18-1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」(その2-1)

「神学の道」(5)
 「必然性」は、「非存在(Nicht-Sein)あるいは別な仕方での存在(anders Sein)の不可能性の性質を表示している」。したがって、それは、アンセルムスの「ラチオ(≪「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」≫)概念」においては、「法則にかなっていることという意味が一般的な指数として最も推奨されてもよい」。詳しく言えば、それは、「理性的ニあるいは諸根拠カラあるいは必然的理由ニヨッテと言う時」における「尋ね求められた知解へのを表示している」「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)と、彼が「根拠ヲ熱望スル、求める、示す、知解スルことについてについて語る時」における「尋ね求められた知解そのものを表示している」「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)との構造としてある「ラチオ(≪「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」≫)概念」においては、「法則にかなっていることという意味が一般的な指数として最も推奨されてもよい」。アンセルムスは、「客観的な信仰の対象に固有なラチオ(≪ラチオの対格的側面、探究の目標≫)について語った時」、彼は、「ラチオと必然性」を「ドノヨウニアノ死ガ合理的(≪論理的≫)マタ必然的(≪法則的≫)デアルト証明出来ルカ」というように「マタetでもって」、「アルイハvelおよびマタetでもって」「結びつけた」し、「探求されあるいは見出された客体の表示として、まさにラチオを予期するであろうところで」、例えば「生来的に人間は神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしない」から、このことが「第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であった」が故に、「神ガ必然性カラ人間トナラレタトイウ先生ノ立証ハ」、「実際ニ、モシ考エ得サエシタナラ、ソレハ(スナワチ、神ハ)必然的ニ存在スル」・「私タチガキリストニツイテ信ジテイルコトハスベテ必然的ニ実現スベキコトヲ……証明スル」といように「ただ必然性だけを用いた」。また、アンセルムスが、「主観的な弁証法的に得られたあるいは得られるべきラチオ(≪ラチオの奪格的側面、探究の手段としての、生来的な自然的な理性による信仰の認識としての神認識、啓示認識の<不可能性>と、聖霊によって更新された理性による信仰の認識としての神認識、啓示認識の<可能性>≫)について語った時も」、「真理ノ理性的(≪合理的、論理的≫)根拠、スナワチ必然性(≪法則性≫)」というように「ラチオを必然性と等置し」、「理性的必然性(≪論理的合理的な法則性≫)ニヨッテ」、「……理性モ、……必然性ヲ伴ウ」というように「ラチオを必然性を通して」、「推理ノ必然性」、「理性的必然性」というように「必然性をラチオを通して解釈した」。

 この時、「信仰の対象」と「知解の対象」に関して、「必然性とラチオについて次のような定義が生じてくる」。
(1)「信仰の対象に固有な必然性」は、「それが存在しないでいること(Nicht-Sein)あるいは別な仕方で存在すること(anders Sein)の不可能性」ということを意味している。「それは、信仰の対象を非存在あるいは別の仕方での存在へと陥らせない」ところの「信仰の対象の基礎である」。信仰の対象の「存在と本質の真理」は、「ワレワレノラチオノ(≪生来的な自然的なわれわれの認識的なラチオの≫)真理(≪例えば、一つの命題の真理≫)」「それ自身の中に基づいてはおらず」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)を通して、信仰の「対象が創造され、その対象に対してそれが(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が≫)造られると共に」、「神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理との類似性(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、それと共にその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を賦与する神的な言葉」、「厳格に理解された真理(≪啓示の真理≫)ノラチオの中に基づいている」――信仰の対象は信仰の対象に固有なラチオ(存在のラチオと認識のラチオ)を持っている。言い換えれば、「信仰の対象」、「信仰の対象の存在と本質の真理」、「啓示の真理」は、その啓示に固有な証明能力を持っている、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、その客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面である「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている。

(2)「証明スルことと喜バスことにまで来なければならない」「信仰が『要求する』」「知解スルintelligereこと」に「固有な必然性」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として啓示の「真理を(≪啓示の≫)真理として理解する」「信仰ノ知解intellectus fideiに固有な必然性」、「信仰の対象の知解に固有な必然性」は、「信仰の対象」を、「非存在(Nicht-Sein)」あるいは「別な仕方での存在(anders Sein)するものとして考えることができない(思惟された)不可能性のことである」。このことが、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての「信仰の対象の必然性を通して排除された非存在あるいは別な仕方での存在の(思惟しつつ為された)否定である」ところの「信仰の対象の知解の基礎づけである」。したがって、われわれは、具体的にはそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としなければならないのである。したがってまた、われわれは、キリスト教に固有な類の歴史性において、その聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を媒介・反復しなければならないのである。したがってまた、われわれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、聖書的啓示証言を原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義を深化し豊富化させていかなければならないのである。この途上性を認識し自覚して生き思惟し語ったのがカール・バルトである。カール・バルトは、本当の意味での処女作『ローマ書』「第2版」以降、現実と時代に強いられて、ここでも・どこでも、徹頭徹尾、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーからの客観的な正当性と妥当性とをもった自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にあるキリスト教に対する根本的包括的な原理的な揶揄・批判を包括し止揚し克服して行くという仕方で、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指しているのである。

(3)「尋ね求められた知解へのを表示している」「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)と「尋ね求められた知解そのものを表示している」「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)との構造における「信仰の対象に固有なラチオ」は、その信仰の対象の「存在と存在の法則にかなっていることである」。それは、「信仰の対象を、(法則にかなう存在と存在を聞くことができる)本質に対して聞き得るものとする」ところの「信仰の対象の理性性(≪論理性、合理性≫)である」。このことは、「教義学的な合理主義」を意味していない。何故ならば、それは、教会の一つの補助的機能としての神学を、「一般的真理としてではなく、啓示から得られた認識として」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事として、啓示認識の可能性について思惟し語っているからである。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その啓示に固有な証明能力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っている。

(4)「尋ね求められた知解へのを表示している」「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)と「尋ね求められた知解そのものを表示している」「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)との構造における「信仰の対象の知解に固有なラチオ」は、その信仰の対象の「存在と存在の法則にかなったものであることが、信仰の対象を考えることの中へと共に取り上げられた考えることである」。この「ラチオ」は、「信仰の対象の知解を、信仰の対象が、(法則にかなった存在と存在を聞くことができる)本質を通して聞かれることとして特徴づけている」ところの「知解の理性である」。神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の啓示認識は、生来的な自然的な人間理性によるそれではなく、聖霊によって更新された人間の理性と人間の言語を用いてのそれである。 

18-1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」(その2-2)

 「定義(1)と定義(2)の相互の関係から、次のことが続いてくる」。
(5)「信仰の対象の知解の基礎づけ」は、「信仰の対象そのものに固有な根拠の承認から成り立っている」。客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての「存在的な必然性は、(≪主観的な≫)認識的な必然性に対して先行する」。先行する客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示の必然性が、その「啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、その啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力という認識的な必然的を持っている。

 「定義(3)と定義(4)の相互の関係から、次のことが続いてくる」。
(6)「信仰の対象の知解の理性」(聖霊によって更新された理性)は、「信仰の対象そのものに固有な理性性(≪論理性、合理性≫)の承認から成り立っている」。「存在的なラチオ性は認識的なラチオ性に先行する」。言い換えれば、客観的に存在している三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)としての「存在的なラチオ性」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味でのそれではなく、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関における主観的な「認識的なラチオ性に先行する」。

 前述したアンセルムスの「必然性とラチオ」との「相互関係からして、……次のことが生じてくる」。
(7)「信仰の対象に固有な根拠」は、「信仰の対象の固有な理性性(≪論理性、合理性≫)と共存し、存在的な必然性は存在的なラチオ性と共存する」。言い換えれば、それは、先にも述べたように「教義学的な合理主義」を意味しないのであるが、信仰の対象を「存在と存在の法則にかなっているものとする」ところの、「信仰の対象を、(法則にかなう存在と存在を聞くことができる)本質に対して聞き得るものとする」ところの「信仰の対象の固有な理性性」(論理性、合理性)と共存し、客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての「存在的な必然性」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)と共存する。

(8)「信仰の対象の知解に固有な基礎づけ」は、「信仰の対象の知解に固有な理性と共存し、認識的な必然性は認識的なラチオ性と共存する」。言い換えれば、それは、信仰の対象の知解に固有な聖霊によって更新された理性と共存し、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面としてのその証しの力を持つ「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である「聖霊の注ぎ」としての「認識的な必然性」は、あの第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関における「認識的なラチオ性」と共存する。

 (5)と(7)から次のことが続いてくる。
(9)客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての「存在的な必然性は認識的なラチオ性に先行する。すなわち、信仰の対象の知解の理性(≪聖霊によって更新された理性≫)は、信仰の対象に固有な根拠の承認から成り立っている」、客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての存在的な必然性の承認から成り立っている、換言すれば客観的なイエス・キリストの存在(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)を、「存在的な必然性」として、ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かっての」外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間として承認することから成り立っている。

 (6)と(8)から次のことが続いてくる。
(10)三位一体の唯一の啓示の類比として神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)という「存在的なラチオ性は、(≪客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事の主観的側面としてのその証しの力としての「聖霊の注ぎ」という≫)認識的な必然性に先行する」。信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、先行する客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)とその啓示の出来事の主観的側面としてのその証しの力としての「聖霊の注ぎ」(≪認識的な必然性≫)による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で起こる。「信仰の対象の知解の基礎づけは信仰の対象に固有な理性性(≪論理性、合理性≫)の承認から成り立っている」。

(11)「存在的なラチオ性そのもの」は、「最後のものではなく」、「最高ノ真理に照らしてはかられたまことのラチオ性でしかないように、また存在的なラチオ性と共存する(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示としての≫)存在的な必然性もそうである」――「神にとって存在している必然性は、ただ栄誉ノ不変性でしかありえないであろう。(≪なぜならば、≫)ソノ栄誉ノ不変性ハ他者カラ与エラレタモノデハナク、自分自身ニ由来スルカラ、厳密ナ意味デハ必然性ト呼バレナイ(≪からである≫)。(中略)スベテノ必然性ハ、彼ノ(スナワチ、神ノ)意志ニ従属シテイル。ナゼナラ、神ガ意志シ給ウコトハ、必然的ニ存在スルカラデアル。存在的な必然性は、例えば『神ハナゼ人間トナラレタカ』において、キリストが人間となることと和解の死に対して帰せられている。存在的な必然性が、アンセルムスにおいては、……最後の言葉ではありえないということが看過されてはならないであろう。(≪なぜならば、≫)『モシ彼ガナシ、ソシテ苦シンダスベテノコトノ真ノ必然性ヲ知リタイナラ、彼ガ望ンダカラコソ、スベテガ必然性カラ起コッタコトヲ知ルベキダ。シカシ、ドノヨウナ必然性モ彼ノ意志ニ先行シナカッタ』(≪からである≫)」。啓示の「真理の中で、真理を通して、神の中で、神を通して、根拠は根拠をもち、理性性は理性性をもつ」。

 「必然性と理性性相互の間の関係については、次のことが言われなければならない」。
(12)これまで述べてきたように、「非存在(Nicht-Sein)あるいは別な仕方での存在(anders Sein)の不可能性の性質を表示している」「必然性の概念」は、「認識的な内容を持っているにも拘らず、存在的なものとの起源的な近親性を持っている限り」、また信仰の対象を「存在と存在の法則にかなっているものとする」ところの、「信仰の対象を、(法則にかなう存在と存在を聞くことができる)本質に対して聞き得るものとする」ところの「信仰の対象の固有な理性性(≪論理性、合理性≫)の概念」は、「存在的な内容を持っているにも拘わらず、認識的なものとの起源的な近親性を持っている限り」、「必然性は理性性に先行しなければならない」。したがって、「問題を真理概念に移す」時、「神の意志を神の知」に先行させるということが結果として生じてくる。われわれ人間が人間的に所有する人間の理性(聖霊によって更新された理性)と言語を用いての人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、神のその都度の自由な恵みの決断(神の意志)による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(具体的には、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)とその啓示の出来事の主観的側面としての証しの力としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて初めて終末論的限界の下で与えられるものである。