6の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(115-137頁)(その2-1)

「二十六節 神の認識可能性」
「二十六節 神の認識可能性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神認識の可能性は神からしては、次のこと――神ご自身真理であり給い、その言葉の中で聖霊を通し、真理として人間に認識すべくご自身を与え給うということ――から成り立っている。神認識の可能性は人間からしては、人間が聖霊を通して、神の子の中で、神的適意の対象となり、そのようにして神の真理性にあずかるようになるということから成り立っている。(115頁)
 このことは、次のことを意味する――(ア)神認識(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の可能性は神からしては、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業・働き・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間)、すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて成り立っている。(イ)神認識(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)の可能性は人間からしては、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神認識の可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの中で、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、それ故に(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で≫)神認識に向かっての人間の用意が存在する」(先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」)ということから成り立っている。

「一 神の用意」(その6の1)
 「神の認識可能性」を問う問いは、「神が認識される可能性」の「諸前提と条件を問う問い」である。このようにして、「キリスト教会の神論の中」で「神の認識可能性を問うことができる」。われわれは、「『神認識の実現』の遂行を念頭において、その遂行の方法の下で、その神の認識可能性を、どのように、どの程度まで起こるのかを、問うことができるだけである」。言い換えれば、われわれは、定式における「神認識の実現の諸前提と条件」、すなわち神の側の真実としてある神の側からする神認識の実現の遂行から、その遂行の方法の下で、「神の認識可能性を問う」。先ず以てイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示に固有な証明能力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学の思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは(≪あるいは怠惰な思弁に基づいたものでしかないということは≫)、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである。

 このような訳で、人間の側からする「神認識の実現」を志向し目指すところの「神の認識可能性を問う思惟」は、「感謝に満ちた思惟の仕方ではなく」、また「従順な思惟の仕方ではなく」、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を根拠とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「教会の根拠から由来し、教会に奉仕する思惟の仕方」ではなく、それ故に「神学的な思惟の仕方ではなく」、恣意的独断的な「わがまま勝手な思惟の仕方」でしかないものである。言い換えれば、それは、総括的に言えば「すべての大学社会の神学、何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」の思惟の仕方、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における思惟の仕方なのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。この時には、客観的な正当性と妥当性とをもって、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものである、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」という根本的包括的な原理的な批判が為されるであろう(フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)、また客観的な正当性と妥当性とをもって、ハイデッガーからは、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化したに過ぎない≫)存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」と「揶揄」されてしまうであろう(木田元『ハイデッガーの思想』)。したがって、E・トゥルナイゼンは、次のように注意喚起を行っている――「彼岸の消尽点が画の中に移され、神自身が人間の霊魂的な、また歴史的な現実の構成要素となり、従ってもはや神ならぬもの、偶像となる。これが特に危険な反乱であり、神への『反逆』である。その危険なわけは、それが、ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神の名において、神の呼びかけのもとに行われるからである」(『ドストエフスキー』)。また、バルトは、次のように注意喚起を行っている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼自身の対象化され客体化された自己意識・理性・思惟に過ぎない善意≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法(≪国家論の問題、すなわち国家を止揚する問題、革命論の問題を明確に提起することもしないで、場当たり的に法的政策的な言語、すなわち幻想的な共同性に過ぎない国家の言語に依存した平和の方法と平和の計画≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法(≪国家論の問題、すなわち国家を止揚する問題、革命論の問題を明確に提起することもしないで、場当たり的に法的政策的な言語、すなわち幻想的な共同性に過ぎない国家の言語に依存した平和の方法と平和の計画≫)の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない(『啓示・教会・神学』)。このような自己意識・理性・「思惟の仕方が認識できるもの」、認識したものは、「(それがたとえ何であろうと)父、子、聖霊なる神によって証しされ、教会を通して宣べ伝えられる父、子、聖霊なる神ではないであろう」、換言すれば具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)によって証され、その聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「教会を通して宣べ伝えられる父、子、聖霊なる神ではないであろう」。

 前述したことは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味でのそれではなく、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・世給・要請のことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくべき第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「教える教会にとって聞く教会にとって、意識され続けなければならず、したがってまた常に新たに、意識に上らせなければならない……」ことなのである。何故ならば、この認識と自覚に基づいてしか、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事、すなわち信仰の認識としての「神認識の事実性について、正しい理解と正しい解明を為すことはできない」からである。言い換えれば、その「神認識の事実性についての正しい理解と正しい解明」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における「先ず第一義的に優位に立つ原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての「啓示された神の言葉」――すなわち、言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」、語り手の言葉としての起源的な第一の形態の神の言葉――、具体的には「教会に宣教を義務づけている」「イエス・キリスト共に教会の宣教における原理」・規準・法廷・審判者・支配者としての「聖書の中で証しされた神の言葉」――すなわち、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態としての神の言葉――、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「教会の中で宣べ伝えられた神の言葉」――すなわち、その教会の<客観的>な信仰告白および教義としての第三の形態の神の言葉――について「正しい理解と正しい解明を為すこと」なのである。この「神認識の事実性を問う問いの後で」、「神認識の可能性を問う問いが」、「神認識の事実性の創成を問う問いが」、「出され」、その問いに「答えられなければならない」。したがって、「神の認識可能性はただ(≪具体的には、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求めるところの、「現実の神認識の中で実際に認識されるということ」は、「はっきりと言葉に出して述べられなければならない」のである。したがって、このことが、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるそれ、すなわち「啓示ないし和解」の「概念の実在」におけるそれ)とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で「事柄にかなった仕方で起こりさえするならば、その時、われわれ」は、「ただそれだけが救いに役立ち、それだけで十分な(≪信仰の認識としての≫)神認識(≪啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の実現の事実から逸脱させられることなく」、「むしろますます神認識の本質の深奥へと導き入れられるであろうことに対して気が配られている」のである。したがって、神の言葉は、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っているのである。

6の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(115-137頁)(その2-2)

 定式で述べられていたように、「神の認識可能性」は、「まず第一に、決定的に」、「神認識の実現の中で、神が事実認識されるように、認識されるべく準備している神の用意のことである」。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、「自分自身からして、自分自身を通して、認識されることが出来る」、自己認識・自己理解・自己規定されることが出来る。「神の認識可能性」は、「まず第一に、決定的に」、「神ご自身の認識可能性」、すなわちご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の<起源>・<根源>としての父は「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、その区別された子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は「父と子が根源」である――この神の自己認識・自己理解・自己規定が、「神ご自身の認識可能性」である。しかし、このことを「語ることでもって満足しようとするならば、明らかにあまりに僅かしか語っていないことになるであろう」。何故ならば、人間の用意における信仰の認識としての神認識においては、「われわれ人間が、神を認識する神認識が問題」となるから、「人間の用意ということについても語らなければならない」からである。したがって、「われわれは神の認識可能性を、……理解し、解明するためには、『神からして』と『人間からして』(≪というその全体性において≫)理解し解明しなければならない」のである。しかし、この「人間の用意」は、人間の側からする「決して独立した用意ではあり得ない」、「人間の本質と行為の中に基礎づけられた用意ではあり得ない」、「人間の用意と神の用意の間に、相互的に条件づけ合う互恵関係的な用意ではあり得ない」――すなわち、人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」における「用意ではあり得ない」。何故ならば、もしも「そのような仕方で語るとするならば、われわれは明らかに神の認識可能性について語っておらず、むしろほかの対象、(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における≫)神とは違う対象について語っていることになるであろう」からである。キリストにあっての神は、たとえ「世の内部でわれわれに対し啓示されるようになり、したがって対象となり給うことによっても」、常に、「主、創造主、和解主、救済主……であり給う」、すなわち内在的なご自身の中での神としての、それからまた外在的なわれわれのための神としての、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体であり給う。したがって、「その方に相対しては、そもそもいかなる最後的に基礎づけられた他者の存在と行為も存在しないように、また神を認識すべきいかなる最後的にそれ自身に基礎づけられた人間の用意も存在しないところの主、創造主、和解主、救済主であり給う」。したがってまた、もしも「人間の用意」があるとするならば、神の言葉に対する奉仕的な、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に対する人間の「他律的な服従」(神の側からやってくる不可避性)とその第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関を目指して行く「自律的服従」(人間の側からする意志的な決断と態度)と同じように、「その時それはただ貸与された、間接的な、あくまで人間に先行する神の後に従うという仕方での奉仕的な自主独立性だけを持つことができる」だけである――「キリストにある自由とは、キリストの奴隷となることである」、それ故に人間の恣意的独断的な「わがまま勝手な」自由とは違っている。

 「すべての用意の源泉」――すなわち「最後的にいかなる第二の用意もあり得ない神ご自身の用意からして」、われわれは、その先行する「神の用意に感謝し、服従する能力と熱心として人間に与えられた、……人間に開示され、委ねられて、ただ貸与された、間接的」な、先行する「神の後に従う仕方での自主独立性だけを持つことができる」。このような訳で、先行する「神の用意」は、「ただ単に第一の、決定的な用意であるだけ」でなく、「それは、人間の用意を、原理的に、人間の主、創造主、和解主、救済主の高所において、包含し、基礎づけ、限界づけ、規定する用意として、われわれが神の認識可能性を問う際に想起しなければならない最後的に、本来的に、唯一の用意である」。すなわち、神の認識可能性は、ここまで述べてきたように、「徹頭徹尾……われわれによって認識されようとする、(≪常に先行する内在的なご自身の中での神としての、それからまた外在的なわれわれのための神としての≫)神の本質と行為に基づいている神の用意であるということから出発しなければならない」。何故ならば、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為)、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示――「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「人間イエスを通して起こった証し」(神の自己証明)は、「そこから継続が存在するところの」「はじまりである」からである。言い換えれば、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(第二の形態の神の言葉としてのキリスト教に固有な類とその類の時間性、すなわち預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」とその時間累積)が、それからその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(第三の形態の神の言葉としてのキリスト教に固有な類とその類の時間性、すなわち教会の<客観的>な信仰告白および教義とその時間累積)が存在するところの」「はじまりである」からである。「われわれが神の本質に関して知り、また語ることのできるすべてのこと」は、キリストにあっての神は、「現にあり給うところの方」――すなわち、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において、「最高の」「唯一の本来的な主であり給う」という「この全体性の継続的な説明であることができるだけである」。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれのための神としての外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、ご自身の中での神としてのその内在的な本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示なのである。

 バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――「新約聖書においては、ただ一つの殉教の死が物語られている。すなわち、ステパノの死である」。「彼を証人とするのは、(≪先ず以て≫)彼の(≪心的な≫)言葉であって、彼の(≪身体的な≫)苦難ではない」、換言すれば彼を証人とするのは、先ず以て、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着する「彼の(≪心的な≫)言葉であって、彼の(≪身体的な≫)苦難ではない」。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする第三の形態の神の言葉である「教会」は、啓示ないし和解の実在」そのものであり起源的な第一の形態の神の言葉そのものである「ただひとりの(≪まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストの血によって(≪その復活に包括された死によって≫)、洗われ、潔められる。これが、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書に記されたところである。それがわれわれの気に入ろうと入るまいと、そうである」。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会における「証人とは、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書の意味においては、講解者・説明者・解釈者に過ぎない」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「預言者・使徒の語ったことを、指示する人に過ぎない」。「このような証人といえども、もちろん自分の観念を持ち、確信を持ち、人生の中に立ち、一定の歴史的状況の中に立っている。しかし、(≪第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会におけるそのすべての成員にとっては、「根源的・本来的な証人であるイエス・キリスト」――「『彼は主、私は僕』というこのような従属がそこにあるという点に、一切の問題の重点がある」。したがって、第三の形態の神の言葉である教会における「真の証しとは、このような(≪起源的な第一の形態の言葉であるイエス・キリスト自身を、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという≫)従属的関係において語られたすべての証しのことである」、と。ここで、価値的行動は心的行動(言葉)にあるのであって、その価値としての心的行動がその意味としての身体的行動(行為)を生じさせていると言うことができる。したがって、少なくとも本当の処女作『ローマ書』「第2版」以降、徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>、「聖書への絶対的信頼」(『説教の本質と実際』)という立場を貫徹させたバルトにとっての言葉(理論)と行為(実践)の関係は、それが教会的な事柄であれ社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語における原理・規準・法廷・審判者・支配者として「かつて語った説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践(≪行為≫)に、決断に、行動になって行った」という点にある(『カール・バルトの生涯』)。「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性」、「この幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済的なカテゴリー」、「これらの考察の根源にある彼自身の<自然>哲学」という三位一体的構成における「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論(≪言葉≫)がかれを実践(≪行為≫)のほうへ必然的につれていくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。