。「啓示(≪神の時間≫)は歴史(≪人間の時間≫)の賓辞ではない」、「歴史(≪人間の時間≫)が啓示(≪神の時間≫)の賓辞である」。すなわち、歴史(人間の時間)は、「神的自由の行為としての啓示」(神の時間)となることはできない。言い換えれば、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける啓示(神の時間)は、「常に」、歴史(人間の時間)の「彼岸・外」にある、「彼岸・外」にあり続ける。したがって、両者の「混淆」・「混合」・「共働」・「協働」・「協力」は、本質的にあり得ないのである。

 このような訳で、「人は、啓示の時間概念の探求」においては、恣意的独断的に「啓示以外のほかのところで得られた時間概念」を、換言すれば「われわれの時間(≪人間の時間、歴史≫)を神が創造したままの時間として引き合いに出すことはゆるされない」のである。何故ならば、聖書によれば、「われわれの存在様式と神によって創造された存在様式そのものの間にはわれわれ人間の厳然たる堕罪の事実(創世記3・23以下、創世記6・5以下)が横たわっており」、その「堕罪」した「『われわれの』時間は、決して神が創造し給うたままの時間ではなく」、聖書においては、「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」として、「神の時間であり実在の時間であるイエス・キリストにおける啓示の時間から『攻撃』された時間」であるからであり、また常にそうあり続けるからである。このように、聖書によれば、「われわれの時間」(人間の時間、歴史)は、「堕罪」した人間によって「惹き起こされ生じた時間」なのである。このような訳で、聖書によれば、時間概念は、第一に、「われわれにとって隠蔽された神によって造られたままの時間(創世記1・14)」と、第二に、「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」としての「われわれ自身の時間」と、第三に、神の時間、イエス・キリストにおける啓示の時間、実在の時間としてあるのである。

 「聖書の中に証しされている」イエス・キリストにおける神の自己啓示、すなわち唯一回的な出来事、「イエス・キリストの現臨の出来事の中での神の啓示」は、「われわれのための神の時間」、「神がわれわれのために持ち給う時間」、「啓示の時間」、「まことの実在の時間」である。この啓示の時間は、第一に、イエス・キリストにおけるその死と復活の出来事そのものにおいて「成就された時間」である、換言すれば「イエスがご自分をお示しになったあの四〇日(使徒行伝一・三)」(「キリスト復活の四〇日」)である、第二に、「待望の旧約聖書的時間および想起の新約聖書的時間として、イエス・キリストの出来事についての証しの時間」である。したがって、われわれは、啓示の時間を、「啓示そのものによって教えられなければならない」のである、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」によって教えられなければならないのである。何故ならば、この啓示に固有な時間は、「ほかのところから得てきた時間概念では事実十分に理解することができない」からである。

(ア)アウグスティヌスやハイデッガーにとっての時間概念は、「被造物である人間存在の自己規定」であり、「自分で時間を創造することによって時間をもつ」という位相のものである。したがって、アウグスティヌスとハイデッガーの時間概念は、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「実在の時間」から「攻撃された」「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」としての「われわれの時間」である。

(イ)ハイデッガーは、「時間から対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在形式として理解した」。すなわち、自分の意志とは全く無関係に投げ出された不可避な歴史的現存性(被企投性・現前性・被制作性)に投げ出された個が、「自分の最も固有なぬきん出た存在可能性に向かおうとする『先行的な決意性』」(企投性)によって時間化する時、自分自身の時間、自分自身の未来・過去・現在を創造し持つことができる。すなわち、個が「自分自身を実現してゆく」現存性に意識的意志的自覚的に生きようとする時、時間を創造し持つことができる。自然時間でもなく、歴史的時間でもなく、内在的な個の現存性に固有な時間を創造し持つことができる。このことは、時間を、「被造物的――人間的現実存在の規定」、「被造物である人間存在の自己規定として理解している」こと、すなわち人間的現実存在は時間性であること(時間化)、その時間性が存在を規定すること(存在了解)を意味する。アウグスティヌスの場合も、事情は変わらない。すなわち、アウグスティヌスは、『神の国』で神は「時間ノ創造者マタ決定者と呼んでいる」が、『告白』では「過去、現在、未来は(≪人間の≫)精神の中にあって、ほかのどこにあるのでもない」と述べている。バルトは、このアウグスティヌスの後者の「人間精神の行為の中で発生する時間を原理とする時間認識」の在り方に対して、すなわちその時間が「イエス・キリストにおける啓示の時間」、実在の時間から「攻撃された」「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」、「問題的な、非本来的な時間」であるということを理解しない在り方に対して、根本的包括的な原理的な批判を加えたのである。

(ウ)「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」――第一に、アウグスティヌスは、「現在」は、過去・未来という「時間が発生する」「起源的なもの」、「基礎」であると規定するのであるが、その現在を固定し確定しようとするや否や、その現在は過去に移行してしまう位相のものである。とするならば、「つねにまだ未来はない」ということになる。すなわち、この場合、「現在」は、「過去と未来の間の真中で消失しまっている」。したがって、この場合、われわれは、現在について、時間について、「実は何も知らない」ということになる。第二に、「時間は始めと終わりのないもの」か「時間は始めと終わりをもっているもの」かという、カントの「純粋理性の対立命題がもつ」「第一の二律背反」について、「時間のすべての始まりはそれ自身が再び過ぎ去った時間の終わりであり、時間のすべての終わりはそれ自身が再びこれからくる、未来的な時間の始まりでなければならないから」、「時間そのもの」は「始めも終わりもないもの」と理解しなければならない。また、「時間を有限なものとして理解することも無限なものとして理解することも等しくわれわれにとっては不可能である」。したがって、この場合も、われわれは、時間について「実は何も知らない」ということになる。第三に、シュライエルマッハーのように、人間中心主義的に、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないで、「永遠を時間の始めと終わりのところにおき」、時間の始めにおける「時間」を「永遠から……絶えず継続的に遠ざかってゆくこととし」、また時間の終わりにおける「時間」を「永遠に向かって絶えず継続的に近づいてゆくこととし」、そしてまた「永遠を、すべての時間の隠れた内容とし」、「時間を永遠のひとつの容器(うつわ)として」と考え・述べ・宣言することは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」の「幻想」でしかないのである。人間中心主義的に、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たないで、「アウグスティヌスやハイデッガートともに時間からその対象性をはぎとって、時間を人間の現実存在の存在様式として理解すること」は、そして「過去」と「未来」を「現在の中に解消してしまうこと」は、聖書によれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした啓示神学においては、「幻想」でしかないのである。聖書による三つの時間概念における神の時間、イエス・キリストにおける啓示の時間、実在の時間(「成就された時間」)を「否定」して、形而上学的一面的固定的「抽象的ニ」「神によって造られた時間」と「われわれの時間だけを考慮に入れる」時、「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」を包括し止揚して、そこから超出することはできないのである。すなわち、「通俗的な時間概念がもつ」「三つ」の「困難さ」を包括し止揚して、そこから超出するためには、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした啓示神学における「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「神の時間」、「実在の時間」、「まことの現在」の概念のほかにはないのである。イエス・キリストの時間、「時間の主の時間」は、問題に満ちた非本来的な「失われたわれわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」である。ここに、「まことの現在」、それ故に「まことの過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。

 完全に自由なキリストにあっての神が、「ご自身を啓示し給う」という命題は、神は、「満ち満ちている一切の神性」(コロサイ2・9)を本質とするイエス・キリストにおいて、「全面的に、全き仕方で」、「『われわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。この「啓示の時間」は、すでに述べたように、「啓示そのものによって教えられなければ」認識することはできないのである。したがって、われわれは、「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいてイエス・キリストにおける啓示の出来事を「神の啓示として理解する時初めて」、唯一回的な出来事、「イエス・キリストの現臨の出来事」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間である」ということを認識(啓示認識)し理解することができるのである。

(エ)イエス・キリストにおける神の自己啓示は、唯一回的な出来事、イエス・キリストの現臨の出来事のことであるが、その出来事を、「何の留保もなしに」、「われわれの時間の中で生起したというならば」、その理解は、その最初から誤謬の中にあるのである。何故ならば、その出来事は、「われわれがいつもながらわれわれだけでわれわれの時間をもっていた時に、神がわれわれのためにご自分の時間をもち給うた出来事」であるからである、換言すればその出来事は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事であるからである。言い換えれば、キリストにあっての神は、その唯一回的な出来事において、「未来と過去をもったところの現在、その成就の待望と成就の想起をもったところの成就された時間(≪「キリスト復活の四〇日」≫)、啓示の時間」、神の時間、実在の時間、「そして啓示についての旧約聖書的および新約聖書的証言の時間をもち給うた」のである。神の言葉は、内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としており、「とこしえに変わることはない」(イザヤ40・8)、それからまたそれは、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方において、「人間の歴史的形態、イエス・キリストの名」となった、「肉となった」、まことの人間となった、「時間となった」、「時間的な現在」となった、「時間的な瞬間」となった(ヨハネ1・14)。また、「新約聖書の証言全体によれば」、「その甦りにおいても肉でありつづけ、また父なる神の右にいます栄光の姿にあっても肉であるし、肉でありつづけるのであれば、永遠は、(ご自身を聖書の証言にしたがって啓示し給う神の永遠は)時間なしではない」のである、聖書における「啓示」は「確かに永遠的な実在であるが、……だからといって決して無時間的な実在ではなく、……時間的な実在である」、「時間を造り出す実在」である。したがって、「神がわれわれのためにもち給う時間」は、「われわれの生成し消滅する時間とは違って、永遠の時間として理解されなければならないのである」。

 「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、「新しい世」・時間へと向かって進んでいる。この「キリスト復活の四〇日」(「成就された時間」)は、「新しい世」・時間のはじまりであるから、まことの「過去」とは「成就された時間」の「待望の時間」であり、まことの「未来」とは「成就された時間」の「想起の時間」、聖霊降臨日以降の時間である。したがって、「キリストの死」とともに終わる「まことの過去」は、「成就された時間」(「キリスト復活の四〇日」)を待望する形において存在している。また、「まことの未来」は、「キリスト復活の四〇日」と共に初まり、それは、ただ「キリストの復活を想起する形においてある」のであるが、またそれは、必然的に「甦えられた方を待ち望む待望の時間」、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を待望する時間においてもあり、そのようにしてそれは、「成就された時間」(「キリスト復活の四〇日」)に参与するのである。したがって、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)を考えること(待望すること)は過去(「キリスト復活の四〇日」)を考えること(想起すること)であり、過去(「キリスト復活の四〇日」)を考えること(想起すること)は未来(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)を考えること(待望すること)であると同時に、「成就された時間」の前の過去を考えることでもあるのである。

(オ)旧約聖書および新約聖書の啓示が、イエス・キリストの出来事において、「まったく時間的であり、それであるから時間的に規定され、時間的に柵をめぐらされ」、「年代記的記述」において証言され証しされていることが重要である。史実的に正しい内容であるかどうかという点が重要なのではなく、重要なことは、聖書が、「シリアの総督のクレニオ」と「聖降誕の出来事」、「ポンテオ・ピラト」と使徒信条というように、神の啓示に対してその都度ごとに、一つの年代的・時間的と地誌的・空間的・地域的との限定性において、「出来事として起こったもろもろの歴史(Geschichten)」について語っているという点にある。このように述べているバルトは、史実性を無視していないことは明らかなことである――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪何故ならば、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階における日本において、天皇を含めて非農耕民は「神人」と呼ばれていたからである≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」。したがって、史実性だけを重視して自分は「打率三割以上」の優秀な学者だと自惚れている神学者や牧師は、人間学における思想家からは「バカだ」と言われてしまうのである――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通 点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率 があるとおもっているやつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)。

 このような訳で、「言葉の受肉が何時起こった出来事であるのか述べられていること」が、また「ポンテオ・ピラトノモトデ苦シミヲ受ケ」等と述べられていることが重要である。この時間的な実在の記述の在り方が重要である。したがって、この記述の在り方が、「近代の歴史学の標準」から言えば、「ただ『古譚』あるいは『歴史物語』であることができる」水準のものでも重要である。「年、日、時間は、神の啓示についての聖書的証言から切り離してしまうことのできない概念であって、また聖書証言を説明する際」、「決して瑣事として取り扱ってはならない概念である」。また、「人が新約聖書の中で」、「いま」・「いまの時」・「時〔間〕」・「きょう」・「日」という「言葉に出会う時」、それらの言葉は、「時計が知らせる時間」(一回性を本質としている自然時間)を意味しているだけでなく、「それの内容ゆえに特別な時間であるイエス・キリストの時間」、啓示の時間、実在の時間を「言い表している」のである。「多くのパウロ的あるいはヨハネ的聖句の中で、例えばⅡコリント6・2が特に注目されてよい」――「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」。「イエス・キリストの時間」から攻撃された失われた非本来的な「われわれの時間」とは全く違って、「イエス・キリストの時間」は、キリストにあっての神が「支配された時間」、しかもそのことにおいてこそ、「実在」の時間、「成就された時間」であるという点にある。この時には、「現在」が「過去と未来の間の真中で消失」しまい、そして「過去」と「未来」は「現在の中」に解消してしまう、この「ディレンマは発生しない」のである。すなわち、この時には、イエス・キリストの啓示の時間、成就された時間、実在の時間という「まことの現在が存在する」からこそ、「まことの過去とまことの未来が存在する」のである。「永遠から……語られた」「神の言葉がある」。「このことはまた、肉となった、……時間となった、神の言葉についてもいえることである」。イエス・キリストの啓示の内容は、「インマヌエル」――神は、罪深きわれわれ人間と「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」という点にあるからである。このイエス・キリストの啓示の時間、成就された時間、実在の時間は、第一の「われわれにとって」隠蔽された「神によって造られたままの時間」(創世記1・14)、「創造された時間からも区別」された、イエス・キリストにおいて成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的総括的総体的永遠的な救済(この救済概念は平和の概念を包括している)の「完成」(終末、復活されたキリストの再臨)としての「未来」を包括した「現在」、「第三の時間」である。

(カ)イエス「ご自身によって宣べ伝えられた『神の福音』の最初の言葉は、時は満ちたである」(マルコ1・15)。この「満ちる」「プレイローマ」は、「容器、計画、概念、形式をみたしているもののこと」であるから、「内容、目的、意味、(形式の中で可能性として告げられている)実在」であるから、したがって「時が満ちる」とは、「言葉の受肉の中で、言葉の受肉とともに、神の国が近づいたことの中で、神の国が近づいたこととともに」、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられる」ことを通して、「天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられる」(エペソ1・9以下)ことを通して、すなわちキリストが「天にあるもの地にあるものを、ことごとく更新する」ことを通して、「実在の時間」、「成就の時間」(「まことの現在」)が生起したことを意味している。旧約聖書において、「神の名」は「わたしは、有って有る者」(出エジプト3・13)であるが、新約聖書の「黙示録の著者」は、その神の名を神と時間との関係において解釈した。すなわち、その著者は、神の名を、「わたしはわたし自身を現在化するもの」、「わたしは今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者」、「全能者にして主なる神」として解釈した。言い換えれば、神の名は、「わたしはわたし自身を現在化する」ことにおいて、「昔いまし、やがて来るべき方、アルパでありオメガであり、起源であり目標であり、初めであり終わりである」方として、言わば「成就された時間」(まことの現在)を「待望」する時間概念(「まことの過去」)と「成就された時間」を「想起」(終末・救贖・完成への待望を包括した想起)する時間概念(「まことの未来)の全体性において、「生ける者、全能者であることが実証される」。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変わることがない」(ヘブル13・8)。新約聖書においては、徹頭徹尾神の側の真実としてある、唯一回的な出来事、「イエス・キリストの現臨」、「イエス・キリストの現在」、イエス・キリストの生誕・苦難・死と復活、「成就された時間」(キリスト復活の四十日)、「まことの現在」において、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「現在意識」、すなわち現在化された啓示認識・啓示信仰、すなわち「まことの現在」をそれとして認識することにおいて、「まことの過去」をそれとして認識し、「まことの未来」をそれとして認識したのである。ここで、「イエス・キリストの現在」、「きょう」、「まことの現在」は、「まことの過去」と「まことの未来」という区別を包括した単一性においてあるのである。「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界をさばくためその日(イエス・キリストの日)を定められた」(使徒行伝17・30以下)。「あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことがない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている」(Ⅰペテロ2・10)。「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている」(エペソ5・8)。しかし、この時、「まことの過去」の「消失」を意味しない。「まことの過去」は、「旧約聖書の中で」生きつづけている、「キリストの死の中で成就された時間を待ち望む待望の形で、生きつづけている」。すなわち、「キリストの復活」、「成就された時間」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「福音の勝利の行為の時間」(「まことの現在」)によって、「人間の人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは」、自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中にある「完全な敗北者」であるわれわれ人間の失われた問題的な「非本来的な古い時間」・世は止揚され克服されて「そこにある」のであるが、しかし、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは」、それとしては依然として「完全な敗北者」のまま「そこにある」のである。言い換えれば、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「キリストの復活」、「成就された時間」によって「限界づけられ、規定された」「われわれの時間」は、「まことの過去」として「原理的に既に過ぎ去った」、そして「過ぎ去りつつある」、しかし「なお依然として現在的」でもある、「古い世の時間」、古い世・時間である。また、「まことの未来」が「キリストの甦えりとともに開始されることが確かである限り」、それは、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」への待望を包括した「キリストの甦り(≪キリストの復活≫)をおぼえる想起の形でのみ宣べ伝えられることができる」。われわれは、イエス・キリストの復活を「想起」しつつ、復活されたイエス・キリストの再臨、終末、「完成」を「待望」するのである。

4.『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(93-143頁)(その2-2)

(キ)「キリストの復活」、「成就された時間」、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」、「福音の勝利の行為の時間」(「まことの現在」)としての、「旧約から新約への、キリストの十字架でもって終わる古い世」・時間から、「キリストの甦りとともに始まる新しい世」・時間への「移りゆき」が、「啓示」である、すなわちご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、すなわち子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)としてのまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの啓示である。この聖書におけるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「神の時間」、「まことの実在の時間」の中で遂行されたイエス・キリストの出来事における「和解の善き業」、「唯一の恵みの契約」のことである。そしてこの「契約の仲保者」は、前述したように「神性」を本質とする「人なるキリスト・イエスである」。したがって、そのイエス・キリストの啓示(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)についての「誠実な(≪啓示の≫)真理探究」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「新約聖書自身(≪最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)が始めているところで始めなければならない」のである。もしもそうでないならば、その真理認識・真理概念は、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところ」「すべての大学社会(≪生来的な自然的な人間の自己意識・理性・思惟による、自然科学と人文科学の自由な学問・研究の場≫)の神学」における「人間学の後追い知識」としてのただ「単なる知識」でしかなくなってしまうのである。「われわれがイエス・キリストの現在〔現臨〕を、時間の成就として理解する時、したがってわれわれが、イエス・キリストの時間は古い時間のまっただ中での、そして古い時間全体のための、新しい時間の光であるという時」、常に神を「主語」として、「一―三〇年の間」が「成就された時間」、「神の時間」であると言うのである。したがって、人間的な歴史(人間の時間)を主語として、例えば歴史的イエス、史的イエスを主語として、「歴史は啓示となる」と言う場合、「聖書の中で証しされている啓示に関して」、それが「もっている唯一の独自な意味」を喪失してしまうから、「歴史は啓示となる」と言うことはできないのである――「啓示(≪神の時間≫)は歴史(≪人間の時間≫)の賓辞ではない」、「歴史(≪人間の時間≫)が啓示(≪神の時間≫)の賓辞である」。したがって、「啓示」は、人間的な歴史(人間の時間)の「深い意味および内容」のことではないのである。したがってまた、モルトマンのように、自由を自覚し自由を原理とする(下記の【注】を参照)西欧近代を人類史の頂点として価値化したヘーゲルの歴史哲学を啓示に適用することはできないのである、歴史(人間の時間)を啓示と混合、共働、結節させることはできないのである、人間の歴史(人間の時間)は、徹頭徹尾神の側の真実としてある「神的自由の行為としての啓示となることはできない」。言い換えれば、神の側の真実としてある啓示(神の時間)は、常に、人間が人間的に所有する人間の歴史(人間の時間)の、<彼岸・外>にある、<彼岸・外>にあり続けるのである。

【注】ヘーゲルは、『哲学史序論―哲学と哲学史―』(武市健人訳、岩波書店)では、次のように述べている――「精神と自然との直接的な統一の段階、即ちそういう(中略)(≪自然から対象的になっていない、それ故に自由を自覚していない≫)段階は、一般に東洋思想である」(禅思想は自然を内面の原理としている)、「人間は本来、理性的であると言えば、人間は素質の形で、萌芽の形で理性を持つことを意味する。この意味において人間は理性、悟性、想像、意志を生れながらにもつ。(中略)しかし子供(≪例えば、自然を原理とする人類史のアジア的段階における人間≫)は、このような理性の能力(≪自然から対象的になって自然から超出した精神としてのそれ、自由を自覚した自由な論理的合理的な思惟≫)、あるいはその可能性を単にもつというだけであるから、理性をもたないのと同じである。そしてそれ故に、自由でもないのである」、「すべての人間が本来、理性的であり、そうしてこの理性的ということの形式こそまさに自由だということである……(中略)一方アフリカ民族(≪人類史の母型・母胎の段階≫)およびアジア民族(≪人類史のアジア的な段階≫)と、他方ギリシャ人、ローマ人(≪人類史の古典・古代の段階≫)および現代人(≪人類史の頂点としての西欧近代の段階≫)との唯一の区別もまた、(中略)後者が自由であることを自分で知っており、それを自覚しているのに、前者は彼らもまた自由であるにかかわらず、それを知らず(≪自覚せず≫)、自由なものとして実存しないことなのである」、と。バルトは、時代状況それ自体が西欧近代を頂点とする進歩史観を許さない問題として、また人間学的領域の問題としても、『ヘーゲル』で、次のように述べている――「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになるために」、われわれは、西欧近代を頂点とした歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄しなければならない」、と。
 
(ク)啓示は「時間的な、歴史的な啓示である」が、啓示は、徹頭徹尾、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「神の自由の行為」、「神的自由の行為である」から、常に神が「主語」となるのであるが、「神はご自身を啓示する」という命題の「唯一の独自の意味」とは、何か?

 「神がご自身を啓示される」ということ――そのことは、第一に、「聖書の中で証しされている啓示に直面して」「そのことを語る者」にとって、「既に出来事として起こった支配の行為として語られている」という点にある。その時、「そのことを語る者」は、人間の生来的な自然的な「理性や力」によってではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ終末論的限界の下で「啓示の時間」を、「主人を見出し・持っている」。そして、その時、「そのことを語る者」は、キリストにあっての神が「支配する時間」となった「成就された時間」(キリストの復活)によって、「限界づけられ、規定された時間以外の別の時間をもはやもたない」のである。何故ならば、「そのことを語る者」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「知識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中でこの成就された時間と同時的となり、この〔成就された〕時間の同時代人となり、それであるからイエス・キリスト(≪「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの≫)、預言者たち、使徒たち(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉、最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)と同時代人となる」からである。また、その時、「そのことを語る者」は、その啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、「問題的な、非本来的な」人間の時間、自分の時間、「われわれの時間」と、本来的な「実在の時間」、「神の時間」、「成就された時間」との無限の質的差異を認識し自覚する。このように、「成就された時間」によって「限界づけられ、規定された」「われわれの時間」は、「まことの過去」として「原理的に既に過ぎ去った」、そして「過ぎ去りつつある」、しかし「なお依然として現在的である」、「古い世の時間」、古い世・時間である。そして、そのことの中で、われわれは、イエス・キリストの復活(「成就された時間」)を想起しつつ、復活されたイエス・キリストの再臨、終末、「完成」を待望するのである。

 「神がご自身を啓示される」ということ――そのことは、第二に、「聖書の中で証しされている啓示に直面して」「そのことを語る者」にとって、「神性」を本質とするイエス・キリストは、「啓示を遂行するみ子」として、「あれはあと取りだ。さあ、これを殺してしまおう。そうしたら、その財産はわれわれのものになる」と考え行動する人間を(マルコ12・7)、「罪人のこのような反抗を耐え忍んだ」方(ヘブル12・3)」、「やみの中に輝いている」方(ヨハネ1・5)、「成就された時間」(キリストの復活)に対する「堕落した人間」の「人間的反抗」・「抗争」を、総括的に言えば人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)を、自己認識・自己理解・自己規定させる場所として語られている。その場所は、「われわれ自身」、「われわれの時間」「古い世」、「アダムの罪」、「アダムの罪……の全体性」を明らかにされ自己認識・自己理解・自己規定させる場所である。このように、必然的に、不可避的に、個体的自己としての全人間・全世界・全人類は、このイエス・キリストにおける啓示、啓示の時間に対して「『躓か』ざるを得ないのである」。またこのように、自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中で現存するわれわれ人間は、「われわれの時間が実際に『成就された時間』によって限界づけられ、限定される」ことが、また「原理的には既に過ぎ去った世として特徴づけられること」が、「いわばその全体性の中で屑鉄として捨てられてしまわなければならないということ」がどうしても許せないから、人間の「時間の中での神」、「歴史(≪人間の時間≫)の中での神」に対して、「『躓か』ざるを得ないのである」。イエスの十字架における、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の「全権委員」としての「イスラエルの民」の「振舞い」は、彼らの自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)を守ろうとする「自己保存と正当防衛の行為」であった――「躓きは必ず来る」(マタイ18・7)、「罪の誘惑が来ることは避けられない」(ルカ17・1)、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまづくであろう」(マタイ26・31)。したがって、「ここでまさに自分を例外だと見做すところのものこそ、『あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』(マタイ26・34)」。

 「神性」を本質とするイエス・キリストにおける「イザヤ的――パウロ的『僕の姿』」は、「自己保存と正当防衛の行為をなす」ところの、自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中で現存する個体的自己としての全人間・全世界・全人類における人間的「自然に抗する」、神の隠蔽・「隠れ」である。したがって、イスラエルの民においてだけでなく、個体的自己としての全人間・全世界・全人類において、「真剣な意味」で、「キリストの出現の時」としての「神性」を本質とするイエス・キリストにおける啓示、和解の業、「神の大いなるみ業」を「まことの現在」として認識(啓示認識)し信仰(啓示信仰)しない時には、「啓示なしの全能な世界時間、世界実在」、「文化史、民族史、戦史、芸術史」、「宗教史と教会史」が、すなわち「『キリスト教発生』の時を基軸としたすべてのほかの時間と同じ時間である世界史が、発生してくるのである」。このような自主性・自己主張・自己義認の欲求(換言すれば、無神性・不信仰・真実の罪)のただ中で現存する個体的自己としての全人間・全世界・全人類の「われわれの時間」のただ中に、「神に反抗し敵対する人間を拒否されず」、キリストにあっての神は、「反抗を通して準備された隠れ」において、「われわれに対して現臨することを欲し給うというそのことこそ、神の啓示の深みである」。われわれ人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある復活の力」のみである。

 「神がご自身を啓示される」ということ――そのことは、第三に、「聖書の中で証しされている啓示に直面して」「そのことを語る者」にとって、「時間的に歴史の中」で「神の行為の出来事として起こっている奇跡」として語られている。この「奇跡は啓示に属している」。「啓示はただ奇跡の形でのみ理解されることができる」――このことは、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において本在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(業・働き・行為、父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)において「神の現実存在がわれわれの現実存在のためにそこにあるということ、神がわれわれのために時間をもち給うということ、われわれの時間のただ中に神の時間が存在するということ」は、また啓示は「死人の中からのイエス・キリストの甦り」(成就された時間)の出来事、死と復活の出来事であるということは、「奇跡なし」の「われわれの現実存在、われわれの時間と歴史」にとって、「躓き」となる。何故ならば、「神に対して敵対」し「耳を傾けず」「耳を閉じて聞こうとしない」「闇でしかないところの人間」(われわれ人間)にとって、盲目でしかないわれわれ人間にとって、啓示は、「奇跡(≪「啓示の隠れ」≫)の形でのみ起こることができる」からである。したがって、「神はご自身を啓示し給う」ということを認識し・信仰し・告白し・証しし・宣べ伝えるという出来事は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて初めて終末論的限界の下で起こるのである。

 このような訳で、聖書の「歴史的――批評的考察」が、「イエス伝研究」のように、「神の自由な、特別な、直接的な行為」としての「啓示に対して終始奇跡の性格を帰している……聖書の証言から」、その「性格を取り除いてしまって啓示を理解」しようとする場合、その最初から「誤謬は必然」となるのである。したがって、「最も穏健な保守主義から最も空想力豊かな、あるいは最も空想力の乏しい『高等批評』に至るまで、あらゆる変種の中でくわだてられた」そうした「こころみ」も、そうである。何故ならば、彼らは、新約聖書から、内在的な「神性」を本質とするイエスを捨象してしまって、形而上学的一面的固定的に、「単に人間としてのイエスの姿」、「史的イエス」を、自然時間としての「一―三〇年」における史的イエスを、「妄想に近い熱狂家として」・「また、崇高な、宗教的――道徳的人格として」・「また尋常ならざる、……独一無比の賜物を賦与された超人として」、「しかしまさに根本的には人間として」、「われわれの自身の時間に属する仲間として生きた」「史的イエス」を、裸形的に「むき出しにして表そうと」試みるだけだからである。もちろん、聖書の中で「証しされている啓示の奇跡」は、「啓示の奇跡〔を指し示すところ〕のしるしでしかない」から、「聖書の中で物語られているすべての奇跡を盲目的にまことであると見做すことを意味していない」。「奇跡としての啓示を告白する」こと――「神はご自身を啓示し給う」という命題は、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の無限性によって導かれた命題ではなく、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に導かれた「徹頭徹尾感謝の命題」であり、「弟子たちが甦えられた方と出会った時の驚き」の繰り返しとしての「全くの驚きの命題」である。神の啓示における「隠れ、僕の姿、躓き」は、「神には何でもできないことはない」から、「神にとって何の障害も意味していない」。言い換えれば、キリストにあっての神の啓示は、「われわれの洞察や技術という手段を通して起こるのではなく」、あくまでもその「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて生起するのである。「われわれのための時間」である「成就された時間」(キリストの復活)、神の時間が「存在するということ」、「神の啓示が歴史(≪Geschichte、出来事史、「失われたわれわれの時間」・歴史の中で、「神がわれわれのために持ち給う時間」・神の時間≫)であるということ」、換言すればその関係と構造(秩序性)において客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性(時間性)を持つということは、「われわれの時間」にとって、それは、「ギリシャ人の無時間的な神々」ではない、「時間の中でご自分を啓示し給うイスラエルの契約の神」、「全く時間的に啓示される方であり給う」「永遠の神」の前で、「千年は一日のようである」ということを意味しているのである。

(ケ)「われわれの時間」が「成就された時間」(キリストの復活)によって「規定され、また限界づけられている」ことは、次のように説明できる――第一に、「本来的な時間」、「実在の時間」は、「成就された時間」のことであるから、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)が、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書」(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会における「聖書の使信の宣教」を通して「同時的」となる時、すなわちわれわれを、イエス・キリストにおける啓示の時間から攻撃され失われた非本来的な「われわれの時間から」、「イエス・キリストの時間の中へと召し、うつす時」、「われわれの生にとって最も欠かすことのできない滋養の摂取」となるということである。第二に、「時間が啓示を通して成就されるということ」は、「われわれが時間として知っており、もっていると思っている」時間が、実は、イエス・キリストにおける啓示の時間、「本来的な時間」、「実在の時間」から攻撃され失われた非本来的な時間であるということを認識し自覚させられるということである。この時、この認識と自覚は、「一般的な時間」に「危機」をもたらすのである、すなわち「われわれの時間の中で実在するすべてのものの、終わり」の告知となるのである――「わたしの時はあなたのみ手の中に有ります」(ルター)。第三に、イエス・キリストにおける啓示の時間、「本来的な時間」、「実在の時間」からする、「われわれの時間」への攻撃と否定の規定にもかかわらずその時間を依然として持っているという時、それは、「われわれの時間」が、「神の忍耐に基づいて」、「万物が避けられない仕方でわれわれの時間の終わりに向かって進む進行はひきとめられている」ということを意味している(「神の忍耐」について、「人は出34・6、ヨエル2・13、詩篇86・15および103・8ならびに145・8……に注意せよ」・「ローマ2・3および3・25以下ならびに9・22に、……Ⅰテモテ1・16に、(中略)Ⅱペテロ3・9、15に、(中略)創世記8・20-9・29に注意を向けなければならない」)。

 その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「啓示」は、「和解」という概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する。したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友として、啓示そのものが和解」である。しかし、その外在的な「失われない差異性」における第三の存在の仕方である聖霊の業に関わる救贖、「完成」の概念は終末論的用語であるから、和解の概念と一致しない。神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、救贖、「完成」は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、未だ来ていない現実性である。「復活と完成との間」は、「イエス・キリストの父であり、イエス・キリスト自身であり、この父とこの子の霊」としての「聖霊の時代」である。このイエス・キリストの復活と再臨の中間時、和解と救贖、「完成」の中間時が、われわれが現存する場所である。それは、すでに「自由の身になったという吉報を受け取った」けれども、いまだ「牢獄から外に出てしまっていない」状態にあるわれわれの現存する場所である。したがって、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである――啓示が、「まだ救済でない限り」、「神の国そのものが近づいたこと(マルコ1・15)である限り」、「キリストはまだ『父の栄光のうちに』(マタイ16・27)来たり給うたわけでない限り」、「神の新しい時間がまだ唯一の時間でない限り」、「成就された時間と一般的な時間がともどもに並んで保持されているということが起こっている限り」、「神の時間」は、「神の恵み」、「いつくしみ」、「神の忍耐」における「神がわれわれのためにもち給う時間である」ということである。第四に、このように、時間がイエス・キリストにおいて成就されたことを認識し自覚する時、すなわち啓示の中でその時間の「起源」と「目標」を見出す時、われわれは、「神の忍耐」に基づいて保持されている「われわれの時間」を、無限性としてではなく、「有限な時間」としてだけ理解することができるということである。言い換えれば、この啓示の言葉が「現臨する中で」、われわれは、「われわれが時間と呼ぶところのものが間断なく過ぎ去って行き」、永遠の、実在の「神の時間が同様に間断なくやって来ること」を認識し自覚することができるということである。このように規定された時間の中で、その「時間に対応する歴史にかなった形で、その時間意識は歴史的な、世界観的な、倫理的な、政治的な意識であるだろう。それはこの時間の中で出会って、決してそのほかの時間の中でではない」。したがって、「歴史的な、世界観的な、倫理的な、(≪社会的な、法的な、「政治的な」、国家的な≫)意識」を「有限な時間として理解する」ということは、それら一切から対象的になって距離を取るということが、換言すればそれら一切の過渡的問題と究極的問題とを明確に提起するということが、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する教会の神学における思想の問題である。