6-2.『教会教義学 神の言葉Ⅰ/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳224-288頁、その4-3)

ニカイア・コンスタンティノポリス信条(6-2.その4-2からの続き)
(エ)「われわれは光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずして生まれ〔たもの〕としてのイエス・キリストを信ず」。この条項は、<6-2.『教会教義学 神の言葉Ⅰ/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳224-288頁、その4-2)>でも述べたように、「キリストの神性についての三位一体神学の本来的にして決定的な規定」の言表である。すなわち、「キリストは神の被造物ではなく、神から生まれた方である」、換言すればイエス・キリストは、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「子として自分を自分から区別」したところの神の子として神自身である。したがって、われわれは、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現、外在的な「神の行為としての啓示(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の中で……直接にまた(≪内在的な≫)神の本質をも認識しなければならない」のである。言い換えれば、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、その外在的な存在の仕方の内在的な本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰(啓示認識・啓示信仰)を要求する啓示なのである。「われわれはなるほど、この区別(≪外在的な「失われない差異性」≫)と単一性(≪内在的な「失われない単一性」≫)を言い表そうとこころみることができるし、またこころみなければならない」。しかし、「神の言葉の認識は、ただ信仰の中での、神の言葉の認識であるうるだけであり」、換言すればそれは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論現限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の中での「神の言葉の認識であるうるだけであり」、それ故に「決定的に、この対象を通してわれわれにむけられた問いに対する承認〔受認〕、人間的な応答でだけあり得る」。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な「教義を、いや、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書の表現を、そのまま〔まねて〕後に続いて熟考し、言葉に表現するとしても……ただ、神の恵みを通してだけ(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ≫)、自分のものとなり得るであろう」。したがってまた、「われわれの(≪恣意的独断的な人間的理性や人間的欲求やに依拠した≫)思惟と語りそれ自体は、(≪その最初から≫)この対象に対し適当なものであることはできず、ただ不適当ものであり得るだけであろう」。

(オ)「まことの神よりのまことの神」――「まことの神に基づき、まことの神から出ているまことの神」がイエス・キリストである。「マコトノ神とマコトノ神は、独立的な本質として相対して立っているのではなく、それらは同じ一つの独立的な本質(≪「失われない単一性」≫)の中で、二様(≪二つの存在の仕方あるいは存在の様態≫)なのである」。言い換えれば、イエス・キリストは、ご自身の中での神としての、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての「父」(自己還帰する対自的で対他的な完全に自由な、内在的な第一の存在の仕方あるいは存在の様態)が子として自分を自分から区別したところの「父を根源」とする「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「子」(自己還帰する対自的で対他的な完全に自由な、内在的な第二の存在の仕方あるいは存在の様態)としての神、神の子である(ここで、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」・「一神」としての「父」、「子」という「二様」性――すなわち「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」・「一神」の<起源>・<根源>としての「父」(内在的な第一の存在の仕方あるいは存在の様態)と父が自分を自分から区別したところの「父を根源」とする「子」(内在的な第二の存在の仕方あるいは存在の様態)という概念を疎外しないならば、概念的に矛盾してしまうことになるから、ここで疎外は疎外の止揚である)。

 それからまたこの神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、第三の存在の仕方である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において「われわれのために存在される方である」(バルトは、この「三度別様」の「三つの存在の仕方」を、「他との関係なしにそれ自身で存在している」近代的な「個体」概念と区別させるために、「人格の名で呼ぶことを避けて」、「存在の仕方」あるいは「存在の様態」と呼んだ。因みに「私利・私意」を精神とする近代市民社会においてわれわれ諸個人は、資本主義の発達と高度化に伴って、「私利・私意」に基づく利己主義的な私的他者との対立・争い、利害共同性との対立・争いを強いられている、そして他者を現実的に侵害しないということを原則とする個人主義へのベクトルが縮小し、軽薄な明るさの中で平然と他者を現実的に侵害していく利己主義へのベクトルが拡大している)。したがって、「啓示ないし和解」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、働き・業・行為)は、「創造の継続」や「創造の完成」(父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、外在的な「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方、働き・わざ・行為)ではない。すなわち「啓示ないし和解」は、「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、その「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行した」のである。この外在的な存在の仕方の「失われない差異性」における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父に先行することはできない」。しかし、この父と子は共に、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質する「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」であるから、その「従属的な関係」は、「失われない単一性」を内在的な本質とする「三位相互内在性」における差異性を意味しているのではなく、その外在的な存在の仕方の差異性を意味しているのである。

(カ)「光よりの光」――「具体的にそこで言おうとされていることは、おそらく先ず第一に、教父たちによって特に好んで用いられた、太陽および太陽光線という比喩である」。「光源である太陽」――すなわち「父は自分自身以外の何ものからでもない」神的本質(内在的本質)であるから、「三位相互内在性」における神の<起源的>・<根源的>な存在の仕方(存在の様態)である「父」の比喩であり、その太陽光線は、その神的本質(内在的本質)の「失われない単一性」の中で父が「自分を自分から区別」したところの「父を根源」とする「子」としての神、神の子、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の<起源>・<根源>としての父(自己還帰する対自的で対他的な完全に自由な、内在的な第一の存在の仕方あるいは存在の様態)が子として自分を自分から区別した存在の仕方(存在の様態)である「子」(自己還帰する対自的で対他的な完全に自由な、内在的な第二の存在の仕方あるいは存在の様態)としてのイエス・キリスト自身の比喩である。しかし、とバルトは言う――「厳密にとるならば」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白の「比喩の言い方はイエス・キリストについての記述として、依然として不適当であり続け、対象は明らかに(≪われわれ人間≫)言葉(≪われわれ人間の思惟と語り、比喩、概念≫)の彼岸にあり続ける」、と。したがって、バルトは、この信仰告白は、「この比喩の言い方でもって」、存在の類比に依拠して、「造られた世界の中での三位一体ノ跡を、……指し示そうとしているのではない」、と述べるのである。すなわち、この信仰告白は、アウグスティヌスのように、「存在するものそのもの」・「その純然たる造られた存在」に依拠した存在の類比を通して、「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りの水準のものではない。もしもそうでないならば、この信仰告白は、生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やが恣意的独断的に対象化した人間自身の「内在的に理解」された「宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」・「単なる宇宙論や人間論」でしかなくなってしまう。そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」・「神話」でしかないものである。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学に関わるバルトは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比、関係の類比を通して、逆に「世界を三位一体から説明せんと欲した」のである。

(キ)「決定的な定式は、『造られずして、生まれ』という第三の定式である」。イエス・キリストは、神の「代官」や「神を表しているもの」や「神の被造物」ではなく、「神の存在の仕方として、(中略)神から由来するところの神自身である」。イエス・キリストは、ご自身の中での神としての、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての「父」が子として自分を自分から区別したところの「父を根源」とする「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「子」としての神、神の子である。この内在的な神の外在的な第二の存在の仕方において「啓示者(≪啓示者である父なる神の子としての啓示となるべく人間となられた方≫)、また和解者となるべく人間となられた方」であるイエス・キリストは、「造られたのではない」から、この「啓示と和解は、創造の内部での一つの出来事」(外在的な第二の存在の仕方の出来事)であり、また「ここで人間となられた方」であるイエス・キリストは、内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「神(≪「一神」・「一人同一の神」・「三位一体の神」≫)であるがゆえに」、ナザレのイエスという人間の歴史的形態としての「彼の人間であることは、啓示および和解として現実に有効なのである」。「キリストの永遠のまことの神性」は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その外在的な「啓示と和解」(第二の存在の仕方、業、働き、行為)が「キリストの神性」の根拠ではなくて、内在的な「キリストの永遠のまことの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。

 さて、イエス・キリストは、自然的な「被造物世界の内部におけるすべての生き物のように、生まれる」、母・マリアからナザレのイエスという人間の歴史的形態において生れる。しかし、「神的な創造者の言葉に基づいて、神的な創造者の言葉の前提のもとで、生まれる」。すなわち、「創造と罪が互いに一緒にありつつ、互いに相対立している過程の中で、人間が生まれるように生まれる」。この比喩も不適当であり、この言表で神が把握できてしまうわけではない。この信仰告白の比喩は、ほんとうは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての「父は子を、彼だけが知っているような仕方(≪神の被造物そのものであるわれわれ人間には全く知られないような仕方≫)で生む」から、その出来事は、われわれ人間にとっては「言葉ニ言イ表ワシ得ナイモノデアル」対象としてのそれである。したがって「無知ヲ告白スルコトヲ恥ジルコトハナイ。ナゼナラバ、アナタハ御使イタチト共ニ無知ダカラデアル」、ということを意味している。「神の中にこそ、父と子の関係」は、「すべての被造物的関係がそうであるように」、「その起源的な本来的な実在をもっている」、「出生の秘義は、起源的に本来的に、被造物世界の秘義ではなく、(一つの)神的な秘義、いやそれこそ(≪その内在的な本質からする≫)神的な秘義である」。

 「生む」・「生まれる」という父と子の比喩は、「造られた世界の中で、ひとりの父の人格とひとりの子の人格の間に成り立っているような相違性と連続性とが、……成り立っているということである」。ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父は「子として自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」である。この「神の中で、神から、生じること」、この「傑出さの中に」、「造られずして生まれ」の「意味内容がある」。このことは、自己還帰する対自的で対他的な神の完全な自由を意味している。したがって、その区別された子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりである「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊は「父と子が根源」である。この神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である子の中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。したがって、この神が「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的な本質とすることからして、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある――「父、子、霊の働きの単一性(≪「失われない単一性」を本質とする内在的な「三位相互内在性」≫)は、……(≪外在的な≫)三つの存在の仕方の交わりとして、理解されるべきである」。これらの出来事は、先ず以て「神の中での出来事」としてある――自己還帰する対自的であって対他的な完全に自由なキリストにあっての神は「失われない単一性」を本質としているから、「子と霊は父とともにひとつの本質である。神的本質のこの単一性(≪「失われない単一性」≫)の中で子は父からであり(≪父から「出ズル」であり、「父が根源」であり≫)、霊は父と子からであり(≪父と子から「出ズル」であり、「父と子が根源」であり≫)、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない(≪自分自身が<起源>・<根源>である≫)」。われわれは、ご自身の中での神としての内在的な「神自身が(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方において≫)自分自身について語る言葉(≪イエス・キリストにおける「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの≫)に」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語り行為における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「他律的服従」と「自律的服従」との全体性において、「ただ奉仕すべきである」。「そしてそれから、われわれはこう言うべきである。わたしたちは無益な僕です。わたしたちはただ為すべきように、この比喩の中で考え、語っただけです。しかもわたしたちは、そこで考え、語ったことに対して、何ら『正当性』(正しさ)を要求したり、主張することはできません、と。『正当性』は、ただひたすらわれわれがその方について考え語った方にのみ属しており、われわれが考え語ったことに属してはいない」。「われわれはただ不真実の中で、真実について語り得るだけである。われわれが神を父および子と呼ぶ時、われわれは語っているところのことを知らない」。なぜならば、「われわれが神を父および子と呼ぶ時、われわれが表現している真理はわれわれにとっては隠され、探求され得ない真理である」からである(われわれは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性の下に置かれている。したがって、ほんとうは、もともと自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教というものは成立し得ないのである)。しかし、「われわれが(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語り行為における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、≫)神をそのように呼ぶ時に、われわれはあくまで真理を、神の真理を表現しているのである」。

 バルトは、次のように述べている――第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学(その思惟と語りと行動)が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にわれわれの思惟と語りと行動は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである、と。


6-2.『教会教義学 神の言葉Ⅰ/2 神の啓示(上) 三位一体の神』(邦訳224-288頁、その4-4)

 バルトは、ニカイア・コンスタンティノポリス信条に、「欠けている一つの比喩的表現」を補う必要があることを述べている。それは、「新約聖書」や「教会の言葉」における「イエス・キリストは神の言葉である、という比喩である」。われわれが、外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの行為(業、働き)を「内容的に和解として理解する時」、それは「神性」を内在的な本質とする「神の子」を指し示しているように、そのイエス・キリストの外在的な行為(業、働き)を「形式的に啓示として理解する時」、それは「神のことば」(起源的な第一の形態の神の言葉)を指し示している。「キリストノ恵ミ〔恩寵〕」は、「神自身においてのみ実在であり真理である」・「真理性と実在性である」から、それは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の「神自身の……もの」である。したがって、われわれは、次のように言われなければならない――ニカイア・コンスタンティノポリス信条が「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が自分を自分から区別したとことの子として神、「神の子」について語る時、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方としての「神の言葉」との全体性・総体性において理解されることを「欲していた」、と。「言葉は〔あの〕ひとりの主である。言葉は父によってすべての時の前に語られた。言葉は光よりの光、まことの神よりのまことの神である。言葉は造られずして、神によって語られた。したがって、(中略)イエス・キリストは永遠からして語り給う方の永遠の言葉である、永遠からして考え給う父の永遠の思惟である、〔その中で〕神がご自身を考える、ないしは自分自身のもとで自分自身を表現する言葉である」。したがって、一方で、「またここでも、(中略)この言い方も」、この「概念」も、「一つの不適切な言い方」であり、「概念」である、と告白しなければならない。すなわち、「われわれは、イエス・キリストを神の永遠の言葉と呼ぶ時、そもそも何を言っているのか知らない」、「われわれはいかなるまことの言葉を知らない」。したがってまた、次のようにも言わなければならない――先ず以て「まことの言葉はわれわれにとって、……ただ厳格に排他的に、神の中にかくされた永遠の言葉、イエス・キリスト自身である、と」(イエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神は隠サレタ神である」)。「われわれがイエス・キリストを神の言葉と呼ぶ時、それが真理となるように、……啓示を、そして信仰を、必要としている」(神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」――すなわち客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を必要としている)。永遠の言葉の受肉(≪あくまでも言葉の受肉であって、神性の受肉ではない≫)と聖霊の注ぎという、……恵みの出来事(≪イエス・キリストの啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事≫)を必要としている」。このような訳で、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教にあるような「いかなる存在ノ類比もない」のであって、「あるのは信仰ノ類比だけである」。したがって、「われわれは、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による≫)啓示と信仰の出来事を念頭において、いつもわれわれの人間的不真実の中で、神的真理を語る……ことが赦されるであろう」。

(ク)「われわれは『父と同質である』(父と一つの本質である)として、イエス・キリストを信じる」。バルトは、すでに来たように、「アタナシウスの同一性」・「アウグスティヌス――西方的解釈」の側に立脚して、「一つの本質」・「同一の本質」解釈を採用する。何故ならば、それは、第一には、アリウス主義の「『下からの半神』、『超人』」としてのキリスト論に抗することができるからである、また「『造られずして生まれ』を強調し、鋭くする」からである、またイエス・キリストを「創造主の側におく」からである、第二には、「オリゲネス以来……の見解」、すなわち「神性の内部」の段階論におけるキリスト論、また「上からの半神」としてのキリスト論に抗することができるからである、また「『まことの神』を強調し、鋭くする」からである、またエビオン主義的キリスト論や仮現論的キリスト論に対する「戦線を形造っている」からである、第三には、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」という啓示理解において、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的自我」という「多神教」理解に抗することができるからである。「わたしと父とは一つである」。しかし、「ただわたしと父という区別(≪「二様」性、存在の仕方あるいは存在の様態≫)の中でだけ『一つ』が有効である」(ここで子は、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父が「自分を自分から区別」した子としての神、神の子である)。先に述べたように、「ただこの一つであるということの中でだけわたしと父 (≪「失われない単一性」を内在的な本質とする父と子という区別、「二様」性、存在の仕方あるいは存在の様態≫) とが存在する」。この時には、様態論に抗することができる。と同時に、「人が同質(≪『父と同質である』――「失われない単一性」を内在的な本質とする子としてのイエス・キリストは「父と一つの本質である」≫)という概念を、(中略)アタナシウスやアウグスティヌスと共に本質の同一性として、しかしまた新ニカイア派の者たちの関心もとりあげつつ、ひとつの本質の二つの区別された同様の存在の仕方(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での二つの区別された存在の仕方」≫)について語らせる時、……その概念は、人が哲学において『空虚な概念』として表示するのを常としている如き種類の概念となる」のであるが、そうした人間学的神学あるいは哲学的神学(総括的に言えば、自然神学)にも抗することができる。「哲学者たちと哲学づいた神学者たちは以前からホモウシアの概念を使って、軽はずみな遊戯をしてきた」。したがって、「被造物は、自主独立的に、自分勝手にではなく、神の啓示を通して信仰の中で(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の中で≫)神を認識しなければならない」。このように、「われわれのキリストの神性についてのわれわれの考察のすべての線は、イエス・キリストは父と同質である、という教義を正しいとしなければならない点にわれわれを導いた」。ルターは、子としてのキリストは「父と共に唯一のまことの神であり、すべてのことにおいて父と等しく」(父と子と共に「失われない単一性」を内在的な本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるから)、「キリストは父からであり(≪何故ならば、子は「失われない単一性」を内在的な本質とする三位一体の神の<起源>・<根源>としての父が自分を自分から区別したところの「父を根源」とする子としての神、神の子であるから≫)、父が彼からではない」(何故ならば、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の<起源>・<根源>としての父は、「子として自分を自分から区別するし、自己啓示する神として自分自身が根源である」から≫)、「……キリストは固有な、本来的な、神でなければならない」、と語った。「神的本質のこの単一性の中で子は父から、霊は父と子からであり、他方、父は自分自身以外の何ものからでもない」。

(ケ)「われわれは『〔それによって〕すべてのものが造られた』方としてのイエス・キリストを信じる」。「この命題の内容は、……厳格に三位一体神学的に理解されるべきであり、……それは次のことを意味している――「三位一体ノ外ニ向カッテノ働キハ分ケラレナイ」、「子の中で、子とともに父もまた、啓示と和解の中に現臨しつつ行動する限り……父もまたこの啓示と和解の出来事の主体である」、子としてのイエス・キリストは「父と等しく、永遠からしてまことの神である」。「創造とは、すべての被造物性の上方および彼岸での、その根源性の中での神性のことである」。これが、信条における「『すべてのものはその方によりて』で言おうとしている」ことである。「その方によりて」で信条は、「その根源性」、すなわち「父は自分自身以外の何ものからでもない」その起源性・根源性と「二様」性(その存在の仕方あるいは存在の様態)において、「子を全く父と区別する」。また「すべてのものは」で信条は、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体性において、「全く子を父と密接に結びつける」、ここには、「創造主の力をもつ啓示者(≪啓示者である父なる神の子としての啓示≫)としてのイエス・キリストの一つの実在がある」。

 この「すべてのものは主によって造られたという思想」は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、第三の存在の仕方である愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において理解されなければならない。「彼は自分のところに来た(ヨハネ1・11)」。この「失われない単一性」を内在的な本質とする三位一体の神の、外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)を通して、「義とされ、聖化されたわれわれは存在する」。しかも、神の側の真実としてある、それ故に「永遠的実在」としてある、外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリスト(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)は、「失われない単一性」を内在的な本質とする三位一体の神として、「われわれの存在の彼方、われわれの存在を越えたところにある(≪われわれの存在の「彼岸」・「外」にある≫)、われわれの存在の基礎である」。したがって、「われわれがその言葉を聞こうと聞くまいと、われわれがその言葉に従順であろう不従順であろうと、われわれの存在は現実なのである」。「われわれが彼に対して〔応答し〕責任を負おうと欲するかどうかなどということは、問題ではない」。何故ならば、その言葉は、「力と権利をもつ王の支配の行為」であり、「力をもつ……主の言葉」であり、「また創造者でもある和解者の言葉である」からである。「われわれは、われわれに裁きと恵みを告げるそのまさしく同じ言葉を通して生成したわれわれの人間存在以外の人間存在について何も知らない」。「その言葉がわれわれの人間存在の基礎」である。したがって、われわれは、次のように思惟し語らなければならない――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。
 
 新約聖書によれば、イエス・キリストは、「類語反復」において、「彼は主であるが故に、主である」。このことは次のことを意味する――すなわち、「失われない単一性」を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、「創造主なる神であることによって、同時に、彼ら〔新約聖書の人間たち〕にとって和解主なる神である」、「彼の裁きと彼の恵みは、彼が彼らの現実存在にかかわることによって、同時に、彼らにかかわる」、「彼は彼の裁きと彼の恵みとをもって彼らにかかわることによって、同時に、彼らの現実存在にかかわる」、「彼らがイエス・キリストを通して、彼らの和解について知ることによって、同時に、彼らは自分自身を、彼らの存在を、彼らが造られたものであることを、創造主を、知る」、ということを意味する。われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して、われわれ人間、われわれ人間の世、われわれ人間の時間について自己認識・自己理解・自己規定することができる、「神に対する人間的反抗」、「罪深い堕落した人間」、そのような「人間の世」を、その「歴史」を、その現にあるがままに自己認識・自己理解・自己規定することができる、「自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができない」(『福音主義神学入門』)ことを、その現にあるがままに自己認識・自己理解・自己規定することができる。バルトは、最終的に離脱した宗教的社会主義について、「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかったと述べている(『証人としてのキリスト者』)。