7の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(137-154頁)(その2-1)

「一 神の用意」(その7-1)
 ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動・活動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「神の啓示は、神の適意であるということ……でもって、神の啓示は、(われわれがわれわれの神認識と呼ぶところの)思想の運動の空虚さを打破する」のである。何故ならば、それは、その神認識(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)がおエス・キリストにおける啓示の「真理を通して起こるが故に、まことであるという側面を与える」からである。それは、「神の適意……を通してわれわれが(≪啓示の≫)真理を認識するところの(≪啓示の≫)真理である」からである。言い換えれば、それは、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化されたに過ぎない「存在者レベルでの神」認識・神信仰(偶像崇拝)としての「われわれの神認識」を、その「自己欺瞞」を打破するのである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる授与能力を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を持っているからである。したがって、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学、その行動を含めたその思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」。したがって、それは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」のである。

 このような訳で、われわれの神認識は、人間の側からすれば「確実さと不確実さの弁証法」のただ中にあるそれであるが、その弁証法は、神の側の真実としてある神の側からする「神の適意」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、神の神的介入による「確実さ」によって「凌駕され、支配され」ているそれである。したがって、われわれが、「神の存在と本質全体が神の適意〔み心に適うこと〕の中で総括され、秩序づけられているというように理解することは、ただ単に正しいだけでなく」、「必然的なこと」なのである。このような仕方で、「神はわれわれに対して身を向け給うたのである」。したがって、われわれが、その「神的な適意の恵みとあわれみの傍らを通り過ぎるならば」、われわれの「神の認識可能性」と「神認識の確実性」を「確かめる……道」を断ち切られることになり、「確かめるいかなる道」をも持つことができなくなるのである。したがってまた、その「確かめる……道」は、次のような道である――それは、第三の形態の神の言葉である全く人間的な教会に属する者として、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すということを意味する(ここで「隣人愛」は、『福音と律法』によれば、通俗的な意味でのそれではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)。何故ならば、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であるからである。

 さて、1987年の「プロテスタント、カトリック共同翻訳の聖書」――すなわち「新共同訳聖書」は、その「序文」で「一九七八年に出版した、『新約聖書 共同訳』に対し、全く新しい翻訳といえるほどに大幅改訂の加えられたものになった」「プロテスタント、カトリック両教会の共同事業」と称賛して書かれているが、その「新」の意味は、外在的なただ単なる「共同事業」と「翻訳」面についてだけ言われており、それ故に両者共に共通に温存させている内在的な自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の問題の止揚という究極的な課題については、また党派主義、教派主義の問題を止揚するという究極的な課題については全く明確に提起されていないものなのである。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者として、両者に現存している自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の問題を明確に提起することによって、その段階を包括し止揚しそこから超出していくという究極的な課題が、すなわち<非>自然神学あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階へと移行して行くという究極的な課題が欠けているのである。言い換えれば、両者共に、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある主格的属格として理解されるべきローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、それ故に「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものを、人間の側からする神との「混淆」・「混合」論、神との「共働」・「協働」論、「神人協力説」、人間学の後追い知識としての人間学的神学を温存させるために、総括的に言えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を温存させるために、旧態依然として目的格的属格(「イエス・キリストを信じる信仰」)として理解しているのである。したがって、両者の場合、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかないなくなってしまうことは、必然なのである。もしも先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実としてある、神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」ということが理解されないならば、すなわちもしも先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということが理解されないならば、「もしもわれわれの神認識の基礎にある神の用意が神的適意の秘義として理解されないならば、もしもわれわれがただの一瞬間たりとも、神の真理がわれわれに啓示されることによって、神があのように尊厳に満ちた仕方でわれわれに働きかけてくださったことに対して当然神に捧げるべき感謝を捧げないとするならば」、「その時、神の用意は全く理解されないことになる」のである。

 われわれは、「『主』および(≪「神ご自身においてのみ実在であり真理である」≫)『主権』についてのわれわれの表象を、ただ無限に、絶対的なものへと延長しさえすれば認識可能となる」ような、すなわちそういう仕方で「主としての神の本質と存在がわれわれにとって認識可能となるような類比を持ってはいない」のである。もしもそうでないならば、その「『主』および『主権』」は、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかない水準のものなのである。すなわち、「まさに決定的な点で役に立たない神の類比、換言すれば、そこで名目上神に類比的なものに内容と存続を与えるために神ご自身を必要としているような類比は、明らかに神の類比として有効な力をもって働くことはできない」。「われわれが主としての神とその(≪「神ご自身においてのみ実在であり真理である」≫)主権を知るならば、その時、それは、われわれがそのほかにもある主および主権について知っていることに基づいてではなく」、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に基づいてではなく、「全くただ神の啓示に基づいてのことである」、「神的恵みとあわれみの適意を通して、すなわち神の自由な主導権に基づくと同時に神の秘義の中においてである」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰(神認識)においてである。

 さて、バルトは、『カール・バルト教会教義学 和解論Ⅰ/1 和解論の対象と問題』で、次のように述べている――「神の霊と人間の精神の全面的な区別が強調されなければならない」、と(このことは、『ローマ書』における「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>と共に、『教義学要綱』や『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』でも強調されている)。また、「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰の授与を、「人間の業としてではなく、まさに神の霊の行為としてとらえることによって、聖霊を、神の似姿の『唯一の現実』として、人間の『恩寵に敵対する態度』に立ち向かって戦うものとして、実存を超えたところにある神の子としての身分の創造者として理解しなければならない」、と。「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「神の主権の決定的な特徴は、言うまでもなく、神が万物の上にいます主で、とりわけわれわれ自身の上にいます主であり給い、しかもわれわれのからだとわれわれの精神の主、生と死を支配する方で現にあり給うということである」。したがって、バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、第一に、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」ところの、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠したアウグスティヌスの「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠した、「存在の類比」に依拠した思惟と語りに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡」として理解することはできない、すなわちそれは、ただ単なる人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された人間自身の自己認識・自己理解・自己規定、すなわち人間自身の「内在的に理解された宇宙の諸規定・人間的な現実存在の諸規定」、「単なる宇宙論や人間論でしかない」、そのような三位一体論は、人間自身に基づく「人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話」でしかないと根本的包括的な原理的な批判を加えた、第二に、イエス・キリストにおける「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼」し依拠した「神学をただ啓示の中にのみ基礎づけ」るために、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教およびその一つの補助的機能としての神学は、「罪深い曲がった人間」の「究極的な限界性」を自覚した人間の言語を前提として、「三位一体を、世界から説明しようと欲しないで」、「逆に、世界を三位一体から説明せんと欲する」と述べた、第三に、アウグスティヌスは、自然神学の段階における言葉で、「被造物ノ中デノ三位一体ノ跡」というように思惟し語ったが、バルトは、その自然神学の段階を根本的包括的に原理的に止揚し克服したところの、<非>自然神学の段階における言葉で、「三位一体ノ中デノ被造物ノ跡」というように思惟し語った。

7の1『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十六節 神の認識可能性」「一 神の用意」(137-154頁)(その2-2)

 前述したように、「われわれは、創造者としての神の本質と存在について認識可能となるようなわれわれ人間の側からするいかなる類比(≪「存在の類比」≫)も持っていない」。「創造」とは、われわれの存在が、「無および非存在と対置されていることを意味している」。何故ならば、「創造」とは「無カラノ創造のこと」だからである。したがって、「創造者とは、無カラノ創造者のことである」。したがってまた、創造者とは、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(すなわち完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」――「ただ全くひとりで存在し給う方のことを意味している」(何故ならば、自己還帰する対自的であって対他的な、すなわち完全に自由な三位一体の神の起源としての父は、子として「自分を自分から区別するし自己啓示する神として自分自身が根源」であり、それ故にその区別された子は「父が根源」であり、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は「父と子が根源」であるから)、それから「また、すべてのそのほかの存在するものをその方の意志と言葉の業(外在的なその「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)として受け取ることを意味している」。言い換えれば、この神は「子の中で、創造主として、われわれの父として自己啓示する」から、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、「起源的な第一の形態の神の言葉」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストとして受け取ることを意味している――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである』(ガラ テヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、 現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」(その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)において、その存在の本質である内在的な「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。したがって、「もしもわれわれが創造者なる神について知っているとするならば」、イエス・キリストにおける「神の啓示を通して、われわれに与えられることに基づいてのことである」、「恵みとあわれみを通して、神の自由な主導権に基づき、神の秘義の中でのことである」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的な可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)においてことである。したがってまた、「われわれは、(≪前述したような仕方における≫)われわれの神認識と直面して、ただ神が(≪徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で、ご自身の中での神として≫)神でいまし、(≪それからまた、前述したような仕方において、われわれのための神として、≫)われわれに対し神として隠れたままであり給わないということに対して」、「感謝することができるだけである」。イエス・キリストは、「まさに顕サレタ神こそが隠サレタ神である」。

 また、創造者としての神の本質と存在の場合と同じように、「われわれは、和解者としての神の本質と存在について認識可能となるようなわれわれ人間の側からするいかなる類比(≪「存在の類比」≫)も持っていない」。したがって、「われわれが和解者なる神を知っているならば」、「神がご自身を和解者として啓示し給い、……そのほかの和解(≪結局は最後的には人間の支配行為に過ぎないところの、人間的理性や人間的欲求やが恣意的独断的に対象化し客体化した「救いの計画と救いの方法」、平和の計画と平和の方法による和解≫)を徹底的に問題化しつつご自身を啓示し給い」、国家的、法的、政治的、道徳的、倫理的に「世が持つことができると考えているが実際は持つことができない」「救済」・「平和を裁きつつ」、そのような「救済」・「平和」を「終わ」らせ、「実際の和解の初めとして」、「神がご自身を和解者として啓示し給うたということに基づいてのことである」、「神の啓示を通して、われわれに与えられていることに基づいてのことである」。すなわち、「われわれが和解者としての神を知る時」、創造主としての神を知る時と同じように、「そのことは、神の適意を通して、……ただ神ご自身の主導権に基づき、神の秘義の中でだけ」、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で起こるのである。その時、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神としての、ご自身の中での神としての「神がこの神であり給い、そのようにして(≪それからまた、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において≫)われわれの間での、われわれのための、神であり給うことに対する感謝がわれわれにとって残された唯一のこと」である。

 最後に、創造者としての、和解者としての、神の本質と存在の場合と同じように、「われわれは、救済者としての神の本質と存在について認識可能となるようなわれわれ人間の側からするいかなる類比(≪「存在の類比」≫)も持っていない」。必然的に「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」の領域において、モルトマンは自由を原理とする西欧近代を世界史の頂点とするヘーゲルの歴史哲学に依拠して、神学的な三段階的進歩史観を空想した。また、このモルトマンに傾倒し、メルロ・ポンティの身体性の概念に依拠した喜田川信は、「神の自己犠牲の愛の霊が十字架に基づけられた教会によって担われ、それによって歴史が進展し、この世が変革され、神の国を目指す」という神学的な進歩史観を空想した(『歴史を導く神――バルトとモルトマン』)。このようなモルトマンに評価されることを評価の基準とした牧師もいた。これら神学的な進歩史観は、「救済と何の関わりも持って」はいない、「また救済者としての神と何の関わりも持って」いないのである。「われわれは、われわれの前にある時間の空虚な形式としての、未来を知っている……すべての生成の基礎にあると共にそれに先行する完成という理念を知っている。しかし、それらすべては、救済と何の関わりを持っているであろうか。また救済者としての神と何の関わりを持っているであろうか」。「ちょうど創造者なる神がわれわれ(≪人間≫)の世界像の始まりのところにあるXでないように、神は救済者としてわれわれ(≪人間≫)の世界像の終わりのところにあるXではない」。徹頭徹尾、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間」は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」から、また生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)』によっては、全く信じることができない」から、神の言葉は、隠蔽と顕現において、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、「われわれのところに来る」のである。したがって、「神の言葉が人間によって信じられる……出来事」、「信仰の出来事」、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、徹頭徹尾、「人間自身の業」では全くなくて、「神の言葉自身の業」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ初めて終末論的限界の下で起こるのである、すなわち客観的な「言葉を与える主は、同時に」、人間が人間的に所有する人間の主観的な「信仰を与える主」である。したがって、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言の中で証しされている教会の宣教の課題であるイエス・キリストにおける啓示、その死と復活の出来事、インマヌエルの出来事、純粋な教えとしてのイエス・キリストの福音の宣べ伝えを目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的な教義学は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のもの」であっても、教義学としては「非学問的」なのである。

 聖書的啓示証言における「救済」とは、「世界が何らかの方向に向かって発展して行くとか世界の中でわれわれが何らかの方向に向かって進化して行くことを意味しない」。「救済」とは、神の側の真実としてのみある復活された「イエス・キリストが、再び来たり給う」ということである、再臨し給うということである、終末、「完成」ということである。「救済」とは、神の側の真実としてのみある「肉の甦えりのことであり、永遠の死からの救いとしての永遠の生命を意味する」。したがって、それは、その最初から、われわれ人間における「可能な希望」ではあり得ない。バルトは、バーゼルの刑務所でイエス・キリストの復活の出来事について、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形における弟子への顕現の出来事」について説教をして、復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に即して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」、「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである、それ故に「当時でさえも、ただ認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができただけである」。このことは、「説明ではなく」、「告白」・「証し」・「宣べ伝え」である(『主を見た時 ヨハネ福音書二〇・一九-二〇』)と述べ、福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのため」にあるから、われわれは身体的存在と理性的存在という全体的人間を考えなければならない、終末、「完成」(復活されたキリストの再臨)は全的人間のそれであるから、身体的復活であると述べた(『バルトとの対話』)。このような訳で、「もしも本当の希望があるならば、内容と確かな存続を持つ希望があるならば、その時この未来は(≪徹頭徹尾神の側の真実としてのみある≫)救済者なる神の未来である」。「もしもわれわれが実際に救済者なる神を知るようになるとするならば」、われわれ人間にとって「可能な希望」や「そのほかの救済について知っていること」から類比的に知ることはできないのであって、あくまでも「救済者なる神の未来の啓示を通して、したがってそのことをよしとされる神の適意を通して、神の自由な主導権に基づき、神の秘義の中で」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰を通して知ることができるのである。したがって、われわれは、ただ「感謝する可能性のほかには……ないような仕方で、そのことは起こる」のである。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉』)。