19.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

「神学の道」(6)
 われわれは、「これまで、アンセルムス的な知解スルintelligereことの前提、条件、性質に関し」、彼の「もろもろのテキスト全体の……関連性」において語ってきた。したがって、われわれは、彼の「もろもろのテキスト全体の……関連性の外で読まれた個々の箇所において」「彼を……誤解する」「余地を与える可能性に対して反対して語って」きた、換言すれば形而上学的にその一部分だけを抽象して固定化し、すなわちその一部分だけを拡大鏡にかけて全体化して「彼を……誤解する」「余地を与える可能性に対して反対して語って」きた。何故ならば、アンセルムスをその全体性において理解しようとしないならば、彼が「教義学的な合理主義を明確に否定している」ということを認識し自覚することはできないからである(『教会教義学 神の言葉』)。その「可能性は、また直接的にも反駁される」――すなわち、アンセルムスは、「ギリシャの人々を理性的ニ、〔……ト子トヨリ〕の洞察(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示の洞察≫)へと導くことを望んでいると明言し」、「……彼ラガ信ジテイナイコトヲ最モ確実ナ議論ヲ駆使シテ証明スルタメニ、ギリシャ教会ノ人々ノ信仰、ソシテ彼ラガ疑イモナク信ジマタ告白シテイルコトヲ利用」するという仕方でなすのである、と。また、「晩年の文書において、(中略)予定の教説について、自由な意志の教説について、その有効妥当性を前提しつつ、それら両方の教説の一致を示すことが大切である」(「ソコデ……神ノ余地ト……自由ガ同時ニ存在シテイルト仮定シタ上デ、コレラガ同時ニ存在スルコトハ不可能カドウカ検討シタイ」)という「『理性主義』(≪教義学的な合理主義≫)に反対する決定的な証明は、既に一度触れられたように、彼が書いたこれらの書物の中で、事実、なしてきたことから成り立っている」。「必然的ナラチオの起源」は、「アンセルムスのすべての探究において」、三位一体の唯一の啓示の類比の神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoを先験的ニ演繹する哲学者のところでは、……既知なものとして前提されている信仰箇条a、b、c、dを手段として、……タダラチオニヨッテノミ解かれる未知なxとして現れてくるCredoそのものの内部にある」。「他方、それは、探究している神学者の(≪生来的な自然的な≫)概念能力と判断能力に対して、どこででも決して、……もろもろの強固な点を措定するという機能は帰せられていない」。すなわち、「常にただ、一方において、ほかのところで措定された様々な点の間で選択をなすことが、他方において、矛盾律の上に立てられた論理の規則に従って、あのxを解くために必要な定義づけ、結論づけ、区別と結びつけ(彼にとって可能なことの枠の中で)なしてゆき、そのようにして(対象を支配するのではなく、対象によって支配されて)信仰の対象のまことの認識的なラチオ(≪聖霊とは同一ではないところの聖霊によって更新された理性≫)にまで、信仰の対象の存在のラチオ(≪それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性≫)を事実聞き分けることにまでくるという課題が帰せられている」。

 「ここで論難されうるものとして特に問題になってくる『神ハナゼ人間トナラレタカ』の中ででも、いや、まさにその書物の中でこそ、事情はそれと別様ではない」。「キリストの和解の死の合理性と必然性(≪存在的な必然性≫)の基礎にある決定的な諸前提」は、「人類についての神の計画が成り立っていること、神への服従へと人間が本質からして義務づけられていること、神に対しての人間の無限の負い目としての罪、罪を否定する神の否定の犯すべからざるものであること、人間が自分で自分を救済することができない無能さ、最後にとりわけ創造の教義の中で語られている神の自足性(≪自己還帰する対自的であって対他的な自存性としての自己自身の中での神の自由と神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの独立性としてのわれわれのための神の自由との全体性としてのそれ≫)と『栄誉』(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)である」。「それらが、a、b、c、d……である」、「それからして……キリスト論的なx」が、換言すればその外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「キリストの人格と業の理性性(≪合理性≫)と必然性(≪認識的な必然性を包括した存在的な必然性≫)を証明することが問題であるが故にこそ、(≪起源的な第一の形態の神の言葉である≫)キリストが、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書、(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての≫)信条(Credo)、キリスト教的経験の中で占めている場所は、今度は使われずに空けておかれ、そのところからして得られるはずであった議論は、この度はそのまま用いられずにすまされなければならないということ」が、「『理性的』であるとして、あるいは『必然的』であるとして示されるa、b、c、d……である」――「この問題に研究を意識的に集中させること」、「私タチノ問題ハ神ノ受肉……ダケデアル」は、「アンセルムスに対し、……少なくとも、通りすがりにまたCredoの」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>信仰告白および教義としてのCredoの、「とりわけ終末論的な神の国についての偉大な付論が属しているのであるが、そのような隣接した諸点の理性性(≪合理性≫)あるいは必然性(≪認識的な必然性を包括した存在的な必然性≫)を、同様な仕方で明らかにすることを妨げない。(中略)『私タチノ提案シタ一問題ノ解決ヲ通シテ、新約オヨビ旧約聖書ニ含マレテイルコトハスベテ立証サレタト理解します』」。バルトは、「ベックにおける、アンセルムスの副修道院長あるいは修道院長としての活動の初期」に、彼が、「危険な主題である……神の本質について取り扱っている」「『モノロギオン』……『プロスロギオン』の第二部」において「先天主義的神学をなしてきたかどうかという問い」に対しては、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(業・働き・行為)である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その内在的な存在の本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるから、「どうしても否定したい」と述べている。何故ならば、「アンセルムスの後半の文書……特に最も明瞭にまさに『神ハナゼ人間トナラレタカ』を通して、明示された道」は、「先天主義的神学」とは「別の道へと導く」道だからである(「人は、彼の時代の実際の理性主義者たち(≪教義学的な合理主義者たち≫)に対する彼の戦術的な状況についてよく考えてみよ」)。

 ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在しているから、もしもそうでないならば、その神は、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものとしてのそれでしかないから、「『モノロギオン』においてこそ、信仰の対象の事実性の不把握性を尊重しない思弁のあの極めて明確な拒否」が、またⅠコリント13・8以下にあるように「すべての神認識の間接性のあの承認」が、「『プロスロギオン』におけるほど明瞭ではないのであるが、全体を基礎づける信仰の論証を指し示す指し示しが、われわれに出会う」のである。したがって、アンセルムスにおいては、先行する、認識の必然性――すなわち「啓示の主観的可能性」としての客観的なイエス・キリストの啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を包括した存在的な必然性――すなわち「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける「啓示ないし和解の出来事」と、後続する、認識的なラチオ性――すなわち聖霊とは同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性を包括した存在的なラチオ性――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とした第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、それからまたその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義、換言すれば第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源としたキリスト教に固有な類と歴史性との全体性において「教えるのであり、ただそこでだけ、実際の教えられること……が生起することができる」のである。このように、自然神学者たちによって「トマス・アクィナスへの想起のゆえに誤解されて」「『宇宙論的神証明』として特徴が表示された『モノロギオン』一-六章の展開は理解されることを欲している」(「宇宙論的神証明」における「推論スルコト」、すなわち「コノヨウナタグイノ何カガ実在トシテ存在シテイルカドウカという問い」は、「問いとしては、それ自体、未解決なものであり続ける推論スルコト」である)。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――アウグスティヌスは、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠した「存在の類比」を通して、すなわち「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と述べていることに対して、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」、それは、ただ単なる人間の自己意識・理性・思惟によって対象化された人間自身の「内在的に理解された宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論でしかない」、またそのような三位一体論は、人間的理性や人間的欲求やが対象化した「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」に過ぎないものである。

 アンセルムスが、「三位一体論を説明するために、既に知られたアウグスティヌス的な三位一体ノ痕跡、想起、知解、愛を、人間の中での神の像として、それ故に最も身近な、最も高貴な認識根拠として、引き合いに出す時、それは、われわれがそれについてどうみなそうと、彼にとっては、いずれにしても(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉としての≫)聖書的・(≪その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)教会的・教義的な前提を意味していたのであって」、「決して『自然』神学の法廷を……意味したのではなかった」、すなわち「一つの啓示神学と並んでの第二の啓示神学の法廷を意味したのではなかった」、換言すればそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会における「一つの啓示神学」「と並んでの第二の啓示神学(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を先行させた、あるいは人間学的な哲学原理・認識論・世界観等を先行させた「人間学の後追い知識」としての人間学的神学≫)の法廷を意味したのではなかった」。したがって、「『プロスロギオン』の第二部においては、アンセルムスの『理性主義』(≪合理主義≫)」は、すなわち「教義学的な合理主義を明確に否定している理性主義」は、「『モノロギオン』と共通に持っているものを度外視して、その間に見出された一ツノ論証(ソレヨリ偉大ナルモノガ何モ考エラレ得ナイモノ)の適用によって到達されたより厳格な体系の中で尋ね求められなければならないであろう」。この「論証こそが、再び創造と切り離せないのであり、また神の独一無比性および自足性と結びつけられている」。「神の中でのあわれみと、痛みや不幸からの解放の間の関係」、神の本質の単一性と区別(神の本質の区別を包括した単一性)における「あわれみと義の関係についての考察」は、「<神ハナゼ人間トナラレタカ>の問いを既に答えられたものとして前提しており」、「神の隠れと不把握性についての詳述」は、「啓示の事実性……を思い出させる」、すなわちそれは、「どのような因果律的なあるいは目的論的な構造へと解消させることもできない」、「それ自体において理性的な、必然的な(啓示の)事実性を思い出させる」。「最後に、まさにこの書物のはじめに出て来る」「アウグスティヌスのそれとは違う」(下記の【注】を参照)「あれほど明瞭な『私ハ知解スルタメニ信ジマス』」という「顕著な崇拝形式」において、アンセルムスは、「徹頭徹尾、教えられつつ語る」のである。何故ならば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」からである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれは、具体的には聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味での「隣人愛」ではなくて、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すのである。したがってまた、もしもアンセルムスが、「教えられつつ語る代わりに、何らかの仕方で創造的に思惟しつつ、神について語ろうとしたのであれば(≪自然神学の段階で停滞したまま、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された神および啓示を語ろうとしたのであれば≫)、彼は何と奇妙な仕方で自分自身と矛盾していなければならなかったことであろう」。われわれは、あの時代や現実に強いらた「彼の避けることのできない哲学的な系譜(アウグスティヌス、プロティノス、プラトン)への指し示しが彼のやり方の技巧を理解するのに興味深いものであるとしても、彼の『証明』の内容に関しては、その内容を全線にわたって神学的に理解することに反対するただ一つの的確な根拠もないのであり、むしろそのことに味方する多くの根拠がある」のである。したがって、「われわれがここでまだ足を踏み入れていない『プロスロギオン』二-四章における神の証明は、もしもそれに関して事情が上に述べたのと別様であるとしたら、この線全体に対して全くの特例を意味することになるであろう」。
 
【注】アンセルムスの場合は、アウグスティヌスとは違って、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、生来的な自然的な「われわれの理性に内在している神概念の再想起において」、「創造しつつ神について語ろうとはしなかった」。したがって、アンセルムスの「存在的なラチオ性」(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)に包括された「認識的なラチオ性」(聖霊と同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性性)は、「啓示、恵み、信仰」を前提条件としていた、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事(存在的な必然性)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(認識的な必然性)を前提条件としていた。