18-2.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」(その2-1)

「神学の道」(5)
 先ず以て、アンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定している」という認識と自覚が必要である(『教会教義学 神の言葉』)。
 さて、アンセルムスにおいて、「知解へのを表示している」「知解する人間的なラチオ」(奪格的側面、探究の手段)と「知解そのものを表示している」「信仰の対象そのものに固有なラチオ」(対格的側面、探究の目標)との構造における「信仰の対象に固有な必然性の概念」は、「非存在(Nicht-Sein)あるいは別な仕方での存在(anders Sein)の不可能性の性質」のことであり、それは「ラチオ(≪「根拠」、「原因」、「理由」、「理性」≫)概念」においては、「法則にかなっていることという意味」を持っている。アンセルムスは、「客観的な信仰の対象に固有なラチオについて語った時」、「ラチオと必然性」を「ドノヨウニアノ死ガ合理的(≪、論理的、理性的≫)マタ必然的(≪法則的≫)デアルト証明出来ルカ」というように「結びつけた」し、「主観的な弁証法的に得られたあるいは得られるべきラチオ(≪ラチオの奪格的側面、探究の手段としての、生来的な自然的な理性による信仰の認識としての神認識、啓示認識の<不可能性>と、聖霊によって更新された理性による信仰の認識としての神認識、啓示認識の<可能性>≫)について語った時も」、「真理ノ理性的(≪合理的、論理的≫)根拠、スナワチ必然性(≪法則性≫)」というように「ラチオを必然性と等置し」、「理性的必然性(≪論理的合理的法則性≫)ニヨッテ」、「……理性モ、……必然性ヲ伴ウ」というように「ラチオを必然性を通して」、「推理ノ必然性」、「理性的必然性」というように「必然性をラチオを通して解釈した」。

 前述した、「信仰の対象に固有な必然性」は、「信仰の対象に固有な根拠」である。また、「信仰の対象に固有な根拠」は、その「信仰の対象の存在と存在の法則にかなっていること」――すなわち「信仰の対象のラチオ性(≪理性性、合理性、論理性≫)である」。したがって、「信仰の対象」、「信仰の対象の存在と本質の真理」、「啓示の真理」――それは、「ワレワレノラチオノ(≪われわれの生来的な自然的な主観的な認識的なラチオの≫)真理(≪例えば、一つの命題の真理≫)それ自身の中に基づいてはおらず」、徹頭徹尾、次の中に基づいている。すなわち、それは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方――すなわち言葉の語り手であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)を通して、信仰の「対象が創造され、その対象に対してそれが造られると共に」(神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が起こると共に)、「神によって語られた言葉としてのそれ自身に固有な真理との類似性を賦与する神的な言葉」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書、すなわち預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、「啓示ないし和解」の「概念の実在」、それと共にその聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義における神的な言葉、「厳格に理解された(≪啓示の≫)真理ノラチオの中に基づいている存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の中に基づいている。もしもそうでないならば、それは、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかないそれであるだろう。

 「信仰の対象に固有な根拠」である、「それが存在しないでいること(Nicht-Sein)あるいは別な仕方で存在すること(anders Sein)の不可能性」としてある、また「信仰の対象の存在と存在の法則にかなっていること」としてある「信仰の対象に固有な必然性」は、「信仰の対象の固有な理性性」(論理性、合理性)と共存する。

 第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として啓示の「真理を(≪啓示の≫)真理として理解する」「信仰が『要求する』」「信仰の対象の知解に固有な必然性」は、「信仰の対象」を、「非存在(Nicht-Sein)」あるいは「別な仕方での存在(anders Sein)するものとして考えることができない(思惟された)不可能性のこと」であり、「信仰の対象の知解の根拠」である。したがって、われわれは、具体的には「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としなければならない。

 客観的な「存在的な必然性」は、客観的な「存在的なラチオ性」と共存する。言い換えれば、『神ハナゼ人間トナラレタカ』において、客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての「キリストが人間となることと和解の死に対して帰せられている」ところの客観的な「存在的な必然性」は、客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち「最後のものではなく」、「最高ノ真理に照らしてはかられたまことのラチオ性でしかない」のであるが、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするキリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)と共存する。

 先行する客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての「存在的な必然性」は、その啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、その啓示の出来事の主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができる授与能力という主観的な「認識的な必然性」を持っている。先行する客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示としての「存在的な必然性」は、主観的な「認識的な必然性」に先行する。

 主観的な「信仰の対象の知解に固有な理性」(聖霊によって更新された理性)は、「信仰の対象そのものに固有な理性性(≪論理性、合理性≫)の承認から成り立っている」。

 客観的な「存在的なラチオ性」は、主観的な「認識的なラチオ性に先行する」、換言すれば客観的な「存在的なラチオ性」は、「信仰の対象の法則にかなった存在と存在」を「知覚する」・「聞き分ける能力」(聖霊によって更新された理性)である主観的な「認識的なラチオ性に先行する」。

 「信仰の対象の知解に固有な根拠」は、「信仰の対象の知解に固有な理性」(生来的な自然的な理性ではないところの、「啓示と信仰の出来事」に関わる神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による聖霊によって更新された理性)と共存する。何故ならば、人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間であれ、生来的な自然的な理性によっては信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を持つことは不可能だからである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感情力、悟性力、意志力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。もしもそうでないならば、それは、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかないそれであるだろう。

 啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で啓示認識・啓示信仰を与えることができる授与能力としての主観的な「認識的な必然性」は、信仰の対象の知解に固有な聖霊によって更新された理性としての「認識的なラチオ性と共存する」。したがって、信仰の対象の知解に固有な聖霊によって更新された理性としての「認識的なラチオ性」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関においてイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指すのである。

18-2.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」(その2-2)

 前述したことに基づいて、「われわれは総括する」。
(1)「ラチオ概念に並行的な必然性の概念」は、「『理性的な』知解が信仰の対象のあとに従い、その逆ではないということ」を結果として生じさせる。この時、「信仰の対象とその知解」は、「最後的には、(≪先行する啓示の≫)真理に、換言すれば(≪先行する≫)神に、すなわち(≪先行する≫)神の意志のあとに従うのである(≪先行する神の意志に後続するのである≫)」。

(2)しかし、その「必然性の概念」は、「『理性的な』知解においては」、探究の目標を説明する。「信仰の対象の法則にかなった存在と存在」を「知覚する」・「聞き分ける能力」(聖霊によって更新された理性)である主観的な「認識的なラチオ性」によって、「法則にかなう存在と存在を聞き分けることができる本質にとって聞きわけ得るものである」「信仰の根拠」を――すなわち「信仰の対象が聞きわけ得るものである」「信仰の対象の理性性」を「認識的に知解しようとする時」、「彼の目標」は、「非存在あるいは別様な存在の不可能性」、「法則にかなっていること」という「信仰の対象の必然性ヲ、信仰の対象の根拠を、……考えることである」。この「信仰の対象が根拠をもっているということ」は、「啓示の中で与えられており、信仰の中で確かなことである」。アンセルムスは、「初めから、存在可能なものを問わず」、初めから「存在しないでいることができないものとして」の「存在するもの」を「問う」、「考えようとする」。

 「信じられた基礎づけに対しては、認識された基礎づけが対応すべきであり、存在的な必然性に対しては認識的な必然性が対応すべきである」。客観的な「存在的な必然性と存在的なラチオ性が共存することの力によって」、「主観的な認識的なラチオ性が存在する」のであるが、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての「存在的な必然性」に対しては、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えることができる啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力としての「認識的な必然性が対応すべきである」。アンセルムスは、「認識的な必然性への道」を、信仰の中に基礎づけられた信頼(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に対する信頼≫)……の中で見出」している。「この信仰の対象の理性性と必然性を通るまわり道を通って、認識的な必然性を目指す認識的な理性性に、真理そのものの絶対主権性の留保の下で、知解スルintelligereことのアンセルムス的なこころみが妥当する」。

 われわれは、「認識的なラチオ性」(理性性、論理性、合理性)についてのアンセルムスの「問題提起の仕方全体」から、次のことを学ばなければならないのである――すなわち、アンセルムスが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義である「Credoの……それら一つ一つの命題をすべてのあるいはすぐ次にある自余の命題と関連させ、その命題をそれらの命題と比較し、結び合せ、それらの命題を通して明らかにさせるという仕方で……思索すること」、「換言すれば、その意味内容を探究すること、それらすべてのことを」、「信仰の対象の隠された法則を後から考えつつ、自分自身で考え、その法則をまさにそのことでもって提示し、そのようにして信じられたことをまた知解しようとする意図をもってなす」という認識方法と概念構成を採用していたことを学ばなければならないのである。この時、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、主観的な「認識的なラチオは、(≪客観的な≫)存在的なラチオの後に従う(≪「足跡を追う」≫)ことによって、存在的なラチオの発見となって行くのである」。言い換えれば、そのような仕方で深化させ豊富化させたキリスト教に固有な教義学的な成果を、キリスト教に固有な類と歴史性に時間累積させて行くのである。この時、「Credoの自余の諸命題」は、その上で、主観的な「認識的なラチオに対して(≪客観的な≫)存在的なラチオが先行し、……存在的なラチオを発見するために」、主観的な「認識的なラチオが(≪客観的な≫)存在的なラチオに従わなければならない道を表示する」のである。もしもそうでないならば、それは、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に揶揄・批判したフォイエルバッハやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものでしかないそれであるだろう。アンセルムスは、「知解ヲ求メル者として」、「無でもって、換言すれば自律的な(≪生来的な自然的な≫)人間的理性の諸法則……人間に共通の経験の諸事実でもってことをはじめ」、それ故に「知解ヲ見出ス者として、別にどういう支えもなし手放しで、換言すればある種の一般的な『思惟必然性』を用いて(パロの魔術師たちに比較し得るような仕方で)Credoの一種の影法師を……造り出し」たのではないのである。

 このことを、バルトは、『教会教義学 神の言葉』および『啓示・教会・神学』で、次のように述べている――「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている…… 時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果は、根本的には……真理が来るということのしるしである」(恣意的独断的なオリジナルな思想というものはあるかもしれないが、終末論的限界の下での途上性にある第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学には、徹頭徹尾、人間的なオリジナル性はあり得ないのである。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』および『カール・マルクス』ならびに『思想の基準をめぐって』によれば、次のように書かれている――(ア)「(中略)『もともとオリジナルな文人なぞは、在りはしないのだ、真にこの名に値する人々は世に知られていないばかりでなく、知ろうとしても知り得ない。しかし、わしはオリジナルな文人だぞ! という顔をする人間はある』(ヴァレリー『文学論』堀口大学訳)」、(イ)「思想は物質ではなく観念であるということを」、マルクスの「敵たちは理解しなかった……。観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを(≪否定的に媒介するという仕方で、すなわちその否定的側面と肯定的側面とを明確に提起して、そうしてもしもその観念に肯定的側面があるとするならば、その肯定的的側面だけををわがものとするという仕方で≫)包括し、止揚することによってしか、……亡びないからである」(下記の【注】を参照)、(ウ)「対立する双方に真理があるというような俗説(≪党派主義、党派的多元主義≫)が、世界史的に流布され、流通している中で、自らの立場において、両者を包括し止揚しな ければならないということが思想的な問題である」、と。このことをよく認識し自覚していた、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会に属している全く人間的なバルトは、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において『教義そのもの』を尋ね求める」という仕方で、深化させ豊富化させたキリスト教に固有な教義学的な成果を、キリスト教に固有な類と歴史性に時間累積させたのである。また、そういう仕方で、バルトは、現実と時代に強いられて、その信仰・神学・教会の宣教に、その個性と個の現存性(個体史、自己史)を、時代性を刻んだのである。


【注】
(ア)吉本隆明は、『思想の基準をめぐって』および『行動の内部構造』で、生理学を否定的に媒介するという仕方で、「人間の固有性」について、「根源的にそして単純に答えられるべきだ」として、第一に、「脳髄が脳髄について考える個体の内部過程」と、第二に、「生理過程から、対象の形や色や全体像が構成され、<この対象は茶碗だ>とか<この対象は森だ>とか了解される個体の知覚作用」を例にとって、次のように述べている――第一の認識が成立するためには、「生理(自然)過程 の信号、反応、刺激、伝播という自体的な識知」、すなわち「生理過程の<変容>」と、「脳髄が脳髄を生理過程の外部から認識する対象的識知の過程」が必要である。第二の認識が成立するためにも、「対象物から眼に到達する光作用に対して、生理過程として網膜の背後にある色彩、明暗、形態を弁別できる諸神経の刺激の継続と強弱」、すなわち 「刺激の質量の度合という自体的な識知」、すなわち「生理過程の<変容>」と同時に、そうした「対象物からうけとる神経刺激という生理過程の外部に出て、対象物を全体的に構成し了解する対象的認識の過程」が必要である。この第一と第二における後者の対象的認識の過程は、生理(自然)過程にとっては「絶対的な自己矛盾」であるから、人間に固有な「心的領域あるいは観念という概念を疎外する以外に、そのような自己矛盾を包括し止揚することはできない」。したがって、ここで、疎外とは疎外の止揚である。したがってまた、「生理学が<観念>という概念と命名を拒否しても、<観念>という言葉でいいあらわされるものと、おなじ実体を想定せざるを得ない」。「人間の心的な過程が存在するためには、身体の存在は絶対的条件である。それにもかかわらず、人間の心的な過程の内容は必ずしも身体の存在の反映ではない」とは、このことである。  この思惟と語りが、客観的な正当性と妥当性を持つ時、そうしていったん疎外され生み出された観念は、たとえその観念が多数派のそれではないとしても、時代を超えて生き時間累積されていくことになる。

(イ)また、吉本は、『個体・家族・共同性としての人間』および『メルロオ=ポンティの哲学について』で、次のように述べている――「わたしの身体」は、「知覚作用の座」である。また、その身体は、眼あるいは「人間の歴史の<つみかさね>」、知識、自己体験によって、外部から客観的に観察することができるし、「自分が自分の身体をどう思っているかという意味で、内からも直接主観的に観察することができるという二重の特異性を持つ自然物」である。「メルロ=ポンティ」では「対象的に関係づけられて存在するのが個体である」としているけれども、それは「個体性の哲学」にとって本質的な誤謬であって、「個体は個体として自己に関係づけられるから、はじめて対象的に関係づけられる」という点に、個体性の哲学の本質がある。例えば、個体の知覚作用に基づいて、「自体的な識知」=「生理過程の<変容>」(空間化)と 「対象的識知」によって<この対象は茶碗だ>とか<この対象は森だ>とかと了解(時間化)されるのであるが、それに伴う「歓びや悲しみや選択をともなう感情作用」は、その内在化された対象の空間化、すなわち「<内観>的作用」に属 している。したがって、「感情作用は<知覚>そのものに伴うとしても<知覚>とはかかわりないもの」なのである。すなわち、対象了解された対象(内在化された対象)を抽象(時間化)する時には概念構成(了解の抽象化度、時間化度)の問題として現われるのであるが、感情作用は対象了解された対象を再び空間化する過程において現われる。また、「人間個体を酵母のようにふくらませて、共に議論し共に生きている人々によって構成された人間空間のなかにおきたい」から、「メルロ=ポンティの身体性」の概念に興味関心を示した神学者が、喜田川信である。何故かと言えば、その身体性は、「肉体のみならず、社会、経済、政治次元をも含む概念」としてもあるからである。しかし、彼の場合、「メルロ=ポンティ」がそうであるように、個体の身心相関は、均質な行動空間に還元されているのであるが、人間の行動空間は均質であるわけではないのである。すなわち、その行動空間には、個体が個体として存在する行動の場、個体が性・夫婦・家族として存在する行動の場(他の個体と関係づけられて存在する行動の場)、個体が観念の共同性(政治・法・制度)として存在する行動の場、という三つの位相があるのである。

(ウ)また、吉本は、『自立思想の形成について』、『人間にとって思想とはなにか』、『言葉の根源について』、『個体・家族・共同性としての人間』で、次のように述べている――「個体」とは、その内部構造・意識構造・「存在の根本的な構造における人間存在の一様式のこと」である。その個体の内部構造・意識構造は、自己関係づけと自己抽象づけとの構造としてある。「自己関係づけ」とは自己の身体がここ(空間)にあるという意識、自己を自己として関係づける意識である。すなわち、自己の自然的な生理的身体を内在的に関係づける意識、空間的な自己意識である。「自己抽象づけ」とは自分の身体が現(時間)にあるという意識であり、自己を自己として抽象する意識である。すなわち、自己の自然的な生理的身体を内在的に抽象化する意識、時間的な自己意識である。したがって、「対象的に関係づけられて存在するのが個体」とする現象学や実存主義は「本質直観」における知覚や感覚に依拠した自己了解や自然了解を、すなわち「自己対象了解……自然対象了解……を人間の存在本質の根本におくわけですけれども、わたくしどものかんがえではそうではない」、と吉本は批判するのである。すなわち、この自己関係づけと自己抽象づけの構造において、「個体は個体として自己に関係づけられるから」、対象(自然の一部としての自己身体、性としての他者身体、外界としての自然)を対象的に関係づけることができるのである。この人間的個体は、様々な観念的諸生産物を創出する。ところで、自己抽象付けの度合は、了解性によって測られ、了解性は時間性によって測られる。したがって、認識の了解性の度合、抽象の度合の差異は、時間化度の差異によるのである。また、知覚の拡がりや延長という自己関係づけの度合は空間化度によって測られる。そしてまた、了解性が時間性である根拠は次の点にある。「人間はさ まざまな体験や感覚のみがき方」をし、そうした時間累積の果てに「現代的な感覚や現代的な知覚作用をもつにいたった」。すなわち、原始・未開から現代までの時間の累積(歴史性)にある。したがって、古代人と現代人において、感官に映る対象は同じであっても認識の度合に差異が生じるのは、時間化の度合、時間累積の度合の差異、すなわち了解性の度合の差異によるのである。古代人が山の頂の巨大な岩石を霊的な信仰の対象として認識し、現代人はその岩石を単なる自然物であると認識する場合のその差異性の根拠は、古代から現代までの時間累積(歴史性)の度合・了解化の度合・時間化の度合の差異にあるのである。このように、「人間の意識に対象としてやってくるすべてのものは根源的には空間および時間に分割されるほかはない」。したがって、「言葉の表現もまた、表現に固有な<時間>性と<空間>性を獲て成り立っている」。

(エ)また、吉本は、『幻想としての人間』、『個体・家族・共同性としての人間』、『人間にとって思想とはなにか』、『個体・家族・共同性としての人間』で、次のように述べている――自己関係づけを個体の内部構造・意識構造においてではなく、個体と対象との関係でいえば、自己関係づけとは、「心的規範意識」であり、それは「対象にたいする関係つけの意識」、対象の受け入れの意識、対象の空間化の意識である。言い換えれば、「心的規範」とは、自己関係つけの意識の空間化とその度合のことである。また、自己抽象づけを個体の内部構造・意識構造においてではなく、個体と 対象との関係でいえば、自己抽象つけとは、「心的概念を構成する意識」、了解作用の意識、時間化の意識である。言い換えれば、「心的概念」は、自己抽象つけの意識の了解作用、時間化とその度合のことである。そして、その個体と対象とのあいだを介在するのが「言語」である。この「言語という ものを基本的に成りたたせているのは」、「心的な規範および概念」である。個体の内部構造・意識構造における心的規範は、外化(表現)されて対象化された「心的規範」・「言語における文法構造」、すなわち「言語的規範」、「文法的規範・音韻の規範・韻律の規範等の外在的な共同的規範」となる。また、心的概念は、外化(表現)されて言語表現の水準を決定する「対象化された心的概念」・「言語における実体」となる。このような仕方で、言語は、その個と類――類と歴史性との結節点で、世界を分節化する。その場合、言語によって分節化された世界は、客観的な世界そのものではなく、言語によって抽象された世界、人間化された世界、人間の非有機的身体化された世界であり、ある抽象度やある意味付けやある物語性を付与された世界である。「言語学」は一般的に、その文法的規範と概念との構造が表現された言語であると規定する。この 「表現された言語」が、「現象学でいう本質直観」に対応している。この「表現された結果としての言語学」においては、「沈黙は何も言わないこと」、<非>有意味性でしかない。その言語学は、「表現された言語というものは、それを発した人間(≪その内在的な心的構造、心的規範と心的概念≫)ときりはなすことはできない」ということを見ない。「それをきりはなすことができない問題が、文学自体のもんだいになる」ということに自覚的ではない。それは、根本的な誤謬である。何故ならば、言語過程は表出過程(心的過程)と表現との構造としてあり、言語を発語し表現した場合、必ず心的概念と心的規範の構造の表出過程(心的過程)に反作用を惹き起こすからである。この言語表現論からは「沈黙」は、心的過程、内在的な意識内部においては、言いたいことが一杯あってもその言いたいことを言葉として外へ出せない鬱積状態・心的亀裂状態にあるということを意味している。言い換えれば、内面の鬱積状態・亀裂状態としての沈黙は、心的概念と心的規範の構造である心的領域において、発語す ることを思いとどまってしまうことによる「反作用」を意味している。したがって、「沈黙」は「非有意味性ではなくて、沈黙それ自体が言語的な意味をもつ」のである。したがってまた、もし「陳腐」に 聞こえる言葉や概念があれば、それらは死語化しているからであり、表現されたその言葉の時間性と空間性が、自然時空に解体しているからである、ちょうど自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りが、その言葉と概念が、そうであるように……。

(オ)人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかないもの」である。したがって、マルクスは、『資本主義的生産に先行する諸形態』で、次のような思惟と語りをしている――「もしもロシアが世界において孤立しているとしたら、ロシアは、西ヨーロッパが原始共同社会の存在以来現状にいたるまでの長い一連の発展を経過してはじめて獲得した経済的征服を、独力でつくりあげなければならないであろう。(中略)しかし、……、ロシアは、近代の歴史的環境の中に存在し、より高い文化と時を同じくしており、資本主義的生産の支配している世界の市場と結合している。そこで、この生産様式の肯定的成果をわがものにすることによって、ロシアは、その農村共同体のいまなお前古代的である形態(≪人類史のアジア的段階における否定的側面としての閉鎖的な農耕村落共同体が育む肯定的側面としての相互扶助意識、相互扶助感情≫)を破壊しないで、それを発展させ変形することができる」、と。また、『資本論』「第2版の後書」にはこうある――「私の弁証法的方法は、その根本において、ヘーゲルの方法とちがっているのみならず、その正反対である。ヘーゲルにとっては、思惟過程が現実なるものの造物主であって、現実的なるものは、思惟過程の外的現象を成すにほかならないのである。しかも彼は、思惟過程を、理念という名称のもとに独立の主体に転化するのである。私においては、逆に、理念なるものは、人間の頭脳に転移し翻訳された物質的なるものにほかならない」、と。