9の2『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(177-203頁)(その2-1)

「一 神の用意」
 われわれは、「創世記六・五、八・二一」で、「神から見て」、「二度……人間の心の思いはかること」は「いつも悪い事ばかりである」、「人が心に思い図ることは、幼い時から悪い……」と「明言されているのを見出す」。その現実的な事実の故に、「神は、人を造ったことを悔い給い、人間を地のおもてからぬぐい去ろうと決心し給うたと言われている」。しかし、一方で、その同じ現実的な事実性の下で、「神は、もはや二度と人間のゆえに地をのろわない」、「ぬぐい去ろう」としないことが「明言されているのを見出す」。このような訳で、現実的な事実性を生きる「人間についての判決そのもの」は、「取り除かれてはいない」――この「まさに……(≪人間の現実的な事実性に対する神の判決の≫)真理性こそ」が、「ノアは主の前に恵みを得た」と認識された神の側から結ばれた「ノアとの契約」の「根拠となる」。したがって、「……ただそのような仕方でだけ神の前に存在している人間について、その創造に基づいて神に対し独立した関係があるなどと言うことはできない」。もしも「独立的な関係が……成り立っているとするならば」、「ノアの契約」におけるように、「ノアはすべて主が命じられたようにした」という仕方においてである、すなわち神語り給う故に神語り給うことを聞くという神に対する他律的服従と自律的服従という仕方においてである。したがって、「例えば創世記一-二章の創造物語」は、「神の恵みの啓示に相対して独立した言明であるとして理解することはできない」。

 「われわれは……詩篇一四・二-三で……『主は天から人の子らを見下ろして、賢い者、神を尋ね求める者があるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもいない』」と明言されているのを見出す。しかし、その同じ「詩篇一四篇」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神、「主が、その民の繁栄を回復されるとき、ヤコブは喜び、イスラエルは楽しむであろう」で「結ばれている」。「また、われわれは詩篇五一・四-五で……『わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事ばかり行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。見よ、わたしは不義の中に生まれました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました』」と明言されているのを見出す。しかし、その同じ「詩篇五一篇」は、「一三-一四」で、「わたしはとがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。神よ、わが救いの神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう」と言われている。この「詩篇の中で」、「あのように全き神の裁きについて、同様にまたあのように全き神の恵みについて、知らなければならない人間……に対して、恵みと裁きを度外視して、したがって神の啓示を度外視して」、「神との独立した関係が帰せられ、それに基づいて独立した証人となる能力が帰せられることが可能であるはずはない」のである。このように、「神の啓示」は、「全き神の恵み」に包括された「全き神の裁き」との全体性において認識(啓示認識)し信仰(啓示信仰)することを、われわれに要求しているのである。

 「ローマ人への手紙三・二二以下」の「そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、値なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」――この啓示認識・啓示信仰に基づく「命題は、ローマ人への手紙の中で、その前の部分で……すべての人は罪を犯した……こと」が、「その後の部分で……彼らは、値なしに、義とされる……こと」が、その全体性・総体性において「展開されるべきことをまとめている」。パウロは、「ローマ一・一八-三・二〇で……ユダヤ人と同様異邦人の、異邦人と同様ユダヤ人の、あらゆる不信心と不義に対する神の怒りの啓示に語った」が、「それと並行的に」、「ローマ三・二一以下で(≪裁かれるべき、「あらゆる不信心と不義」の中にある人間の、あるいは生来的な自然的な『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」人間の≫)イエス・キリストを信じる信仰の媒介を通して信じるすべての者に現される神の義の啓示について語る……」(下記の【注】を参照)。「一・一八-三・二〇までは、……旧約聖書が証して来たことを常に思い起こさせながら、福音……イエス・キリストの使信において、事実全人類に対する神の裁きの判決が、……断罪が語られていることが指摘される。しかし、この局面は、……この手紙の主要部分、三・二一-八・三九において詳論される内容によって一変する。……すべての人間が罰せられる神の裁きの判決は、それがイエス・キリスにおいて語られたものであるがゆえに、それが彼の死において成しとげられたものであるがゆえに、彼を信ずるすべての者に、解放を宣言し、義を与える」。言い換えれば、「彼は全く端的に、信じ給うた」が故に、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストが信ずる信仰による「神の最高の義」そのものであるが故に、「彼を信ずるすべての者に、解放を宣言し、義を与える」、「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『福音と律法』および『教会教義学 神の言葉』ならびに『ローマ書新解』)。「神は、……最も厳格な義を行使する……彼らが義と宣せられるのは、イエス・キリストにおいて贖われたゆえであり、……イエス・キリストによって一回決定的に買い戻されたゆえである」、「イエス・キリストこそ律法の総括と内容である。なぜなら、彼こそ律法を満たし(≪律法を成就し≫)、……われわれに代わって裁かれた裁き主としての彼に対する信仰のみ残したからである、「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストを信じる信仰のみを残したからである、「罪と死の法則」としての律法――すなわち「汝斯く斯くなるべし」、「遂行せよ」という要求から、「生命の御霊の法則」としての律法――すなわち「汝斯く斯くならん」、「信頼せよ」という約束へと回復せしめられたところの、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法は、『生命の御霊の法則』として、「われわれはイエス・キリストにあって」「罪と死の法則」としての律法から「解放された」のであるから、それ故に「われわれが己の解放を与えられるためには、彼に固着し得る」だけである、「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストに感謝をもって信頼し固執し固着し得るだけである。「われわれに代わって裁かれた裁き主としてのイエス・キリスト」によって、「われわれはただ神の前にのみ、しかしそれゆえ、真実にまた完全に、義人とされている」(『ローマ書新解』および『福音と律法』)。

【注】先ず以て、大学神学者や牧師や翻訳家や著述家の知識を「そのまま鵜呑みにしたり模倣したりしていけない」(吉本隆明『自立の思想的拠点』)ことは、バルトにおいてローマ3・22あるいはガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格はすべて、主格的属格(「イエス・キリスト信ずる信仰」)として理解されている、ということである――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の『イエス・キリスト信仰』は、明らかに主格的属格(≪イエス・キリスト信ずる信仰≫)として理解されるべきものである)」、「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子信じ給うことに由って生きるのだ>ということである』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである(『福音と律法』)。このような訳で、「イエス・キリストを信じる信仰の媒介を通して信じるすべての者に現される神の義」という吉永の翻訳は、その全体性・総体性からバルトの著作を正直に翻訳するのではなく、「何らかの抽象をもって始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を温存させるための源泉である伝統的な目的格的属格として翻訳されたところの(「神人協力説」としてのイエス・キリスト信じる信仰による神の義、自らにある不信を含めて外在的な不信を包括的することができない信、すなわち信と不信を架橋することができない信である、信仰・神学・教会の宣教における思想の問題を認識し自覚でき得ていない信であるところの)、「旧来訳聖書」、「新共同訳聖書」に気を遣った、それ故にそのバイアスのかかった翻訳なのである。本当は、徹頭徹尾神の側の真実としてある「イエス・キリストが信じる信仰」による「神の最高の義」そのもののとしてのイエス・キリストを、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠して「信じるすべての者に現される神の義の啓示」というように翻訳すべきなのである。何故ならば、そうでなければ、「Ⅰコリント二章と矛盾」してしまうことになるからである。
 ただ、文芸批評家だった井上良雄だけが、その全体性・総体性からバルトのローマ3・22あるいはガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリスト信仰」の属格を、主格的属格(イエス・キリスト信ずる信仰)として理解していたとして正直に翻訳している。バルトは、徹頭徹尾、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、この主格的属格として理解された「イエス・キリスト信仰」(イエス・キリスト信ずる信仰)による「律法の成就」・完了、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されたそれである)の立場に立脚している。ここで、信は、自らにある不信を含めて外在的な不信をも包括的できる信である、信と不信を架橋することができる信である、信仰・神学・教会の宣教における思想の問題を認識し自覚した信である。吉本の「あなたはキリストの再臨を信じますか」という問いにカトリック作家の小川国夫は「信じます」と答えたその思惟と語り、その思惟と語りを尊重して受け入れるその在り方――ここに、それぞれの領域における本当の思想家が存在する。

 さて、「神の知恵と意志の中では明らかにひとつである」が、人間は「神の怒りと義を通して(≪「二重に」≫)規定されている」。終末論的信仰に生きたドストエフスキーも(『罪と罰』のマルメラードフも)、形而上学的にその一面的だけを抽象し固定化して思惟し語ることはせず、「赦し」を、「ただ万人を憐み、万人万物を解する神様ばかりが、われわれを憐んで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「……われわれに、御手を伸ばされる」というように、赦しに包括された裁きの全体性(「二重」性)において理解している。また、「われわれ」は、「使徒行伝一七・二二-三一で、パウロがアレオパゴスの丘の上でイエス・キリストの甦り(≪キリストの十字架の死でもって終わる「神の裁きの啓示」・律法を包括した「神の恵みの啓示」・福音≫)について宣べ伝えたことを読む」。このパウロは、「神が『見過ごしにされて』いた『無知の時代』」を、「その聞き手に向かって彼らの過去として示した」が、「彼らの未来として、パウロは、甦られたキリストの中ですぐ目前にせまった世界の裁きと直面しての悔い改めを示した」。それに対して、「三二節以下で、この使信は、アテネ人たちによって(まさに彼らが死人の甦りのことを聞いた時)一部は軽蔑をもって一部は退屈感をもって受け取られ、……彼らの中から出て行ったということを読む」。「ただ何人かの者だけがパウロに従って行き、信じた」ということを読む、すなわち何人かのものだけが、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で啓示認識・啓示信仰を与えられたということを読む、詳しく言えばキリストの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、存在的な必然性(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と認識的な必然性(その啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした存在的なラチオ性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)と認識的なラチオ性(聖霊と同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性性)という総体構造に基づいて信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えられたということを読む――これが「この有名な箇所における聖書的な『主要な線』である」。

 このような訳で、この「主要な線」に並ぶパウロによって「注意が喚起されている傍系的な線は存在することはできない」のである、すなわち「アテネ人たちの……宗教心」や「『知られざる神』に捧げられた祭壇」や「人間が神と親族関係にあり、人類はひとつであることを念頭においた」、たとえ半分だけであろうと少しだけであろうとイエス・キリストにおける神の自己啓示なしで、「イエス・キリストなしで」、「神に対して独立した仕方で保証された関係に立ち得る傍系的な線は存在することはできない」のである。したがって、「聖書的な『主要な言明』」、「聖書的な『主要な線』」(総括的に言えば、<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の言明および線)に対して独立した傍系的な線(総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の言明および線)の存在について主張する主張は、聖書が、「死と呼んでいるものを単なる病気に」、「闇と呼んでいるものを単なる薄明に」、「不能と呼んでいるものを単なる弱さに」、「無知と呼んでいるものを単なる混乱にしてしまう時にだけ可能」な主張なのである。したがって、そのような主張は、前段で述べた「聖書的な『主要な言明』」、「聖書的な『主要な線』」に「人が注意しない時にだけ可能」なのである、すなわち神の側の真実としてある先行する神の側からする「人間に与えられるようになる神の恵みは、失われ滅びに陥った罪人の身に与えられるということ」に「人が注意しない時にだけ可能」なのである。言い換えれば、「承認されている聖書的な主要な線」、「聖書的な主要な言明からは、(≪天然自然の≫)宇宙の中での(≪その一部分である≫)人間はただ、独立的でない証人として、すなわち主要な証人ではなく、ただ副次的な証人として、理解する」ことができるだけなのである。「聖書が宇宙の中での人間の証言に関して語っているすべてのこと」は、天然自然の宇宙の中でのその一部分である「人間は、啓示そのものを通して(≪「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの存在的な必然性と認識的な必然性を前提条件とした存在的なラチオ性と認識的なラチオ性という総体的構造において≫)その証人にされ、証人へと召し出される」ということである。自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を主張する「彼は、(≪天然自然の≫)宇宙の中での(≪その一部分である≫)人間として、それ自身ではない」のである、徹頭徹尾内在的にも外在的にも啓示ではないのである。

 第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書的な啓示証言」(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)は、「すべての人間的な教えと理論がすべての首尾一貫性にもかかわらずどこかで空隙を示し、それ自身の矛盾を自分自身の中に含み、自分の傍らで堪え忍ぶことができるし、堪え忍ばなければならないところの人間的な教えと理論ではない」、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「人間的な思想」の「展開」ではない。それは、イエス・キリストにおける「神の啓示についての証言(≪預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」≫)である」。聖書的な啓示証言は、「(人間的な思想の形においてであるが)すべての人間的な思想を越えて、イエス・キリストの中で神が人間と出会い給う出会いの出来事」を、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を、それ故に「その中では然りと否があるのではない」啓示の「真理の出来事」を、「また然りと否をもって指し示す」ことができない啓示の「真理の出来事を、指し示している」。したがって、「もしも聖書的証人たちが(≪啓示の真理に対して≫)然りと否を並べて言うことができるとするならば、もしも彼らが、その啓示の中での神の主権的な恵みと並んでなおまた(≪天然自然の≫)宇宙の中での(≪その一部分である≫)人間が独立した形で神(≪すなわち、それを為すのが神学者であれ牧師であれ誰であれ、結局は、対象化され客体化された彼ら自身の自己意識・理性・思惟に過ぎない、彼らの人間的理性や人間的欲求やに過ぎない「存在者レベルでの神」としての神≫)と結ばれていることについて教える自由を持つとするならば、その時彼らはまさにそのことでもって、自ら啓示の証人であることを否定することになる……」のである。このことは、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な「キリスト教会の神学の中で……確かに数え切れないほど起こったことである……」、現在も起こっていることであるし、これから先も起こり続けることである。何故ならば、「彼らは、啓示と関わるのに、……首尾一貫させつつ貫徹させることができるが、それにもかかわらずどこかでまた首尾一貫性を欠き、……矛盾しなければならなくなる体系的な原理と関わっているかのように関わっている」からである。彼らは、「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」し、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)という認識と自覚を欠いているのである。言い換えれば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教に対する、客観的な正当性と妥当性とを持ったフォイエルバッハやハイデッガーの根本的包括的な原理的な揶揄や批判を認識し自覚できていないのである、その認識と自覚を欠いているのである。その時、「聖書的な『主要な線』」、「聖書的な『主要な言明』そのもの」が、「そのような矛盾と隣り合わせながら」、「虚言となってしまう」のである。

 「人間的な体系の領域の中で、従って人間的な自己矛盾の領域の中でなされる」「聖書的啓示証言」が「神の啓示であるとするならば、その時」、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)における第二の形態の神の言葉である「聖書的証言そのものから、然りと同時に否を語る可能性、恵みの神と同時に神と結ばれた宇宙の中での人間を教える可能性を期待することはできない」のである。したがって、「確かに例外なく人間的な自己矛盾の領域を生きた」第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉であるその人間性と共に神性を賦与され装備された「預言者と使徒たち……の証言」は、その人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「対象を証ししているのではなく」て、「自分自身と矛盾しないし」、また「彼らが彼らに対しても……語らなければならない」ところの、「自分と矛盾することを許さない対象を証ししているのである」、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態としての神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストを証ししているのである。第二の形態の神の言葉であるその人間性と共の神性を賦与され装備された聖書的啓示証言としての「預言者と使徒たち」(「証人」)は、「決して何かあること……を語ったのではなく」、前述した「まさにひとつのこと」、ひとつの「対象」、「まことの証人」であるイエス・キリストを、「証ししているのである」。

 このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会(すべての成員)の宣教、「われわれの側」は、聖書的啓示証言(証人としての預言者および使徒たち)の「語ることを聞きたいと願うならば」、彼らが「承認された聖書的な主要な言明の内容を形造っていることを語ることができたし、語ろうと欲したということを堅くとって離してはならない」のである。言い換えれば、われわれは、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」――そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味でのそれではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことである、すなわち主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」としてのイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着せよという、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるためにキリストの福音を告白し証しし宣べ伝えよという、神の命令・要求・要請である)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである。「われわれの側」が、「聖書的な『主要な言明』に仕えようとする」ならば、「われわれの側」は、それに「矛盾する聖書的な副次的な言明を主張する」ことはできないのである、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すことはできないのである。何故ならば、「自然神学への招きと要請、換言すれば自然神学を基礎づけ、可能にし、正当化するであろう聖書的な教えは、あの副次的な言明の中でも存在していることはあり得ない」からである。

9の2『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(177-203頁)(その2-2)

 さて、バルトは、自然神学を聖書的に基礎づけられるかという問いに対して、次のように答えている――「ただ主要な部分ニオイテだけでも、……副次的言明の特別な代弁者として主張することができるであろう聖書の著者はひとりもいない」、「また個々の聖書的書物の内部で……副次的な言明が、いわば純粋に、したがって独立した形で鳴り響いており、……注釈的に基礎づけられる契機を持つであろう思想連関はほとんど存在しない」、それ故に「自然神学を聖書的に基礎づけるために」は、人は、「聖書的なテキスト」を、形而上学的にその一面だけを抽象して固定化するという仕方で、すなわちその一面だけを拡大鏡にかけて全体化するという仕方で、「切断しなければならないこと」になる、と。したがって、「その時、ローマ人への手紙一-二章の聖書の主要な言明の展開」――すなわち、「神の怒りと恵みの啓示を無視して読まなければならないことになる」、換言すれば「神の恵み」に包括された「神の怒り」を、すなわちキリストの十字架の死でもって終わる「神の裁きの啓示」・律法とそれを包括した「神の恵み」(「神の恵みの啓示」・福音、キリストの復活)との全体性・総体性としてある神の啓示を無視して読まなければならないことになる。また、その時、「使徒行伝一七章に出ているアレオパゴスでの説教の中で」、「使徒行伝全体の出発点および内容的な中心」である「キリストの甦り」、それ故に「二二-二九節」も「キリストの甦り」から「理解されなければならないであろうキリストの甦りへの指し示しを伴った決定的な結論が看過され」捨象されてしまうことになる。その時、次のような事態が惹き起こされるのである――吉本隆明は、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機(≪西欧的危機の問題≫)に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています(≪人類史におけるアジア的段階の日本的特殊性の問題≫)。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」(『世界認識の方法』)と述べている。しかし、北森嘉蔵は、信仰・神学・教会の宣教における近代主義の問題を明確に提起しないまま、骨肉にまで受け入れた近代主義者として、キリストの復活に包括された十字架の死と復活との全体性・総体性としてあるイエス・キリストにおける啓示の出来事を捨象してしまって、その十字架の死だけを特化(一面化)して『神の痛みの神学』を主張したのである。また、一方で、この神学における「神の痛み」は、寺園喜基の『バルト神学の射程』によれば、浄瑠璃「菅原伝授手習鑑」の『寺子屋』における「主君の子供を救うために、自分の息子を身代りに殺させた松王丸が、息子の死を聞いたときにいった、『女房喜べ、悴は御役に立ったぞ』という言葉」で表現できるそれであり、それは、存在の類比において、人類史のアジア的段階の日本におけるナショナルなもの(滅私奉公的な意識の在り方、共同体至上意識がいつも個体性を超えて行くところの意識の在り方)を温存させた土俗性を持っている

 「(詩篇一〇〇・一)――そこでは、よく聞こえる仕方で、神を讃美するようにとの呼びかけがすべてのものに向かって、すべての国々に向かって」、「全地に向かって(詩篇六六・四)」、「すべての民に向かって(詩篇六七・六)」、「神々の会議に向かって(詩篇八二・一)」、「息のあるすべてのものに向かって(詩篇一五〇・六)」、「存在するすべてのものに向かって(詩篇一四八篇)、呼びかけられている」。「そこでわれわれは……地はそれとして神のものであり(詩篇二四・一-二、五〇・一〇以下、九五・四以下)、それ故に創造のすべてのよきものは神のものであり(詩篇三八・六-一〇、六五・七-一四)」、「またすべてのもの、全地に対する支配と裁きも神のものであるということ(詩篇九六、九七、九九篇)、を聞く」。「そこでは、繰り返し天、海、嵐、山、地震、植物と動物の世界、諸国民、その支配者たち、天にいる御使たちが、神の創造、しもべ、み業の証人、したがって声高く語っている神の証人として語りかけられている」。しかし、「(中略)それらすべてが語られているのは、(≪天然自然の≫)それとしての宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間そのものに啓示されている、あるいは啓示されるようになることができる何かあるひとつの神性についてではなく」、それ故に人類史のアジア的段階における草木国土悉皆仏性・草木国土悉皆成仏・山川草木悉皆仏性論のようなそれではなく、「むしろ……(≪「全く明らかとなる」ような「仕方」で≫)イスラエルの神、換言すれば、(≪「全く明らかとなる」ような「仕方」で≫)イスラエルに対し、またイスラエルの中で(≪啓示者・言葉の語り手・創造者として、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において≫)行動し給い、この行動の中でご自身を啓示し給う神についてである」。「この方の光の中で、決してそれと違った仕方ではなく、今や地上でも光が見られるのである(詩篇三六・一〇)。その担い手として、いまや天と地とその中にあるすべてのものが呼び出され、名指されている」のは、「全き神的な力、知恵、いつくしみ、義である」。すなわち、神の啓示とは独立した形での、「直接じかの伝達」が可能となるような理解は「ゆるされ」てはいないのである。言い換えれば、神のその「神性」をではなく、その「存在の仕方」(業と行為)を通して(媒介して)伝達を理解するように語られているのである、まさにイエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」(その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、その存在の本質である内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。すなわち、聖書的啓示証言における神は、「宇宙の中での人間によって独立的に認識された神としてご自身を知らせ給うというように、語られて」はいないのである。人は、「短い詩篇一一七篇」と同じように「詩篇一四七篇」における「模範的」な「宇宙の中での人間についての証言は、独立的に為されておらず、むしろイスラエルの民の中で、またイスラエルの民の人々の間で為された神の語りと行動(≪啓示者・言葉の語り手・創造者、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)についての証言に徹頭徹尾つけ合わされ、従属させられた仕方で為されているということ」を、「確かめることができる」。「詩篇九〇篇」は、「一三-一七節」によって、「人間の生命のはかなさについての抽象的な考察と取り組まなければならないかのような推測から守られている」。「また、同じように詩篇一三九篇は、顕著な仕方で挿入された一九-二二」によって、「神の全知と全能について抽象的ニ述べられていると受け取ろうとする理解から守られている」。「いずれにしても、(中略)形式的に注釈的にみても、詩篇の中にある(≪天然自然の≫)宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間の独立した証言」を、「聖書の主要な言明」として提示することはできないのである。

 前述した「形式的な状況は、全く特別な内容的秩序を指し示している」。天然自然の「宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間についてなされた、あるいは宇宙の中での人間の口にのぼらせられた言明が、イスラエルの中での、またイエス・キリストの中での、神の啓示についての言明から分けられないように、聖書的証言は……内容的にみても」、啓示証言から「世界、自然、歴史」を、「何かただ遠い、色あせた同一の秩序の中で、相対して立つ……といった具合に、分けることはできない」のである。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、イエス・キリストが、われわれ人間に対して、聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」、それ故にわれわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」、それ故にまたわれわれは、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」、と述べている。「聖書の内容はただひとつの証言を形造っているのであって、それは厳格に、排他的にただひたすら」、「イスラエルとの契約の中で、またこの契約を基礎づけているイスラエルのメシヤの約束」、すなわち「神的な言葉の受肉(≪その神性の受肉ではなく言葉の受肉である、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事、存在的な必然性≫)とすべての肉に下る聖霊の注ぎの約束(≪その啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」、認識的な必然性≫)の成就の中で起こった神の恵みの契約についての証言として理解されなければならない」。このことと「別な方を指し示している聖書的証言の要素は存在しない」。「われわれは既に」、「<直接的>に」、「神ご自身」を、「神そのもの」を、「指し示しているような聖書的証言の要素は存在しないということをみた」。先にも述べたように、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない)は、「神の啓示の真理を支えている力である」が、「聖書的証言は、あくまで啓示(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体≫)の中での神を指し示しているのである、ただそのようにして、……ご自身の中で存在し給う神を指し示している」。このように、聖書的啓示証言は、「啓示を通り過ごした」(啓示を媒介することをしない、啓示に聞き教えられることをしない)ところで、「<直接的>に」、「神ご自身」を、「神そのもの」を指し示していないように、また「聖書的啓示証言は、……別の面において、啓示を通り過ごした」ところで、「宇宙の中での人間」における人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した神を指し示していない、換言すれば「宇宙の中での人間」の、神に対する「独立した」関係、すなわち「神の恵みの選び」よって規定されていない関係、それ故に「裁きの中で示される神の恵みによって規定されていない関係」における神を指し示していない。

 このような訳で、「われわれは、そこでどちらに向かって指し示されており、この指し示すことが何を意味しているかを理解するためには、そこでどこから指し示されており、どこを目標に指し示されているかを明らかにしなければならない」。聖書的証人たちは、あの「聖書的な傍系的線」を「どこから指し示」しているのか? それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「預言者および使徒たち」、「聖書的証人たちに、神の啓示についての証人としての、その唯一の委任の中で、その唯一の委任と共に与えられている全権と責任からである」。「いずれにしてもただ、それとしての啓示証人のひとつの唯一の全権と委任から……語られうるのである」、「また、あの聖書的な傍系的線の上で語られることが、語られうるのである」。「人は、……パウロが繰り返し、伝道者として、また彼の諸教会の指導者として、まさにイエス・キリストの使徒として自分に委任され、課せられたこと以外の何かを語ったり、語らなければならないことがないよう用心(≪総括的に言えば、自然神学の段階へと堕落しないよう用心≫)していたことを知っている」――「わたしはイエス・キリスト、しかも(≪その復活に包括された≫)十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した(Ⅰコリント二・二)」、それ故にこのパウロが、「コリントから、ローマの教会に宛てて、……(≪「宇宙の中での人間」における「特別な」≫)ほかの知識をもとにして」、手紙を「書き送ったということは」あり得ないことである。「ローマ人への手紙一-二章によれば、宇宙の中での人間について知っていたことを……ただ(≪その復活に包括された≫)十字架につけられたイエス・キリストから知っていた」、すなわちパウロは、存在の類比においてではなく、その復活に包括された十字架につけられたイエス・キリストから、生来人間は神の「恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを知っていた、また「神の選び」を「イエス・ キリストの復活」において認識し、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識した。また、「詩篇作者たち」も、「あの傍系的線の上で何を語ろうと、とにかく彼らは」、彼らが「知っている神」(啓示者・言葉の語り手・創造者としての、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における神)、すなわち「イスラエルの神、出エジプトと荒野を通り抜けた際の主、律法の与え主、ダビデの希望、その知恵、その力、そのいつくしみ、その義、起源的に、完結的に、全くこの神だけ」から、「彼らの知識を展開し、適用しつつ、語った」。

 次に、「聖書の証人たちは、あの傍系的線をどこを目標にして指し示している」のか? それは、天然自然の「宇宙の中の(≪自然の一部である≫)人間が持つことができる確信の可能性を指し示す」ことにあるのではなくて、「事実確かに」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間のところに来る」ところの、「(≪第二の形態の神の言葉である≫)聖書的証人たちの使信と、彼らの使信の彼岸においてある(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)神の啓示そのもの」である。「神の啓示が宇宙の中での人間に関わってくるということ、どのように関わってくるかということ」は、「必然的に彼らの使信のすべてを規定する、本来的な、支配的な内容であって、われわれが聖書的な『主要な線』と呼んだところのことである」。何故ならば、キリストにあっての神の啓示は、「人間の信仰あるいは不信仰の問いを全く度外視して理解されなければならない」ところの、神の側の真実としてある「支配的な」出来事だからである。したがって、「ここで例として、Ⅰコリント七・一四によれば異教徒の夫はそのキリスト信者の妻によって、異教徒の妻はそのキリスト信者の夫によって、子どもたちはそのキリスト信者の両親によって、『きよめられて』いるということが思い出されてよいであろう」。「啓示」は、「神の真理」であると共に、それ故に「必然的にまた宇宙の中での人間の真理」である。何故ならば、啓示は、存在的な必然性と認識的な必然性を前提条件とした存在的なラチオ性と認識的なラチオ性という総体的構造における啓示に固有な証明能力を持っているからである、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて人間が人間的に所有する人間の啓示認識・啓示信仰を与えることができる授与能力を持っているからである。したがって、聖書的証人たちは、「神の啓示を、それが現にあるところのものとして、すなわち人間に向かってみ力をもって働きかける(≪神の側の真実としてある、常に先行する神の側からする≫)神の介入として宣べ伝える」のである。したがってまた、「もしも彼らが人間に対して神の啓示を宣べ伝えるならば、彼らは人間自身を、啓示の出来事を通して客観的に既に変えられた人間として要求しなければならない」のである。このことを、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、次のように述べている――われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」、われわれがそうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、神性を本質とするその第二の存在の仕方であるイエス・キリストが「すでにその人をその中に(≪神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある、究極的包括的総体的永遠的な救済および平和の中に、その連続性の中に≫)置いてい給うことによってである」。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」、と。

 「この最後のことが出来事となって起こるならば、そこで聖書的な傍系的線が発生してくるのである」。このような訳で、聖書的証人たちは、天然自然の「宇宙の中での(≪自然の一部である≫)人間」に対して、「何を目標に……指し示しているのか」と言えば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のすべての成員(「宇宙の中での人間)が、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くことを「目標に……指し示している」のである。このように、「われわれは、……傍系的線」を、「主要な線」である起源的な第一の形態の神の言葉から、それ故に具体的には預言者および使徒たちのその最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」(聖書、第二の形態の神の言葉)から「堅くとって離さない」のである。「宇宙の中での人間は、聖書の中で語りかけられており、まさしく啓示から啓示そのものへと戻るようにと指示されているのである」。総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>から<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の<段階>へと戻るようにと指示されているのである。「われわれは……ここで特に、……詩篇三六・一〇が思い出されなければならない」――すなわち、「われわれはあなたの光によって光を見る」が思い出されなければならない」。したがって、この言葉に「先行」して「創造主の讃美の中で」為されている、「表向き最も純粋な『自然詩篇』」表現(人類史のアジア的段階における山川草木悉皆仏性あるいは成仏を説く天台本覚論的表現)――すなわち「大いなる深淵」・「天」・「大空」・「山々」・「人と獣」という「抽象的な存在と具体的な姿をもった存在の中での」、「天と地に向かって直接方向づけられ、それらによって養われた黙想と敬虔な思い」が、「天と地の秘密を、それと共に自分自身を、宣べ伝えるべく語ってくるということについては何も語り得ない」のである。したがってまた、「問題となってくる詩篇と詩篇の箇所の心理学的・時代的な形式」に規定された「そのような黙想と敬虔な思い」が、「部分的にはバビロニアとエジプトの神話の敬虔性に依拠しつつ、洗練されたものになっているということ」について、「看過されたり、否定されてはならない」のである。何故ならば、「詩篇の作者たち」は、「それについて語ろうとした時、イスラエルの(高い文化水準を保っていた)隣人たちがあらゆる種類の光の神々と悪魔について試作し語るのを聞いたことを利用した」からである。しかし、このことは、詩篇の作者の、「決定的な言明」、「主要な線」――すなわち「もろもろの天は神の栄光を現わし、地とその中にあるものとは神のものであり、神はそのすべてのみ業(≪父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の中で、大いなる方でいつくしみ深くいますというこの」「決定的な言明」、「主要な線」は、「その主辞に関しても、その賓辞に関しても」、「バビロニアあるいはエジプトの手本から」、また「宇宙というテキストから」、「そのまま読み出されたものではなく」て、逆に、「そのすべての形において、正しくも、そのような文学的手本の中に、あるいは宇宙そのものというテキストの中に」、「読み入れられたものであるということである」。

 「『われわれはあなたの光によって光を見る』。神が、イスラエルの中で語り、行動されるが故に、語り、行動されることによって、宇宙の中での人間は、客観的に別な人間」――すなわち「今やその現実存在の範囲全体の中で、まさにこの神の力と栄光を(≪神のその都度の自由な恵みの断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)認識することが許され、(≪それ故に≫)承認しなければならない人間となる」のである。「なぜと言って、よく注意せよ、人間がそこで(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神の知恵、力、いつくしみ、義として認識するすべてのことは、彼が先ず第一に(≪父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事において≫)イスラエルに対し働きかけ給うた神の語りと行動の中で認識した知識、力、いつくしみ、義の正確な映像以外の何ものでもないからである」。「まさしく」、「宇宙の中での人間は、聖書の中で語りかけられており」、具体的にはその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「啓示から啓示そのものへと戻るように指示されているのである」、「われわれはあなたの光によって光を見る」というように指示されているのである。