10の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(203-231頁)(その2-1)

「一 神の用意」
(4)第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の「聖書的証人たち」は、「決して、(≪天然自然の≫)宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間をそのまま真剣に受け取り、彼の『自然的な性質』の中で、すなわち彼の(≪生来的な自然的な自己意識・理性・思惟の類的機能による≫)自己理解の中で、語りかけようとはしない」。すなわち、「聖書的証人たち」は、「宇宙の中での人間」に向かって、「彼はそのような者としてはもはや本当には存在していないということ、彼はただその自己理解の中で途轍もない唯一の自己誤解に陥っているということ、を語るのである」。「聖書的証人たち」は、「宇宙の中での人間を指し示すことによって」、「宇宙の中での人間」を包括した「神の啓示の人間」、すなわち「神がその民と結ばれた契約の中での人間」、換言すれば「キリストの肢体がその頭とひとつである単一性の中で、神的な適意に、そのようにして神認識にあずかっている人間を指し示す」のである。われわれは、9の2で、キリストの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力――すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による、存在的な必然性(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と認識的な必然性(その啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした存在的なラチオ性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)と認識的なラチオ性(聖霊と同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性性)という総体的構造に基づいて、終末論的限界の下で、人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が与えられるという「聖書的な『主要な線』」のことについて理解した。この時、すなわち聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教を通して、その復活に包括された死と復活の出来事との全体性におけるイエス・キリストが、われわれ人間に対して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは、神の支配のもとに入ることを承認し確認する」、それ故にわれわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」、それ故にまたわれわれは、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである(『教会教義学 神の言葉』)。このように、「聖書的証人たち」は、「宇宙の中での人間の起源および未来としてのイエスを指し示す」、換言すれば「神のみ心に適った人間」、すなわち「ナザレの人間イエス、この人間に対して下された裁き、人間がイエスの中で神の前に見出した恵み……を指し示す」(恵みに包括された裁きを、恵みに包括された裁きと恵みとの全体性・総体性を指し示す)。

 このような訳で、「聖書的証人たちがなす指し示し」は、「ここでもまた、最も狭義の、最も厳格な意味での、(≪「裁きであることによって、恵み」であり、恵みに包括された裁きであり、恵みに包括された裁きと恵みとの全体性である≫)預言者的、使徒的な指し示しである」。したがって、「それは……宇宙の中での人間が既にもともと持っている真理を指し示さない」のである。したがってまた、「聖書的証人たちが指し示している真理」は、「聖書的な使信からの逸脱を意味しない」のである。すなわち、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)として、換言すればイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類(それぞれの預言者および使徒たちの世代)と歴史性(それぞれの預言者および使徒たちの世代の時間性、時間累積)として、「聖書的な使信からの逸脱を意味しない」のである。したがってまた、聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教える第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義も、「聖書的な使信からの逸脱を意味しない」と言うことができるのであるのである。このように、「聖書的証人たちが指し示している真理」は、「喜びの中で起こる」、あの純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」へと向かわせるのであり、それ故にそれは、「聖書的な使信からの逸脱を意味しない」のである。

 人は、「純粋な『自然詩篇』」と呼ばれる一方の「詩篇八篇」の1・2節(「あなたの栄光」あるいは「あなたの威光」は、「われわれがその造られたままの姿、すなわち「みどりごとちのみごの口によって、ほめたたえられています」、新共同訳聖書では2・3節)、5-8節(「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄と誉れとをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」、新共同訳聖書では6-9節)に依拠して、天然自然の「宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間自身が(≪直接的に、無媒介的に≫)そのまま神の証人として呼びかけられているかのように理解」し、「注釈」しないように、換言すれば自然神学の段階に停滞して「理解」し、「注釈」しないように、「質問形式」の「決定的な文章」によって、すなわち4節(「人は何者なので、これを心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」、新共同訳聖書では5節)によって、「警告されている」のである、注意喚起されているのである。この箇所の「人」は「何者なのであろうか、「どの人間」について「語られているのであろうか」――このことは、「詩篇八篇が引用」されている「ヘブル二・五以下……に注意を向ける時、すべてのことは……明瞭となる」。すなわち、「八節以下」で、「『万物を彼に服従させて下さった』という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである」、「しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」、「ただ『しばらくの間御使たちよりも低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る」。われわれは、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、「ナザレの人間イエス、この人間に対して下された裁き、人間がイエスの中で神の前に見出した恵み」(その恵みに包括された裁きと恵みとの全体性)を見る、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)のを見る。「イエスこそ事実、詩篇八篇で述べられている宇宙の中での人間である……」、「まことの人間」である。したがって、詩篇八篇における「人」、「人間」は、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるわれわれ人間のことではない。したがってまた、人は、詩篇八篇によって、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を根拠づけることはできない。「それからまた(≪「マタイ二一・一六以下によれば」≫)」神は、「ほかの人間的な幼子や乳飲み子の口によっても、神は、……彼らが苦しみと栄光への道を進まれるイエスの後」を、未熟ではあるが素直に「ダビデの子にホサナという叫びをあげながらついて行く讃美を用意されたのである」、また、「自然的な人間」とは区別された人間、すなわち「神の啓示からして将来的な人間の口の中で、『主よ、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう』という叫びがあげられる」。「純粋な『自然詩篇』」と呼ばれる他方の「詩篇一〇四篇についても事情はこれと全く同様である」。詩篇一〇四篇は、「奇しき仕方で明瞭な秩序と調和に取り組んでいる」。しかし、「われわれが知っている人間、自然的な人間」、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるわれわれ人間は、「神に敵対し神に服従しない……人間、……肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や……』」知力や感情力や悟性や意志力や想像力によっては「全く信じることはできない」のであって、それ故に生来的な自然的なそれらによっては、「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている(24節)ということを読み出すこと」はできないのである、「『わたしは生きるかぎり、主に向かって歌い、ながらえる間はわが神をほめ歌おう。どうかわたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ(三三節以下)』と語ること」はできないのである。

10の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(203-231頁)(その2-2)

 「われわれの世界像の枠の中での……出来事は、すべてのものがすべてのものに対して戦っている凄惨な生存競争を意味しているということ」――このことを、「われわれは見過ごすことはできない」。「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」し、「国家は支配であり、文化は支配」であるし、「われわれが最も激しく非難する全体的、非人間的強制にしても、遠い昔から西方(≪現在危機のただ中にあるとしても、人類史が到達した尖端性としての自由を原理とする西欧近代≫)の自称自由社会や自由国家にもほかの形で出没した……」し、権力は実体ではなく「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」であるから、人は、ある価値基準ある時ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教えるもの」と「教えられるもの」、「正常なもの」と「異常なもの」、「支配されるもの」と「支配するもの」等へと関係を規定する政治的合理性の形態の中における生と生活を強いられている――このような「自己理解」と「世界像」を、われわれは「見過ごすことはできない」し、その時、われわれは、どこにも「秩序と調和」を見出すことができないから、「われわれが知っている人間、自然的な人間」、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間は、「主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている(24節)ということを読み」取ることはできない、「『わたしは生きるかぎり、主に向かって歌い、ながらえる間はわが神をほめ歌おう。どうかわたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ(三三節以下)』と語ること」はできない。このような訳で、「神の目に見えるみ業で支えられている主を喜ぶ喜び」が、そうした「矛盾に耐えることができるとすれば」、「詩篇の作者」が、天然自然の「宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間を神の証人としている時」、「秩序と調和」の「自己理解」と「世界像」は、「未来の世界……の中で、今、ここで、われわれに全く隠されている創造の神性、知恵、いつくしみが、(≪終末論的な≫)再びわれわれのところに来る未来の世界(≪終末、復活されたキリストの再臨、「完成」≫)……の絵について語っていることは明らかである」。「人は、詩篇一〇四篇を、(≪終末論的な≫)黙示録二一・一-五の注釈なしには、たとえ一瞬なりとも正しく理解すること」はできない。「……御座にいます方が言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』」(黙示録二一・一-五)――「このことは、自然的人間の世界像の中に、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)預言者的、使徒的全権をもって読み入れられ、それからまさにそのことが(≪その聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義を通して、教会の宣教を通して≫)自然的人間の世界像から読み出されているが故に」、「詩篇一〇四篇の内容をなしている」「神の創造の秩序と調和の中で起こる神の讃美が可能となり、現実のこととなるということを度外視して」は、「人は、詩篇一〇四篇のまことの、文字通りの、歴史的な説明に、……到達すること」はできない。神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で「救済」(それ故に「平和」)を「信仰の中で持つ」ことは、それ故にその「信仰を授与されているという事実性において、事実的に信ずる」キリスト者は、「約束として持つ」ことである、「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって、永遠の生命を信じる」、「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」、この「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、 義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである、ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」にとっての、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉』)。

 さて、ここで、「われわれはさらに聖書的な傍系的線のもう一つの重要な文書」、すなわち「『つむじ風の中から』語られる神の答え(ヨブ記三八章以下)」に「注意を向ける……」。「その答えを理解するために人は、……その答えが(著者の意味ででは)ヨブの問題の解決、それであるから世界の動きを神が支配し給う際の神の正しさを問うヨブの問いに対する十分な満足のゆく答えであるということから出発しなければならない」。ヨブは、「確かにあの事柄についての理論的な知り方でではないが、それよりもはるかにまさった、はるかに徹底的な仕方で知るのである」――「わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました。『聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ』。あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け(≪あなたのみ業を通して「この目であなたを仰ぎ見る」ことによって、私の無神性・不信仰・真実の罪としての私の自主性・自己主張・自己義認の欲求を退け≫)、悔い改めます(四二・三-六)」(先行して神語り給う故に神語り給うことを後続して聞きます)。「そのように、人は、神の義を知る。換言すれば、神は正しい方であり給うが故に、神の前に身を屈しつつ、神の義を知る。それこそ著者が明らかに言おうとしていること」なのである。ここには、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の主張の不可能性が語られている。「聖霊論的説教論」を主張したルドルフ・ボーレンや佐藤司郎や小泉健のように、「神の言葉」だけでなく「人間の経験」(近代的な人間の感覚と知識を内容する経験的普遍)の尊重を主張する時、キリストの復活に包括されたその死と復活の出来事との全体性におけるキリストの復活は、捨象されてしまいキリストの十字架の死だけを、その一面だけを形而上学的に抽象して固定化しなければならなくなるであろう。ルドルフ・ブルトマンのように「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を前期ハッデッガーの哲学原理に置けば、神学でも人間学でもなくなるであろう、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしない」であろう、何故ならば、聖書の使信を「ゆがめ、切りちぢめることになる」であろうから。自由を原理とする西欧近代を頂点としたヘーゲルの歴史哲学(人間学)と神学との混合神学であるモルトマンの神学的な三段階的進歩史観は、そのような進歩史観はすでに時代状況が全く許さないから客観的には自然時空に死語化してしまっているだけでなく、神学でも人間学でもないものとして、「神についての教会の語りの堕落と荒廃以外の何ものにも役立ちはしない」であろう。したがって、モルトマン主義者としてメルロ・ポンティの身体性の概念に依拠して神学的進歩史観の構成を目指した喜多川信も、モルトマンと同じ轍を踏むことになるであろう、あるいはなったであろう。

 いずれにしても、ヨブを「教え、悔い改めさせるものは、明らかに、積極的にも消極的にも」、「……徹頭徹尾……(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神としての≫)神ご自身が、そのみ業(≪その外在的な「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)を、ヨブに語りかけるご自分の言葉の内容とし給う」ということによっている。神は、「言葉の中で万物の主であり給い、そのようなものとしてまた河馬やレビヤタンの主であり給い、そのようなものとしてまた河馬やレビヤタンの秘密の、そのすべてのみ業の秘密の、知恵であり給う神である。この神の言葉を、ヨブは、神の業(≪父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の秘密を指し示す指示の中で聞いたのである。ヨブを悔い改めへと導いた三八章以下(≪「二つの話しの進行、三八-三九章と四〇-四一章……このうち第二のものを人は残念ながら普通、本来のヨブ記に後から付け加えられたものとして排除するのであるが」≫)に出てくる秘義は、啓示の秘義、換言すればイスラエルの選びと導き、イエス・キリストの十字架と甦り(≪復活に包括された死と復活の出来事との全体性≫)の秘義と内容的に同一であると言っても言い過ぎではない」。「悔い改めへと導かれ」、それ故に<非>自然神学の段階へと移行させられたヨブは、「理解を絶した、把握できない……無気味な、得体の知れない」「暗さそのものの神の業を直接に理解した」のではなく、自然神学の<段階>の最後的形態である「レビヤタン」についての「神の語り」(「言葉」)を聞いたのである、先行して神が語り給うが故にその神が語り給うこと(「言葉」)を後続して聞いたのである――「地の上にはこれと並ぶものはなく、これは恐れのない者に造られた。これはすべての高き者をさげすみ、すべての誇り高ぶる者の王である(四一・三三-三四)」、(新共同訳聖書)「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し、誇り高い獣すべての上に君臨している(四一・二五-二六)」。