23.「ただイエス・キリストの名だけ」(その4-3)

 エルンスト・ヴォルフの「六〇歳記念論文集への寄稿」文で、「ブルトマン主義者たちが、神の救済行為の『私ノタメニ』の要素を強調しているのを見て」、バルトは、「『ワレワレノ外ニ』という基本的な前提が破棄されずに」、換言すれば神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものである、その死と復活の出来事における「イエス・キリストのみ業」という前提が破棄されずに、個人救済としての「『私』(私ノタメと私ノ中ノ)の代わりに、『われわれ』(ワレワレノタメニとワレワレノ中ニ)について語られ」「保持されている」のであれば、その点を「手掛かりとして徹底的に話し合える」と考えた。何故ならば、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質、働き、業)、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト――この復活に包括された「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方である」からである。言い換えれば、われわれ人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはないし、また自分でそのような状態にすることもできない」のであるから、「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵み」であり、「私たちの召命・義認・聖化」は、われわれ人間の側からする直接的な契機によって、すなわち人間の側からする神との「共働」・「協働」、「神人協力」によって「私たち自身の中に生起するのではなく」、徹頭徹尾全面的に神の側の真実としてある「イエス・キリストの御業として、私たちのために、私たち自身の中に生起する」からである(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)。宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『宮沢賢治全集第12巻』「農業芸術概論綱要」、筑摩書房)とか、全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという課題(『銀河鉄道の夜』「よだかの星」、角川書店)は、換言すればわれわれ個体的自己としての全人間の包括的総体的永遠的な救済という究極的課題は、神学における思想の問題(個人あるいは一部の人間の救済と個体的自己としての全人間の救済の架橋の問題)である(マタイ26・6-13、マルコ14・3-9)。したがって、非神話化と実存主義を折衷しただけの佐藤優の思惟と語りは、すなわち「神学研究の本質と教会の責務は、個々人の救済、具体的な人間の救済です」、「高等教育を受け、『天にいる神』をもはや素朴に信じることができなくなった(≪近代主義者の≫)われわれには神学が必要です。(中略)神学的な操作(≪非神話化、すなわち近代的な世界像化、人間像化≫)を経ない限り、われわれは古代の世界像(≪神話的世界像と神話的人間像≫)を持っているキリスト教を信じることはできない」という思惟と語りは、バルトが「単独者」と「個人救済主義」を説くキルケゴールや前期ハイデッガーの哲学原理に依拠して新約聖書の非神話化を説いたブルトマンを根本的包括的に原理的に批判したように、根本的包括的に原理的に批判されるべきものなのである。何故ならば、国家論(国家を止揚する問題、革命論)は、現存する国家の枠組みを固定的に前提して思惟し語る点にあるのではなく、過渡的緊急的相対的課題としての人間の観念的な法的政治的解放の部分性と究極的総体的永続的課題としての人間の現実的な社会的解放の全体性との架橋にあるからである。言い換えれば、『はじめての宗教論』を書いた佐藤優は、過渡的課題と究極的課題の全体性・総体性における往還思想を持たないのである。したがって、佐藤は、折衷主義的な思惟と語りをしてしまうのである。したがってまた、佐藤のこの本は、必然的に自然時空に死語化していく運命にあるのである。

 1960年に「R・カルヴェール宛」手紙において、学生に対して「私は最近、どこかで、今やバルト後の時代が始まったというのを読みました」とバルトが書いたことが述べられている。おそらくそう語った人物は、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返している、それを固定的に前提している「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者あるいは牧師あるいはキリスト教的著述家あるいは神学性であるということは想像に難くないのである、ちょうど日本で言えば大木英夫のように(「バルト神学研究」とあるが、バルトとは全く似て非なる、徹頭徹尾自然神学の段階で停滞しているだけの神学書であるE・ユンゲル『神の存在 バルト神学研究』の大木「訳者あとがき」を読まれたし)。「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>から解放された神学――すなわち近代主義的神学、自由主義神学、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教神学、その神学的営為が、換言すれば政教分離が実現され信教の自由の保障された自由主義国家(近代主義的国家、政治的近代国家)の学校教育法に規定された近代主義的、自由主義的、人間中心主義的な学問・研究の場である大学におけるすべての神学、その神学的営為が、すなわち身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、宇宙を含めた外界としての自然)との相互規定的な対象的活動を行う人間の類的な活動や生活およびその時間性を対象とする人間中心主義的な学問・研究の場である大学におけるすべての神学、その神学的営為が、自然科学や人文科学の領域にのみ込まれてしまう「混合神学」、混合学となってしまうことは、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教となってしまうことは、必然的なことなのである。したがって、バルトのように、「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>を堅持し、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」・すなわち神学も理性的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)という認識と自覚を持っていないならば、そのすべての神学、その神学的営為はすべて、自然科学や人文科学の領域にのみ込まれてしまう「混合神学」、混合学となってしまうことは、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教となってしまうことは、必然的なことなのである。したがってまた、まさに自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞しているルドルフ・ボーレンの恣意的独断的な「聖霊論的出発」という概念に依拠して、「人間学」に対する「神学の優位性」を主張している大学知識人としての神学者である佐藤司郎や小泉健は、すでに自然時空に死語化してしまった「哲学は神学の婢」という中世的思考に退行して、そのことを主張しているだけなのである。「人間学」に対する「神学の優位性」――このようなことは、現存する学問・研究の場である大学においてはあり得ないことなのである。すなわち、バルトのような認識と自覚を持っていないならば、現存する学問・研究の場である大学においては、神学は、必然的に、人間学、自然科学や人文科学の領域にのみ込まれてしまう「混合神学」、混合学となってしまうのである。


 1962年の『福音主義神学入門』について、バルトは、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返し最後的には人間学が第一次的になり人間学にのみ込まれてしまうところの人間学と神学との混合学、「『哲学混合神学に対する断固たる拒絶を、論述した』ものと考えた」。したがって、バルトは、「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題(≪啓示の真理の問題≫)はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」と述べたのである(『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」加藤常昭訳、新教出版)。したがってまた、バルトは、『教会教義学』「神の言葉」「神論」においては、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的なキリスト教に固有な信仰・神学・教会の宣教は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(この隣人愛は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請である)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すことを論じているのである。


 過渡的課題(往相的課題)と究極的課題(還相的課題)との全体性・総体性における往還思想を持たない、「シュヴァイツァーのような、神学的にはきわめて問題のある神学者」も、「神学の対象の側から見るならば」、その実践が「祝福され、きよめられたもの」となるのかどうかということは神ご自身の決定事項であるし、またその実践は往相的な課題から見るならば意味があるだろうと述べた(マタイ26・6-13、マルコ14・3-9)。


 バルトは、自分自身の生涯を閉じる「しばらく前に、……ある手紙に次のように書いた」――「私が、楽な死を迎えるか、それとも苦しんで死ぬかはどうしてわかるでしょうか? 私が知っているのは、ただ私の死もまた私の生に(≪個・現存性と類・歴史性との結節点で生き・生活し・喜怒哀楽し・意志し・思惟し語ったその「全生涯」に≫)属している……のだろうということです。……その時私は――これこそがわれわれすべての運命であり、限界であり、目標であるのですが――もはや存在しないでしょう」。何故ならば、人は自分の死を体験することができないからである。こう述べたバルトは、「だが私はそこでは」、「キリストの裁きの前で」、ドストエフスキーの『罪と罰』におけるマルメラードフの告白にあるように、「私の全生涯において、その全生涯によって」、全体的に「努力放棄者として」、「まさにただ……(≪「イエス・キリストの名」――≫)彼の約束によって、義トサレタ罪人として立ちうるでしょう」と書いた。


 1962年3月1日、76歳のバルトは「最終講義を行い、……引退生活にはいった」。バルトにとって、「老齢」は、「なんの活動も伴わない回顧があるだけ、僅かに休日の夕暮れの安定があるだけ」ということではなかった。バルトにとっては、老齢者は、「キリスト教の見地から言えば、……いかに強くとも、いかでか頼まん。やがて朽つべき、人のちからを。われと共に、戦いたもうイエス君こそ……(「讃美歌267番、ルターの「神はわがやぐら」)と歌って……生きることを許されている」「素晴らしいチャンスを与えられている」者のことであった。


 バルトは、引退直後に「七週間アメリカ大陸に出かけた」。シカゴでは、「イエズス会士、ユダヤ教のラビ、自由主義プロテスタントの神学者、正統的プロテスタントの神学者、それに一人の信徒が参加した」パネルディスカッションに出席した。「そこでは、まったく率直な討論がなされ、当然、現われてきた意見の対立は、もみ消されたり・隠されたりはせず、情熱的に、しかし厳正に論じつくされた」。この討論に参加したバルトは、もし自分がアメリカの神学者ならば、「ヨーロッパに対してのあらゆる劣等感」、それ故に「アジアやアフリカに対する……優越感からも」「解放された」「自由な神学」、それ故にまた「人間性へと」・個体的自己としての全人間・全世界・全人類へと開放された「自由の神学」を、「つくり上げようとするだろう」、しかしその「自由な神学」は、「ニューヨークの『自由の女神』が表している自由を非神話化し、むしろ『御子』が与え給う自由に基礎を置く神学である」、と述べた。ブッシュは、ここでも客観的な正当性と妥当性のある資料に基づかずに、直接的無媒介的に「人間性へと……開放された」という言葉を使って、バルトが、いかにも自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指しているという読み方ができてしまうような記述の仕方をしており、処女作『ローマ書』「第2版序言」以降徹頭徹尾<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行しているバルトを、人々に誤解・誤謬・曲解させてしまって、バルトに迷惑をかけることをしているのである。このように、ここでもそうであるが、ブッシュの記述には、客観的な正当性と妥当性のない質の悪い資料を使った、またバルト自身の神学の全体像・総体像に即して為されていない、恣意的独断的な言葉を加味した曖昧な記述が所々に散見されるのである。


 プリンストンでは、キング牧師の説教も聞いたが、時間がなく「話し合うことはできず、……いっしょに写真を一枚とっただけ」で終わった。また、バルトは、アメリカの刑務所制度に対する関心からアメリカの刑務所を、「マンハッタン北部の、悪名高きイースト・ハーレム」を、また「1863年7月2日に行われたゲッティスバーグの決戦のいくつもの古戦場」を視察した。


 アメリカ旅行から帰ったバルトは、ようやく退職生活に入った。さまざまな「宗教書や世俗の読みもの」を読んだが、「実存主義者たちのいつ終わるとも知れないおしゃべりに耳を傾けては、しばしば大きなあくび」をした。バルトは、「神学上の実存主義者たちの活動に対しては、……すでに以前から、いよいよただ吐き気と嫌悪を感じるだけ」だった。このような「神学的状況全体」のただ中で、「人々は私に……敬意をはらって耳を傾けてくれるが、結果として……本当に聞き入れてはくれないのだから」、すなわち敬意を払えどもその神学の全体像・総体像においてよく理解してくれないのであるから、バルトは、『教会教義学』の「続刊を書き続けることに没頭すべきかどうか」迷った。


 「全体主義世界と全体主義国家の中にある可能性」について、バルトは、「もともと国家は全体主義的国家のような性格をそれ自体として持っている」と述べてから、すなわち自由主義国家(近代主義国家)であれ現実的な社会をではなく観念の共同性を本質とする国家を第一義性・価値性とする国家主義的性格を持っていると述べてから、制度としての教会や制度としての牧師や制度としての神学者を中心としてそのまわりに集まる教会には教会の可能性はないと述べた。バルトは、「イエスのまわりに」集まる教会に、すなわち先に述べたイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すところに教会の「一つの可能性」があると述べた。


 76歳となったバルトは、「否と言ったり」、「切り捨てたり、拒絶したり」する気持ちは減少し、「何か積極的なことを言う」気持の方が増大した。このことについて、バルトは、「知恵」が増大したというよりも、この多少まるくなる「知恵」の根拠は、「多少の老衰と独特な仕方で混じり合っ」たものにあるというように冷静に判断した。しかし、バルトは、一方で、「人は老齢になり、回顧することによって、賢明で優しくなりますが、灰の下でもなおくすぶっている火はやはり簡単に消してしまえないことも、私は経験しました」と述べている。


 ヨセフスタールで開催された神学協議会で、バルトは、「ゲルト・フォン・ラートとの対話に喜んで加わり、……現在の旧約聖書神学が全体として、ほとんどまったく実存主義」に汚染されていないことに対して、換言すれば自然神学に汚染されていないことに対して、「驚きを表明した」。


 ラインラント州の青少年担当牧師たちとの対話において、シュライエルマッハーと同様に「ヘーゲルの強力な痕跡」を持っている「ブルトマン問題のために、激しい口論となった」時、バルトに「一人の若い人が……先生、あなたは歴史を築いてこられましたが、今やあなた自身もまた歴史になってしまわれました(≪あなた自身も自然時空に死語化してしまいました≫)。しかしわれわれ若い者は、新しい岸辺を目指して出発しようとしているのです!」と述べたのに対して、バルトは「それは結構だ。それを聞いて私も嬉しいです。では、君の言う新しい岸辺について少し語ってくれませんか!」と返答したのであるが、その「若い人」は「残念なことにその岸辺について何も語れませんでした」と述べている。その「若い人」が、「今やあなた自身もまた歴史になってしまわれました」と思惟し語るためには、バルトの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷とするという自らの立場において、根本的包括的に原理的に止揚し克服しなければならない、その問題を明確に提起しなければならない。しかし、その「若い人」がそういう仕方で思惟し語ることができなかったということは、その「若い人」は、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したバルトにおける信仰・神学・教会の宣教が、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの信仰・神学・教会の宣教における原理・規準・法廷として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服していった神学における思想的営為の成果であるということについて、その並々ならぬ努力ということについて、その困難を伴う厳しさということについて、全く無知であったということである。まさにその「若い人」は、ヒヨコに過ぎなかったのである。このような訳で、その「若い人」に限らず、さらにいい大人になってもヒヨコのままでいる知識人と自称する人はごまんといるのである。


 このような「多くの対話とインタヴューの中」で、バルトは、「プロテスタント神学の現状について」、「神学上の虚栄の市」だと感じ、「貧弱な『偏平足の神学』だと思」い、「不信の念を表明した」。「屋上のテラスでは……ティリッヒとブルトマン主義者たち」が、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に属する「問題のあるボンヘッファーの影といっしょになって荒れ狂っています。そしてあわれなロビンソン司教は、二十万部売れた『神への誠実』の中で、これらすべてのものから空しい泡沫をすくいあげ、それを究極の知恵として――とにかくブルトマンには大変ほめられて――売り出しました」(そのブルトマンとは、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠したにも拘らず、そのハイデッガー自身からブルトマンにおける「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うこと」だ、それ故にそれよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」と根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判をされたブルトマンである)。


 さて、「特にプロテスタント神学内での討論において」、バルトに「聖書のテキストの理解に対する、したがって、『解釈学の』問題に対する問いが」発せられた。その問いに対して、バルトは、その問題を主要な問題として、「それだけを切り離して取り扱」うならば、「袋小路に迷い込むことになる」と述べた。何故ならば、ブルトマンにおいては、「同時代の人たちの思考の前提に対して」、「そこから形成された理解の規準に対して」「誠実と真実をささげる」ことになるからである。このような仕方で「誠実と真実をささげ」ようとした自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞したブルトマンは、「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所において、われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗しても、われわれのために生きて、われわれを支配し、われわれを愛し給うイエス・キリストを、認識し、持つことができることを示す」ということに「誠実と真実をささげる」ことを目指したバルトとは違って、「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハイデッガーの哲学原理に見出し、その前期ハイデッガーの哲学原理に基づく「絶対的基準としての先行的理解と解釈学的原理」を第一次化したのである。しかし、このブルトマンは、自分が賞賛し依拠したハイデッガー自身から、ブルトマンにおける「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うこと」だと客観的な正当性と妥当性をもった根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判を受けたのである。ハイデッガーだけでなく神学における思想家のバルトも、ブルトマン等々に対して、「『解釈学に関する緻密に入り組んだ無駄話』を嘲笑し、『神学市場に売りに出されている言葉の出来事という表現を聞くにつけ、私はそれの議論に注意してフォローしてきたのです(ついでにその出来事の最も騒々しい参加者を、私は……世界の国々の人々を集合させた庭園の飾り人形だと言ったものです)』」と述べている。また、バルトは、「われわれが聖書の証言に出会うことが問題なのでなく、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストの啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて≫)われわれが聖書の証言(≪第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言≫)の中で証しされている方(≪起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト≫)に出会うことが問題なのです」、それ故にわれわれの「祈り」の中での「働き」は、聖書的啓示証言がイエス・キリストを「証しして『いるのかどうか、またどこまで彼を』証ししているのかという問いをもって『歴史的=批判的に読むことである』」が、その際いかなる場合にも、われわれが「主導権」をとってはならず、すなわち「神の言葉の自由が……制限されてはならず、神の言葉の方に主導権がゆだねられなければなりません」と述べた。言い換えれば、第三の形態の神の言葉に属する教会、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を、それ故に具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書(預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指していくという点に「誠実と真実」があるのである。バルトの「思考は追思考を命ずる」とは、このことである。また、第三の形態の神の言葉に属する教会の宣教における原理・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)、そのイエス・キリストを起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(「啓示の実在」そのもの)という「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、(≪第三の形態の神の言葉である教会の客観的な信仰告白および教義という≫)「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるというように言うこともできる(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、バルトは、「もちろん、われわれは誰でも、なんらかの存在論や世界観を頭の中に持っています。そういうこともまた禁じられているわけではありません。……ただし、われわれが聖書を読む時に、そういうものがわれわれが関わり合う最終の決定機関(≪原理・規準・法廷・審判者・支配者、第一次性≫)であると考えてはならないのです」と述べた。


 また、バルトは、「週刊チューリッヒ」誌の寄稿文に、「ベンゼの穏健な無神論も、東洋の粗野な無神論も危険ではなく、キリスト者の無神論的な実際の生き方こそが危険なのだ!」、と書いた。すなわち、バルトは、この時、ハイデッガーがブルトマンを根本的包括的に原理的に批判した言葉――「存在者レベルでの神への信仰」を目指すキリスト者(神学者、牧師、成員)の自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す無神論が「危険なのだ」と言っているのである。何故ならば、そこでは、「神への反逆」が、「ごうまんにも神を忘れた公然たる反抗として行われず、実に神(≪「存在者レベルでの神」≫)の名において、神(≪「存在者レベルでの神」≫)の呼びかけのもとに行われるからである」(トゥルナイゼン『ドストエフスキー』国谷純一郎訳)。


 パウル・ティリッヒの最後の訪問に際して、バルトは、「今こそ回心して正道に立ち戻るべきだと警告」したが(具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行すべきだ警告したが)、彼には「まったくそんな気持ちは」なかった。ティリッヒは、「ヨハネ福音書一・一四のその言葉をあまりにも文字通りに解釈することに反対するとの見解」をバルトに述べた。


 1964年、「前立腺の手術」を受けるだけでなく、「軽い脳卒中の発作」で「半日間……言語障害」に陥った。

 1965年、バルトは、「『すべての人の人生には……陰があるのを』見た。『その重苦しい陰はまだ消え去ろうとはしませんし、おそらく神の御心によれば、まさに神に愛された者である、われわれ自身が神を愛し讃美することができるその場所に、われわれをしっかり結びつけておくために、消え去るべきではないのです』」と手紙に書いた。誰にでも、もし出来得ることならば、完全に消し去ってしまいたい記憶や思い出があるだろう。


 1965年12月、バルトはもう一度バーゼル刑務所で説教しようと考えていたが、できなかった。したがって、「1964年3月29日の復活祭の説教が最後の説教となった(「弟子たちは主を見た」ヨハネ20・19以下)」(『カール・バルトの生涯』ではこのように記述されているが、『カール・バルト著作集17』「主をみた時 ヨハネ福音書二〇・一九-二〇」蓮見和男訳、1970年では、1963年5月29日復活祭となっている)。この時、バルトは、イエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事について説教をして、次のように述べている――「復活の出来事」が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができただけである」。「今日でも、ロシアにおいて、キリスト者は、お互いに、『イエス・キリストは甦られた!』と挨拶し、それに対して相手は、『まことに彼は甦られた!』と答える」。このことは、「説明ではなく」、「告白」・「証し」・「宣べ伝え」である。バルトは、キリストの福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのためにある」、われわれは身体的存在と理性的存在という全体的・総体的人間を考えなければならない、救贖(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)は、全的人間のそれであるから、身体的復活である、と述べている(『カール・バルト著作集17』「主をみた時 ヨハネ福音書二〇・一九-二〇」蓮見和男訳、新教出版社、1970年および『バルトとの対話』)。

 バルトは、「礼拝出席が次第に困難になるにつれ」、「よい日曜日の朝にはいつも」、「カトリックの説教とプロテスタントの説教を」ラジオで聞くようになった。


 1966年、E・ブルンナー逝去。この少し前に、バルトは、ブルンナーの友人に、「(≪われわれのことは≫)神にゆだねましょう!」・「大いなるあわれみの神が、私たちすべてに恵み深い然りを言い給うことによって、私たちはいきているのだからです」と伝えてくれるように依頼した。


 バルトは、「大西洋の此岸と彼岸で、栄光に満ちた実存主義の最後の最も美しい成果として出現した、馬鹿げた神の死神学運動についての議論」や「精神的にも信仰的にも、ほんとうに召しも受けず、その能力もないのに、そこに飛び込まなければならないと考えた、……信仰告白運動に関与する形」ではないやり方で、「今一度神学の現状と取り組む」ことにした。

 信仰告白運動に対して、バルトは、「聖書の証言にあるように、われわれのために十字架につけられ復活したイエス・キリストに対する君たち」の信仰告白は「正しい」と述べたうえで、次のように問うた――その正しい信仰告白の中に、「核武装に反対し、アメリカのベトナム戦争に反対し、新しいユダヤ主義に反対し」等ということを含んでいるだろうか、と。もしそうでないのなら、「その告白は正しい」としても、「価値のある、実り豊かな告白である」とは言えないであろう、と。何故ならば、「かつて語った(≪「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関におけるキリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行く」であろうからである、すなわちキリストの福音の説教の繰り返しが必然的に実践の方へとつれ出すであろうからである。したがって、これとは逆の言い方が、次のような思惟と語りである――「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということがなされないままに」、「礼拝改革」、「キリスト教教育」、「教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」べきではない、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしないで、私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待するべきである」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。


 先にも同じ内容のことをバルトが述べていることを書いたのであるが、バルトは、「われわれの側からローマ・カトリック教会へ、あるいは逆に、向こう側からわれわれの教会への一つの改宗は、本来なんの意味をも持たない」と述べて、そうではなくて、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、「イエス・キリストへの、一つなる、聖なる、公同の、使徒的教会の主への」「良心的必然性をもった回心である場合にのみ、意味をもつ」と述べた。ここに、バルトにおける、教会あるいは教団共同性におけるエキュメニカル運動の立場がある。それだけでなく、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」・共同性から「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非キリスト教、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して、完全に開かれているのである(『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1』和解論の対象と問題)。


 バルトは、カトリック教会の革新に対して、「過大評価」はしなかった。「進歩派」に対しても「疑念」を抱いた。何故ならば、「あるカトリック教会が、あまりにプロテスタント的になり過ぎて」、「われわれが十六世紀以来犯してきた誤り」を繰り返すような動向を見せたからである――「教皇ピオ九世のことを考えてごらんなさい――若い革命家が簡単に年老いた反動主義者になったではありませんか!」。総括的に言えば、右・左、保守・革新共に、自然神学あるいは自然的な信仰・神学。教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているだけでは、未来に向かって全く何も生み出さないのである、未来に向かっての生産性はないのである、未来に向かっての生産的な何の成果も得られないのである。その最たる場所が、欧米の大学であり、欧米の大学だけでなく日本の大学等々であり、神学大学であり、神学部であり、文学部神学科であり、そこでは――すなわち「すべての大学社会の神学」においては、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すという仕方で、それ故に人間学等にのみ込まれるという仕方で、それ故に混合学、「混合神学」を目指すという仕方で、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの神学」が研究され教えられている(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。


 1966年秋、妻と医師が同行して、「六日間の『使徒タチノ墓ヘノ巡礼ノ旅』」に出た。


 1967年、「いつの日か、……人は私が正しかったと言ってくれる日も来るであろう」という思いのもとで、『教会教義学 和解論』のⅣ/4、「キリスト教的生の基礎づけ」洗礼論が出版された。これが、『教会教義学』の最後の1冊となった。したがって、「要求の強かった」『教会教義学 救済論(終末論)』は未完に終わった。しかし、バルトは、聖霊に関わる終末論については、「すでにそれ以前に出版された諸巻から間接的に、あるいは一部は直接的にも読みとることができる」と考えていた。
 
 バルトは、例えば「神学の全体をまさに終末論へと上昇させてしまう『一直線の考え方』」(人間中心主義的な自由を原理とする西欧近代に人類史の尖端性を見たヘーゲルの歴史哲学に依拠したと言えるヘーゲルと同様の直線的な神学的な三段階的進歩史観を論じた)のモルトマンに対して、「疑念を抱い」た。バルトは、次のように述べている――ヘーゲルが除外した人類史のアフリカ的段階、日本で言えば原日本、原日本人の縄文的段階、北米で言えば北米インディアンの段階等「先行する他のもろもろの時代のその問題意識にも……、真に耳を傾けることが出来るようになる」ために、われわれは、(≪人間中主義的な自由を原理とする≫)西欧近代を頂点とする歴史の直線的な進歩・発展というヘーゲルの思想を、「直ちに全面的に放棄しなければならない」(『カール・バルト著作集12』「ヘーゲル」)。
 
 バルトは、「その地上での生活が、そのためについやした労苦は、同じくらいか、さらにははるかに大きなものであったにもかかわらず、私とは違って暗闇や薄暗がりの中にとどまっている多くの人たち(≪『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』や『説教の本質と実際』に即して言えば「町や村や料理屋や宿屋の人間の現実生活」・「貧しい、低きにいる民」、大多数の被支配としての一般大衆、一般市民、一般国民≫)への思いが、しばしば私の心に浮かんできました。有名になることは……実際まったく結構なことです。しかし、誰が最後にほんとうにほめられることになるのでしょうか」、と「回状」に書いている。吉本も、次のように述べている――人類は、「文明の進展やエリート層への従属のために存在しているのではない」。したがって、大多数の被支配としての一般大衆、般市民、一般国民が、「歴史の主人公だとおもうためには、まだやること、創られるべき物語はたくさんあるのです。意識のなかの転倒、知識のなかの転倒、政治のなかの転倒をふくめて、すべてひっくり返さなければいけない反物語ばかりです」。知識は非知より優れていて「知識人が非知識人を導くというようなかんがえ方は、絶対に転倒されなければいけない」(吉本隆明『大状況論』)。したがって、知識、知識人、前衛の側からする大衆啓蒙、大衆迎合、外部注入論も止揚し克服されなければならない。

24.「ただイエス・キリストの名だけ」(その4-4)

 バルトは、手紙に、次のようにも書いている――私の信仰・神学・教会の宣教における資質と現実と時代から強いられた「私の著作は、単に私の研究からだけでなく、私自身との、さらに世界と人生の諸問題との、長く続いた、しばしば容易ならざる闘いとから生まれたことを考慮」し、「実践的に聞くという態度に参与しようと努力しつつ読んでくださることを期待します」、と。


 また、バルトは、「われわれは、天国においてはすべて必要なものを知るようになり、もはや一枚の文書も書いたり読んだりする必要はなくなるでしょう」と手紙に書いている。これは、『罪と罰』のマルメラードフの終末論的告白そのものと同じ内容である――「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」。「主よ、汝の王国の来たらんことを」。(Ⅰコリント13・8以下)


 1967年、バルトは、歩行も困難になる。
 ブッシュは、ここでも正当性と妥当性のある客観的な資料に基づいてではなく、ブッシュ自身の恣意的独断的判断において、恣意的独断的な言葉で、次のようなことを書いている――ブルトマンとエルンスト・フックスから出発し『教会教義学』の「神論」を「全く新しい視点から取り上げようとした試論によって」「周囲からも期待」されたエーバーハルト・ユンゲルに対して、バルトは、「当時しばしば彼の所に訪ねて来た人」との「意見の交換」において、彼を「高く評価した」、と(この場合、ブッシュは、その会話の前後関係、その会話の内容については、一言も述べずに、その言葉だけを記述しているのである)。これは、全くの眉唾ものである、と私は確信する。何故ならば、バルト自身は、まさに「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>がそれであるが、徹頭徹尾ヘーゲルから対象的になって距離をとるという仕方でヘーゲルと関わっているのであるが、それに対してユンゲルは、彼の著書『神の存在 バルト神学研究』を読めばすぐに分かるように、そうした作業を経ないままに、それ故にヘーゲルと直接的無媒介的に、すなわち自然神学の段階で停滞したままヘーゲルと関わっており、それ故にユンゲルは、モルトマンと同じように神学におけるヘーゲル主義者そのものであるからである、それだけでなくユンゲルは、さらに社会・政治哲学者のユンゲン・ハーバーマスが目指した「近代の未完のプロジェクトの完成」を、恣意的独断的な「神学的加工処理」という概念によって神学的に為そうとしているからである、換言すればユンゲルは、まさに自然神学としての「混合神学」を、混合学を目指しているからである。このように、まさに自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているそういう神学的なベクトルを持ったユンゲルを、一貫性をもって自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にあったシュライエルマッハーを、ブルトマンを、モルトマン等々を根本的包括的に原理的に批判した<非>自然神学<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したバルトが、「高く評価」する訳は決してないのである。もちろん、誤解をされないために述べれば、私は、バルトが滝沢克己の語学(ギリシャ語)習得力に優れていたことを褒めたと言われているように、ユンゲンのヘーゲル哲学習得力を褒めた(秘書としてバルトの傍にいたブッシュの言葉によれば「高く評価した」)ということは十分あり得るだろうと認める者である、ちょうど東大生が学業的知識の優等生であることは確かなことであってそのことは素直に正直に認め評価しなければならないように。

 しかし、思想は、単なる学業的知識とは違っている。「思想は物質ではなく外化された観念である」から、「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか、……亡びない……」(『吉本隆明全著作集12』「カール・マルクス」、勁草書房)。したがって、党派性、学派、教派、信と不信、有神論と無神論、神学と人間学、キリスト教と非キリスト教、党派的共同性、党派主義、党派的多元主義、理性による相互承認、寛容の精神、折衷主義、調停主義のように「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」(『どこに思想の根拠をおくか』「思想の基準をめぐって」、筑摩書房)。このような意味で、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たず、換言すればその必要性を認識し自覚できずに、それ故にヘーゲルから対象的になって距離をとることができずに思惟し語るヘーゲル主義者そのものであるユンゲルは、知識人ではあるが思想家ではないのである。それは、ちょうど大衆啓蒙や大衆迎合や外部注入によって知識人――大衆関係を論じる思惟と語りと行動をする共産党等や進歩的知識人や市民主義者や市民的運動家等、あるいは知識人――大衆関係において先ず以て知識、知識人に価値を置き、非知、大衆の非価値性を論じる思惟と語りをする例えば柄谷行人や蓮見重彦、この彼らは、知識人ではあるが思想家ではないのと同じである。またちょうど彼らとは違って、思想にとっての普遍的な価値基準としての時代によって変容していく社会的存在の自然基底である原像としての大衆、換言すればそのあるがままの大衆、生活の往相的な自然過程を身近な生活圏の考察に基づいて生活する生活者、生活、非知、そして現在高度情報社会下で生活者大衆は、「言語的・映像的マス・メディアの発達」によって、その現実と時代から強いられて「非言語的、非映像的な存在として存在することを許されなく」なり、「量的にも質的にも書かれ話されるマス・コミュニケーション下に登場する知的大衆へと大きな変容を受けてしまった」が、「歴史のどのような時代でも、支配者が支配する方法と様式は、大衆の即時体験と体験思想を逆さにもって、大衆を抑圧する強力とすることにある」から(それ故に、大衆は、知識人の知識やマス・メディアの情報をそのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしないで、自らの生活実感に基づいて自立した生活思想を構成していくという点に生活の意識的過程を想定できる)、現在でも思想にとっての普遍的な価値基準としての社会的存在の自然規定であるその存在は、「支配の制度」がある限り、知的大衆や知識人の自立思想の根拠であるところのその大衆――知識人、換言すれば観念の遠隔対象性により身近な生活圏から離脱した観念の往相的な自然過程を知識的に上昇していく知識、知識人、それ故に知識、知識人は非知、生活者を出自としているところの知識人とを架橋して、その時代と共に変容する大衆像および大衆的課題を、観念の還相的な意識的・自覚的過程において自らの知識に絶えず繰り込んでいく思惟と語りをする吉本隆明は知識人の中における思想家でもあるのである、またこれと同じ意味でカール・バルトは、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、換言すれば神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固着し服従するという仕方で、信と不信、信仰者と非信仰者、非知と知、大衆と知識人、キリスト教と非キリスト教を架橋した神学者(知識人)の中における思想家でもある。このように、神学における思想家として、徹底的な一貫性をもって<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教を堅持したバルトにおいては、まさに自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞し循環するヘーゲル哲学を評価したり、そのヘーゲルとハーバーマスとの「混合神学」、混合学を目指したヘーゲル主義者そのものであるユンゲンを「高く評価する」ことは絶対にあり得ないことなのである(もちろん、ヘーゲルに関する知識を備えていたという意味で「評価」したということは、あり得ると思う。しかし、ユンゲルの神学の内容を評価したということは、絶対にあり得ないことである)。もしもあり得るとすれば、そのように記述した自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の痕跡と残像を持った、あるいはどこか心の片隅でそういうものを求めている・認めている曖昧な思惟と語りをするブッシュにおいてだけである。


 バルトは、カルヴァンの「聖霊論と信仰論」を、彼の「神学における最良の部分とみなした」。


 バルトは『革新されつつある教会』という講演で、「もし革新されつつ生きることが教会の本質にかかわることでないならば……教会はもはや教会ではない」と述べた。このことは、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、教会は、絶えず繰り返し教会となることによって教会であろうとしないならば、「教会はもはや教会ではない」ということである。教会は、その外在的な、政治的近代国家の宗教法人法によって、その建物、組織、制度、人員によって教会である訳では決してない。


 1968年、バルトは、シュライエルマッハーの『宗教講話』をテキストとして、最終の「コロキウムを行なった」。バルトは、「『この十九世紀の(さらに二十世紀の、とも言えるかもしれないが……)教会教父』と対決し、対話しようと考えた」。ブッシュは、このことと同時に、バルトは、近代主義的な自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を育成したシュライエルマッハーを「烈しく批判したが」、「彼から離れてしまうことはなく、しかも彼の問いを完全に卒業してしまうこともなかった」、「それどころか、天国でのシュライエルマッハーとの『再会を、……ほんとうにたのしく思い浮かべ』」たというように、大いなる誤解・誤謬・曲解のただ中で述べている。しかし、ブッシュは、バルトは「彼から離れてしまうことはなく、しかも彼の問いを完全に卒業してしまうこともなかった」と述べているが、バルトの主要著作に即して厳格・厳密に言えば、実際的事実的には、バルト自身は、先ず以ては聖書の主題である神と人間との無限の質差異を固執するという<方式>(『ローマ書』)およびイエス・キリストにおける啓示は、それ自身に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、聖霊自身の業である「啓示されてあること」――すなわち「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っているという立場と共に、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、信仰・神学・教会の宣教における、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞しているシュライエルマッハーを、換言すれば例えば「シュラエルマッハーにおける深い問題」性としてある、人間の側の自由事項・決定事項として「人間の側から」論じた、すなわち「聖霊論が人間学であるかの如く」論じたシュラエルマッハーを、根本的包括的に原理的に止揚し克服して、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行していたのである(『教会教義学』「神の言葉」・「神論」)。このことは、逝去した最晩年にバルトが執筆した、1968年の『シュライエルマッハー選集への後書』(邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」)を精読すれば、すぐによく理解することができることである。この「後書」を精読すれば、バルトが、徹頭徹尾、「ヘーゲルの強力な痕跡」を持った近代主義神学そのもの――すなわち自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教そのものを目指したシュライエルマッハーに対して一貫性をもって徹底した「否」を突き付けていたことは明確であり明白なことなのである。バルトは、「第三項の神学」(「聖霊の神学」)――換言すれば彼の教会教義学で言えば未完に終わった終末論的な聖霊の業に関わる終末論・「救贖」論・「完成」論(『バルトとの対話』)を展開することが「夢」であったし、「霊的に精神的に」、それ故に神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>を堅持した学識的に「きわめてしっかりした基礎を持つ人々」が聖霊論を書くことを衷心から切望したのである(このバルトは、人間の自由な自己意識の類的機能の無限性に依拠したシュライエルマッハーとは全く違って、『教義学要綱』で、「聖霊は、人間精神と同一ではない」、「人間が聖霊を受けることを許され、持つことが許される場合、(中略)そのことによって、決して聖霊が人間精神の一形姿であるなどという誤解が、生じてはならない」と述べているのである)。しかし、その神学の動向は、現実的にはその最初から今に至るまで自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すところの、それ故に「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の重要性について認識し自覚することができないところの「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者やそれと同類の者たちからする神と人間との「混淆」・「混合」論、神と人間との「共働」・「協働」論、「神人協力説」に基づいた聖霊論によって、バルトのそのような衷心からの切望は容赦なく打ち砕かれてしまったのである。ブッシュは、バルトはシュライエルマッハーの「問いを完全に卒業してしまうこともなかった」と記述しているが、それは全く以て違うので、バルト自身の信仰・神学・教会の宣教は、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、シュライエルマッハーから完全に卒業しているのである。このことは、次のように明確に言明されているのである――先ず以て『ローマ書』「第2版序言」にある「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>がそれである、また次に『ヘーゲル』における「ヘーゲルの哲学的手法に対して」、「受け入れ難く耐え難い」「最も重大でかつ決定的なもの」は、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していないという事態」、すなわち人間の自由な自己意識の類的機能の無限性による神の「捕囚」にあるという思惟と語りがそれであり、「われわれは、シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも、……ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する……」という思惟と語りがそれである。また、ルターの信仰論、聖餐論、受肉論の問題点を根本的包括的に原理的に批判した『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』における「神に対する関係があらゆる点で、原理的に顚倒不可能な関係である」という思惟と語りがそれである。また、前述した『教義学要綱』における思惟と語りもそれである。

 さらにもっと明確に、逝去した最晩年の『シュライエルマッハー選集への後書』において、バルトは、次のように言明している――バルトは、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した「よい聖霊論だったらシュラエルマッハーおよびすべての近代主義に対する最高の批判になっただろう」、と。また、このバルトは、シュライエルマッハーとの関わりの中で、自問し続けた――「すべてを最もよく解釈すれば、一種の聖霊の神学というものが、シュライエルマッハーの神学的行動」、「事実上彼を支配している、正当な関心事であったという可能性を、わたしは予想したい」、そうであることを望む。例えば「絶対依存感情」(敬虔心)の概念に対する「問いに弁証法的に答える」場合、その概念は、人間の自己意識の働きとして、ある対象を知覚作用により対象化し、その内在化された対象を概念的対象として対象化(概念化作用・内在化された対象の時間化)するという点においては、あるいはまた感情的対象として対象化(内観的作用・内在化された対象の空間化)する感情作用と同じであるという点においては、それは人間学的概念であるとしても、もしもその概念を「イエス・キリスト自身の霊的現臨またはその力」として根拠づけ得るとすればどうであろうか、という自問である。そして、バルトは、シュライエルマッハーに対する最後的な言葉として、次のような言葉を投げかけている――「わたしは、事柄そのものにおいて、(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にどっぷりと浸かったままでいる≫)シュライエルマッハーと一致できないのだということを明言した。(中略)わたしがシュライエルマッハーを今までに理解した限り、自分は、彼のそれとは全く違った道」、すなわち自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を、前述したような仕方で根本的包括的に原理的に止揚し克服した<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行した道に「踏みこみ、それをあゆんでいかなければならないと思ったし、今もそう思っているのである」。またバルトは、『教会教義学 神の言葉』においては、次のように述べている――シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。したがって、「近代主義的思惟にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等の近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の類的機能の無限性が対象化したその人間の物語世界・意味世界、「存在者レベルでの神」(偶像神)の世界、「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。何故ならば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階におけるその事情は、次のような具合だからである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」、「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(L ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』船山信一訳、岩波書店)。このフォイエルバッハのキリスト教批判(宗教批判)は、ハイデッガーのブルトマン神学における「存在者レベルでの神への信仰」批判――すなわちキリスト教批判(宗教批判)と同じように、客観的な正当性と妥当性をもった根本的包括的な原理的なキリスト教批判(宗教批判)を構成しているのである。

 さて、『シュライエルマッハー選集への後書』、すなわち邦訳J・ファングマイヤー『神学者カール・バルト』「シュライエルマッハーとわたし」の翻訳者の蘇は、「訳者あとがき」で、バルトの「第三項の神学(≪聖霊の神学≫)という発言について」、「これをバルトの(≪近代主義神学への、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教への≫)『転向』と誤解する者」は、すなわち『カール・バルト――ウィキペディア(Wikipedia)』の執筆者のように「近代神学」への「回帰」・復古・逆行・退行と誤解し「誤謬」し・曲解する者は、「明らかにその前後数頁だけしか読んでいないのである」(あるいはこの本の所々に散見されるブッシュのようなそうした読み方をしている誰かの意見をそのまま鵜呑みにしたかである)というように指摘しているのであるが、この指摘は、全く以て客観的な正当性と妥当性をもった指摘なのである。

 このような訳で、ブッシュは、意図してか意図せずしてか、所々で、その神学の全体像・総体像においてバルトを理解しようとするのではなくバルトを、バルトの一つの言葉だけを切り取りそれを拡大鏡にかけ誤解と誤謬と曲解に基づいて述べているのである。すなわち、ブッシュは、バイアスがかかった語りをしているのである。われわれは、ブッシュのこのような語りを所々で散見した。意図してそうしているように感じられる語りもあった。いかにもバルトが自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を肯定しようとしているようなバイアスのかかったブッシュの語りを所々で散見した。その時、われわれは、このブッシュの本の出版の意図と主調音は、結局は、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返しているほとんどすべての神学者や牧師やキリスト教的著述家たちと、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服して<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行したバルトとを、折衷あるいは調停しようと目論んでいるように感じた。すなわち、折衷主義者あるいは調停主義者ブッシュを感じた。言い換えれば、バルトの秘書であったブッシュは、バルト死後において、もしかしたら意図的に、この本の所々で、この本の所々を利用して、バルトがいかにも自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を容認していたかのように、寛容な言い方をすれば人々を啓蒙しようしていたのではないか、悪く言えば人々を誤解させ・誤謬させ・曲解させようとしていたのではないか、と感じさせられた。このことが、この本を最後まで読んできて、私が強く感じたことである。したがって、われわれは、その全体像・総体像におけるバルトの神学を、バルト自身の主要著作に即して理解するようにすることが必要であり重要なことだと実感的に認識し自覚した。したがってまた、われわれは、先ず以て様々な神学者や牧師やキリスト教的著述が述べ語ったことを・述べ語っていることを、そのまま鵜呑みにしたり模倣したりすることをしてはいけないのである。したがってまた、バルトの神学のその全体像・総体像を、たとえ拙くとも、自分自身で、バルト自身の主要著作に即して理解するように努めなければならないのである。何故ならば、バルトの<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における道は、教会の宣教にとって、教会の宣教の一つの機能としての神学にとって、その思惟と語りと行動にとって、最善最良のそれである、と確信をもって言えるからである。


 バルトの「最後の言葉」――それは、内的・内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外的・外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方である父なる神の子としての啓示ないし和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト名」だけである。「イエス・キリストは、わたしにとっていついかなる所でも……彼によって呼び集められ委託を受けた教会にとって――また、教会にゆだねられた音信(おとずれ)によれば、全人類、全世界にとって、かつて在り、今在り、そして将来も在り続けたもうところのものにほかなりません(それ以上でも、それ以下でも、それ以外のものでもありません)」。


 1968年、バルトは、「1969年の初めに、スイス放送が計画した二回分の録音テープをとった」。その「一つの放送」で、バルトは、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返している直接的無媒介的に「自由主義者をもって任じている人々よりも」、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階において具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者とするという仕方で、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すキリストの奴隷として、換言すればキリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着し従う者として、「もっと自由主義的であるかもあるかもしれません」と語った。さらに11月中旬のスイス放送では、バルトは、次のように語っている――「私が神学者として、そしてまた(≪法的言語や政策的言語や納税や選挙等々を介して人は誰でもそうであるように、不可避的に政治に関わることを強いられてしまうという意味で、不可避的な≫)政治家(≪不可避的に政治に関わる者≫)としてでも、語るべき最後の言葉は、恩寵といった概念ではなく、一つの名前、イエス・キリストなのです」、「私が私の長い生涯において努力してきたことは、いよいよ力をこめて、この名を強調し、そして、そこにこそ! と語ることでした。この名前以外のいかなる名前にも、救いはありません。そこにこそ、恩寵があります。そこには仕事と闘いへと向かうはげましがあり、共同体と仲間の人たちとの交わりへと向かうはげましがあります。そこには、弱く愚かであった私がその生涯において試みたすべてのことがあります。しかしそれらすべても、この名」――すなわち「イエス・キリストの名」「において、なのです」、と。 


 1968年12月9日、月曜日、バルトは、「夜の九時頃」、「六〇年来真実に結ばれてきた友人のエドゥアルト・トゥルナイゼン」からの電話を受け、「暗い世界情勢について話し合った」。その時、バルトは、「しかし、意気消沈しちゃ駄目だ! 絶対に! 主が支配し給うのだからね!」と言った。電話がかかってきた時、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」、「人はみな、神に生きる者だからである」という文章を書いているところだったという。バルトは、「その夜半のある時点に、誰にも気づかれずに死んでいた。彼は眠っているかのように横たわっていた。手は自然に、夕べの祈りの形に組まれたままだった」という、ネリ夫人が、朝に、「モーツァルトのレコードをバックに流しながら、彼をそっと起こそうとした時、このような姿で死を迎えた彼を見た」という。