吉本隆明『読書の方法 なにを、どう読むか』「批評と学問 西欧近代化をどうとらえるか」光文社、に基づく

 私に興味・関心があるところで私なりに整理してみれば、吉本は、次のように述べている。
1)内(内部)なる西欧の典型
 ラフカディオ・ハーンは、近代日本にある日本的特殊性の限界の近くにまで掘り下げて日本観を形成した。その日本観を、吉本は、ハーン(小泉八雲)の『仏の畑の落穂』「人形の墓」に即して論じている。「ある放浪の娘をある家の主人」が家に招き入れて、放浪の事情を聞く話である。「一家」のうち「一年のあいだに」父が、その後を追って母も死んだ・こうした場合、「きっともう一人死ぬという言い伝えが」あるから、「それを防ぐには人形を土に埋めて人形の墓を作」る必要がある・そうすれば、「三人目の人は死なない」。しかし、そうしなかったため「母親の四十九日」に、「母親の霊に……呼ばれるように」、「いままで元気だった兄」が急死した。その言い伝え等を「その家の主人から聞」きたいと思ったハーンは、「身上話」をし終わってその家から立ち去ろうとした娘が座っていた席に座り直そうとしたのだが、その彼に対して、その家の主人が「別の言い伝えによると、不幸な人が座った場所にまだぬくもりが去らないうちに座ると、座った人の不幸が全部移ってしまう」と教えるのだが、ハーンは「いい」と言って、「娘の座っていた場所に座った」。その時、その家の主人は、立ち去ろうとする娘に対して、「この人(ハーン)はお前の不幸を全部じぶんで引き受けてやろうと思っているだよと告げ」た。この日本観は、西洋近代の観点からすれば迷信・迷妄に過ぎないとしても、近代日本にある日本的特殊性の限界の近くにまで届いた、日本における、「古い習俗(柳田國男的にいえば民俗)」・「迷信的習俗のなかの厚い情緒」・「習俗の中に貫かれている感性」を抽出したそれである。そして、西欧は、このハーンの日本観を介して、日本を理解した。その典型は、ホフマンスタールである。したがって、「われわれが学問あるいは非学問の領域」で、西欧と日本を「比較したとき、われわれにとってハーンは内なるヨーロッパを象徴」している。「われわれが見る内なる西洋の極限はそれなのです」。「われわれが描く内なるヨーロッパのもっとも深い意図なんです」。「これは比較文化論の域を超える問題です」。

2)外(外部)なる西欧の典型
 「学問あるいは非学問の領域」で、西欧と日本を「比較したとき」、折口信夫の「学問の……方法」・発生論・発生(起源)の概念は、「もっとも深い外なるヨーロッパ」を象徴している。なぜならば、「発生」・「起源」の概念は、「マルクス」にも「ニーチェ」にもあるが、「折口に影響を与えているのはニーチェだと思われる」からである。折口は、その影響を「ひとことも言わない」で、そのニーチェの概念を「肉」体化・有機的身体化してしまっているからである。折口は、日本文学の発生について、次のように述べている(『日本文学の発生 序説』角川書店)――①広義の人間学において社会を対象とするのが社会学であるように、折口は、「日本の文学(≪「文学の一つ」としての「国文学」≫)を対象とする学問」は、「国文学学」である、②「文学を押し動かして来た力に対する考えが、……欠けて」いてはならない。③「国の文学」の、その「位置」づけと「領域」性を考える「本質問題」は、「もののあはれ」(≪「日本文学の本質」≫)・「幽玄」(≪「短歌の本質」≫)・「さび」(≪「俳諧の本質」≫)の精神の類型化とその適用にはなく、「日本文学がだんだん発生して来た順序に沿うて考えていくより以外にない」。すなわち、文学、もっと言えば文学心の発生・起源にまで遡及して考察する必要がある。芭蕉は、「たまにはおどけも言うが、たいていの場合真面目くさっている。(中略)おどけている自身すらも、まじまじと見ている。俳諧をおどけとして見れば、芭蕉以前に俳諧の本質的なものがある、と考えてもよいのだ」。④「世界の文学をことごとく読んだ人は少ない。知っているといっても、たかだか数か国に過ぎない」だろう。したがって、「比較する土台が出来ていない」。また、外国の、「インド・しなの古い文学」、また日本のそれの研究についても、「結局代表者を選んで」そうしているのだから、「その比較も確かなものではない」。⑤日本文学と世界文学の差異性を考える場合、「短歌や俳句」における「形式要素による特殊性」を対象とすると「自由に考えていける」。しかし、この場合も、「日本文学の内容にあるもの」、すなわち日本的な「文学精神」の発生・起源にまで遡及して考察していくこと・「目指して行く」ことが必要である。なぜならば、例えば、吉本が述べているように、西欧にとって、四季のさまざまな風物に対して、論理によってではなく心情によって無常や喜怒哀楽を感じとっていく自然思想や、普通の人たちがある悲しみを短歌の韻律に載せて表現し得る豊かな情緒性は異質として映った、したがって、写生を重んじる俳句は西欧でも受け入れられるとしても、豊かな情緒性が必要とされる短歌は受け入れられるのは難しい、からである。言わば、『万葉集』「防人の歌」にあるように、赤駒を山野(やまぬ)に放(はが)し捕(と)りかにて多摩の横山徒歩(かし)ゆか遣(や)らむ、と防人として徴集される夫を見送る当時の農民の妻が、悲しみを短歌の韻律に載せて<当たり前に>歌を詠んでいた、からである。⑥日本人は文学の上で、「何に普遍的に喜び、何に衝動を感じたか」(「文学心」)ということを考察するためには、「すでに文学となっているものから見初めるのでは遅蒔き」であって、「文学に一歩足を懸けている時から見るのでなくてはわからない」。⑦「日本人の文学心」にとって「大事なこと」は、第一に、「感傷にとどまる」「せんちめんたりずむに遊ぶ」のではなく、「これを掘り湛えて」・「人生の深さに触れ」る「感傷の味わいを知り初めた」ところの「悲劇精神」にある。「人生の悲しみというものを思い沁むというようなこころは、早くから短歌に結びついている。それが短歌の内容を早く規定しようとしたものであり、また一種の響きとして――むしろ、においという語に当たる――形式に感染を伝えてもいるそういうものを『おもむき』という。これが、広く正しい意味における内容なのである」。第二に、「知らないで」・「自覚しないで」「人生を文学にする」ところの、「我々に古くから伝わっている感情」、「文学と不即不離の関係で来ている……誹諧味である」。それと、生理的自然の方から生じてくる「卑陋な趣味」・「さもしい喜びの感情」・「欲情が中心」の「痴れ笑い」は、抑圧されたそうした感情を「開放されたい開放されたいという欲求」に基づいており、「芸術の狙うところと、似て来ている」。「源氏物語の雨夜の月旦(しなさだめ)のところには、『親しい人々だけがよりあった機会には、夫婦の内証咄(ばなし)すらもしゃべってしまう気持になって来るものだ』というふうに書いてある」、と折口は述べている。このように見てくると、自己表出と指示表出の構造としてある言語において、文学心は、先ず以ては、対自的な自己意識による自己表出(としての言語)、すなわち自己表現欲求(としての言語)であり、自己解放(としての言語)であり、自己慰安(としての言語)である、と言うことができる。

3)そうすると、ハーン(西欧)における日本や、折口(日本)における西欧を考えても、「いずれもヨーロッパの現在と隔絶する以外にない」ということが問題として生じてくる。すなわち、「西欧に対して日本を理解してくれと言っても」、欧米人は日本のために「国籍」も・「生活、感性」も・習俗も含めて西欧を捨てるわけがないから、総体として西欧を捨てる「欧米人なんかい……ない」のである。逆に、学としての「西欧の人間諸科学」、哲学や経済学や政治学や社会学や歴史学や科学史や文化人類学や言語学等に従事する時、西欧を総体として理解するために、そしてその場合には「全部日本でなくなる、しかしヨーロッパでもなくなる」ということを認識し自覚して、日本の「国籍」も・「生活、感性」も・習俗も捨てるわけはないから、そこまでする日本人はいない、と言うことができる。しかし、ここに、非学問の場所からする、思想的な観点からする、西欧と日本とを架橋する課題がある。この観点の重要性は、例えば、天皇制の無化・相対化の課題を扱う場合、人類史段階の固有性としてのアジア的段階論で扱うことで、尖端と土俗の対立論、先進性と後進性の対立論、西欧と東洋あるいは第三世界の対立論で終わらせてしまわない、点にある。したがって、この観点を持たない学問の領域(場所)においては、「いずれにせよ解決可能」かどうかという「意味合いでは」、日本と西欧とを架橋する「問題は喚起できない」、すなわち両者を架橋する観点や自覚を喚起できないのである。
 したがって、人類史的問題から言えば、「現在でいえば、……アジア的ということを言う場合、……自分が現在いる社会的な場所を段階論的に自分で規定して、その規定に対して、前規定となるものと未来規定になるものの二つを問題」にする必要がある、ということになる(『吉本隆明が語る戦後55年 7』)。そして、結論としては、マルクスの次のような考え方――すなわち「ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的(≪人類史のアジア的段階≫)である形態(≪マルクスは、歴史を退歩すること、すなわち循環と停滞にあるアジア的段階にまで歴史を遡及することが、歴史認識・概念を、「より有利にすることがありうることに気付」いたところの、人類史のアジア的段階における肯定性(「利点や優越性」)としてある、相互扶助的なその考え方の様式・感じ方の様式・行動の様式等≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」(『資本主義的生産に先行する諸形態』)という考え方を読み替えて、①外在的な文明史的観点からする現在を止揚の課題を扱うのと同時的に、②内在的な精神史的観点から、さらにもっとそれ以前の人類史の母胎・母型・原型としての未開原始の段階(アフリカ的段階)にまで歴史を遡及して考察することで、現在においても成立できる新たな歴史認識・概念を目指すことが必要となる、と言うことができる。なぜならば、ヘーゲルやマルクスやモルガンやエンゲルスの西欧近代を頂点とする進歩史観においては、「歴史と言う概念は、外在(文明)史という概念と同義になってしまうからである。すなわち、その場合、歴史概念は、西欧近代を頂点とする文明史・「外在史だけに収斂してゆく」とみなされてしまうからである。したがって、吉本は、例えばアフリカの現在的課題について、「固有アフリカのエリートたち……アフリカに植民地をもっていた西欧先進国の外在(文明)史的指導者」や「内在(精神)史的なイデオロギスト」ばかりでなく、「いまでも採取食糧でしのいでいるいちばん未明の住民たちも」、一方通行的「一様に近代主義(≪西欧近代を頂点とする近代主義的進歩史観≫)を基準として」、外在的な「文明の進歩性と遅延性との課題に単純化して」、「その政策や利害の追及」をしているだけであって、したがってトータルな歴史認識の方法と歴史の究極的総体的永続的な課題を自覚して「その政策や利害の追及」を行っていないから、それでは全くの片手落ちである、と述べたのである(『吉本隆明が語る戦後55年 7』)。

4)デカルト以前の人間の認識の在り方(「古代のギリシャ思想」や「古代の東洋思想」)は、「人間の起源から宇宙の起源まで、……全部考えられている」綜合思想にある。それに対して、近代諸科学の根底にあるものは、デカルトから始まった「自我以外のものを自我の場所から」、「頭脳と認識の論理」の結合によって、社会や歴史や政治や科学や言語等について思惟する方法・思惟の普遍性にある。この思惟の普遍性・無限性から、「人間の思惟も科学的な認識も進歩する」という概念が生じた。近代の人文科学や社会科学は、人間の概念を、「肉体もあり感覚もあり感情もありという具体的な人間」に置かず、「頭脳と認識の論理のふたつの結合」に置いた。「脳髄が脳髄について考える」個体の内部過程における認識が成立するためには、「生理(自然)過程」の「信号、反応、刺激、伝播」という「自体的な識知」=「生理過程の<変容>」と、脳髄が脳髄を生理過程の外部から認識する「対象的識知」の過程が必要である。「生理過程から、対象の形や色や全体像が構成され、<この対象は茶碗だ>とか<この対象は森だ>とか了解される」個体の知覚作用における認識が成立するためにも、まず「対象物から眼に到達する光作用」に対して、生理過程として網膜の背後にある「色彩」「明暗」「形態」を弁別できる諸神経の「刺激の継続と強弱」・「刺激の質量」の度合という「自体的な識知」・「生理過程の<変容>」と同時に、そうした「対象物からうけとる神経刺激」という生理過程の外部に出て、「対象物を全体的に構成」し「了解」する対象的認識の過程が必要である。これら後者の対象的認識の過程は、生理(自然)過程にとっては絶対的な自己矛盾であるから、人間に固有な「心的領域」あるいは観念という概念を疎外する以外に、そのような自己矛盾を包括し止揚することはできない。ここで、疎外とは疎外の止揚である。したがって、「生理学が<観念>という概念と命名を拒否」しても、「<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」)。「近代における人間という概念の中心」にあったのは、この人間の観念・自由な自己意識の無限性を介した、「頭脳と認識の論理」の結合、世界の分節化・細分化である。しかし、近代の人間諸科学の発達の必然とその成果によって、逆に、その諸科学が、その「諸科学の対象」が、現在、「『A』なら『A』で共通に括れてしまう」、人間概念・「人間を作りはじめた」。言い換えれば、「肉体もあり感覚もあり感情もありという具体的な人間」という概念だけでなく、さらに近代諸科学の根底にあった「頭脳と論理」が結合した人間という概念も成立できないような状況を惹き起こしている、ということである。ここに、「科学の先進地域」である欧米における危機感がある。したがって、吉本は、「現在のヨーロッパの思想家でや哲学者でも、この危機の感じを自覚していないのは面白くない」し・「問題にならない」、と述べたのである。
 それに対して、日本の学問領域・学者、非学問領域が「感じている危機感」は、①「それの照り返し」か「ある程度共通な感覚的」受容かにある、あるいは②肉体を座とした「情緒もあり、浴衣がけに寛」ぐ24時間の生活日常と、近代諸科学の追求という25時間目の観念的日常との構造を生きることができなくなった点にある。

5)現在、世界には、「日本のようにヨーロッパになりつつある地域」だけでなく、「アフリカ」等の「アジアになりつつある地域」もある。したがって、その原理・論理・体系において、①アジアになりつつある地域の問題に対しては、日本や中国のような「アジア的な典型」を基準とすると、「人文的な諸科学の問題」・「思想の問題、哲学の問題は非常に」理解しやすくなる。また、②日本のようにヨーロッパになりつつある地域の問題に対しては、「ヨーロッパの現在」を基準とすると、「人文的な諸科学の問題」・「思想の問題、哲学の問題は非常に」理解しやすくなる。しかし、両者の問題は「同時代的に錯綜」しているけれども、「混同することは出来ない」。欧米における西欧の危機の認識と自覚の問題は、西欧近代の限界性の問題であり・マルクの読み替えの課題である。したがって、フーコーは、西欧思想の危機の認識・自覚に基づいてマルクスの読み替えを行ったのである。吉本の場合も、そうであった。吉本は、アジア的な日本的特殊性の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」、と述べている(吉本隆明『世界認識の方法』中央公論社)。例えば、吉本は、「ホメイニを奉る」イラン革命を理解するためには、「アジア的な典型」である日本や中国を基準にすると、根本的な誤謬を犯さず理解できる、と述べている。すなわち、その原理的方法によれば、そのイラン革命の構造は、毛沢東を奉った中国革命や日本の明治維新以降でいえば「超国家主義者たたちが考えた、天皇を奉った祭政一致的な民族革命」の位相のそれであって、左翼革命ではない、、ということになる。この原理・論理・体系においては、ホメイニのイラン革命の構造や第三世界における革命の構造を「無条件に肯定する」する場合、日本における「明治維新とか、……右翼革命的なもの」の構造等も無条件的に肯定してしまわなければならなくなるのであるが、そうした根本的な誤謬を犯さずにすむことができる。
 欧米の危機・危機感を現前化させるのに、「第三世界を鑑にもってきても、アンチ・テーゼにはならないという」認識と自覚が大切であり重要である。したがって、その原理・論理・体系において、現在「ヨーロッパになりつつある地域」である日本の場合、欧米的要素が多大で強度であるから「ヨーロッパを典型」・基準とすると、「人文的な諸科学の問題」・「思想の問題、哲学の問題は非常に」・「一番」理解しやすくなる。ここに、小林秀雄を対象とした、「論理とか原理の問題が提起される場所」がある。すなわち、この原理的方法からすれば、小林秀雄は、「普遍的に否定される」対象ではないことになる。したがってまた、その原理・論理・体系において、「アジアになりつつある地域」である「アフリカ」等の場合は、日本や中国のような「アジア的な典型」を基準とすると、「人文的な諸科学の問題」・「思想の問題、哲学の問題は非常に」・「一番」理解しやすくなるのである。

6)インタビュアーが「日本の文芸批評家なり学者なり、抽象や論理を軽蔑するような風潮があるとしますと、それはどういう方向を示している」のかと尋ねたことに対して、吉本は、次のように答えている――①それは、学問であれ非学問であれ、日本の文芸批評家なり学者の「考え方が退行を演じて、まさにヨーロッパに移行しつつあるのに、アジアに帰ろう」・退行しようといていること、を意味している。また、②それは、彼らが、「ヨーロッパの現在に移行している」過程に現存しているにもかかわらず、その原理・論理・体系において、「ヨーロッパの現在」を典型・基準としないために、ヨーロッパとの間に乖離と断絶を惹き起こしていること、を意味している。すなわち、ヨーロッパの方はすでに西欧の危機・危機感の只中で西欧近代の限界性の課題・マルクスの読み替えの課題を認識し自覚して・その認識と自覚に基づいた思想的な歩みをしているのに、日本の知識人、学者や著述家や文芸批評家は、その認識と自覚を持ち得ていないこと、を意味している。

7)学問であれ非学問であれ、日本の知識人・日本の学者や文芸批評家における近代の超克の課題について
 学問であれ非学問であれ、「ヨーロッパに移行しつつある」・「ヨーロッパになりつつある地域」である日本の知識人・日本の学者や文芸批評家には、「現在の課題は二重にある」。第一に、「近代諸科学の成果と展開をその内部でどう超えるか」、その原理・論理・体系において、人間の終焉・人間中心主義の終焉・「人間がどう終焉したのか、終焉した人間がどこへいくのか」等という「ヨーロッパの現在」を典型・基準としてどう超えるか、にある。第二に、「アジアになりつつある地域」の課題を、その原理・論理・体系において、持っていなければならない。なぜならば、日本においても「近代の超克は戦争中も提起された」が、「超えるというより、退行というかたちで収束され」てしまったからである。したがって、西欧の危機の一元化は駄目であるのと同じように、また、西欧近代の超克をアジア的原理で行うという両者の混同・折衷(近代の超克と退行的超克との混同・折衷)も駄目なのである。「諸科学の普遍性だけでなく」、「普遍性というものの存在論」が問われなければならない。なぜならば、科学の<普遍性>の強調による科学<主義>・科学<至上>主義が近代の宗教的形態となってしまったからである。したがって、その部分性・対象性・限定性の自覚が必要なのである。したがってまた、西洋近代やアジア的段階の概念についても、人類史的段階の一段階における普遍性というその部分性・対象の固有性・・限定性に対する自覚が必要なのである。この自覚がないと、例えばエコロジーの原理・論理・体系は、究極的には天然自然<主義>・天然自然<至上>主義という宗教的形態をとることになってしまう。また、フーコーと対話をした臨済禅の僧のように、外部の観点(人類史的段階における西洋近代からの観点)を持たないまま、そのアジア的日本的な禅思想の直接的な言葉で、「からだと心とが一つになるという体験、自分とそとの世界とが一つになるという体験、それは世界的に普遍なものですね。禅が国際性を持ち世界性を持つということは、その点からも十分わかるわけですね」、と述べてしまうことになるのである(M・フーコー『思考集成 Ⅶ』「フーコーと禅」)。言い換えれば、その僧は、ヘーゲルのような外部の観点・「精神と自然との直接的な統一の段階」というものは、世界史・人類史のアジア的段階においてのみ、世界<普遍性>を持ち得たという外部からの把握ができ得ていないのである。

8)詩人・文芸批評家・思想家として、キリスト教の「信仰や教義」を対象としているわけではない吉本は、聖書やキリスト教の考え方・思想の一番の意義について、現実の社会や世界では虐げられ・「抑圧」され、また弱い者であり・貧しい者であっても、その人間の観念の世界においては、「無限に広がった可能性があることを示唆した点」にある、また、この現実の世界と観念の世界は逆立する関係にあることを示唆した点にある、と述べている。この観念の世界の無限の可能性は、近代以降の人間の自由な内面(自己意識)の無限性と関わっている。この西欧における内面性・近代的な自己の確立の課題を課せられて、日本の知識人、学者・文芸批評家は、「日本の近代以降の学問とか、文学、芸術……を形成させてきた」。ここでの内面性の受け取り方は、そうした内面性の世界の存在と同時に、その内面性は「現実と逆立した形で考えることができる」ものである、という点にあった。
 このことが、現在、例えば、西欧と日本のマルクス主義の問題に対する「誤差として出て」いる。西欧は、「マルク主義を西欧近代思想のおおきな成果のひとつと考え」、マルクス主義を生み出した近代思想自体・その変種の「根底的な」限界・否定性・危機・危機感を認識し自覚している――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」。「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」。そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」。「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです」。その西欧は、近代以降において、世界普遍性を獲得した地域・「普遍性誕生の場」である。この意味で「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」(『思考集成 Ⅶ』「フーコーと禅」)。吉本は、次のように述べている――こうした西洋の危機感を自覚したフーコーやメルロ=ポンティーやサルトルの「感情」や「倫理」を「育んだのものは、たぶんキリスト教だった」、と。すなわち、「理念および諸科学としては巨大なものを築いてきた、……思想の担い手」である彼らも、現実の社会や世界には多くの「貧しい人」がおり・「弱い人」がおり・「虐げられている人」がおり・「抑圧された人」がおり・「憤懣を懐いた人」がいることを現前化させられたとき、答えを出せない分、キリスト教に育まれた「感情」・「感性」・「倫理」に心を動かされざるを得なかった。個々の「肉体」や「感性」・「感情」や「生活習慣」・様々な習俗をもっている西欧の哲学者や思想家は、ここで躓いた。
 しかし、アジアや日本の場合は、もう一つの問題があるのであって、それは、「マルクスの思想が(≪人類史的段階におけるアジアという≫)固有性と衝突」した場合、その思想は、どのようにその「固有性に吸収され、同化されるのか」という問題のことである。すなわち、それは、半西洋・半アジアのロシアの場合の革命も、中国の場合の革命も、第三世界の場合の革命も、近代の超克への一元化か、近代の超克とアジアへの退行的超克との混同・折衷に過ぎなくなってしまう、という問題のことである。アジアや日本の場合、政治的権力や反政治的権力に対するその「常民概念」の感性は、「<帝力我に於いて何か有らんや>」=「“支配者がどうかわろうとそんなことはおれに関係ない。おれはきょう耕してそれで収穫し、あすまた耕して収穫し、それで自分が食べていければ政治がどうなろうと、そんなことおれの関知するところではない”」、というところにある。この柳田國男の常民概念は、「大衆の原像」の意味と一致する。しかし、差異は次のところにある。大衆の原像は、①時代的な変容を受ける、②不可視な「権力の網の目のなかに」入ってしまう保守性、すなわち、不可避的な納税行為や住民票・戸籍登録等において無自覚的に権力の網の目(共同の幻想)にはめ込まれていく。それは、戦中の出征時における「元気で御奉公してまいります」という紋切型の挨拶のように権力を無自覚に受け入れていく保守性と同じである。他方で、自分の生活圏のなかに「政治力」が「直に肌にさわ」ってくれば、反権力に走る革命性をもっている。当然にも、不可視な「権力の網の目のなかに」無自覚にはまり込んでいるあるがままの大衆は、「物神化すべき意味はない」ことは自明なことである。革命思想にとって、大衆物神も、大衆至上主義も、大衆迎合も、大衆啓蒙も、意味はない。すなわち、党派的思想や党派的共同性の止揚の課題、自立的な知識・思想の課題は、その還相過程において、意識的に・自覚的に、現実的な社会構成の時代的水準によって変容を受ける大衆像やその大衆的課題を自らの知識・思想に繰り込んでいくところにある(『マルクス――読みかえの方法』)。また、制度的伝統とは、次のようなものである――「未明の時代や場所の住民」(大衆)にとっては、統一国家の最下層を構成する狭小の閉ざされた村落共同体が世界の全てであり、その「共同の禁制でむすばれた共同体以外の土地や異族は、いわばなにかわからぬ未知の恐怖がつきまとう異空間であった」。「王」、「族長」、「異族」、「敵」、「死者」、「婚姻」、「思想」、「人格」、「異郷」、「異空間」、「村落共同体からの<出離>」に対する「禁制がある」狭小の閉じられた村落共同体に生きる大衆は、「つよい願望」と「恐れ」という両価性を本質とする「未開の心性」を介して、遠く隔てられた支配上層とその共同性は、「恐怖の共同性」として「恐れの対象」である、と同時に、またそれは、「つよい願望」の対象としても存在していた。このような「未開の心性」が大衆の意識を覆っているとき、大衆は「<制度>的な禁制」(共同幻想)に支配されているということができる 。例えば、初期天皇制国家において、最下層にある狭小の閉ざされた村落共同体に生き・生活する大衆にとっては、高度な文明や文化、すなわち高度な農耕の知識や技術、あるいは法、制度等の観念的世界の全てを占有していた、そして遠く隔てられた「異空間」であり・「異族」である支配上層とその共同性は、その大衆の未開の心性において、「恐怖の共同性」として、「恐れの対象」であると同時に「願望の対象」でもあったのである。したがって、「禁制が支配している共同性は、どんなに現代めかしていて真理にたいしてラディカルにみえても、じつは未開をともなった世界」(共同性)なのである。すなわち、現在でも知識人、学者や著述家や大衆がもっとも恐れるのは、「共同的(制度的・慣習的)な禁制からの自立」であり 、それゆえ世間体や学問的世界の枠組みや左翼性等からの自立的な離陸である(吉本隆明『吉本隆明全著作集11』「共同幻想論・禁制論」)。