6.『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(202-238頁)(その2-1)

6.「啓示の時間――想起の時間」
 先ず以て、イエス・キリストは、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(換言すれば、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)――すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であるから、「新約聖書の信仰」は、「キリストとわれわれ自身がひとつでありつつしかも区別されることの中で遂行される」。それは、「キリストご自身の現実存在の一種の延長といったものではない」。そうではなくて、それは、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」近代主義的プロテスタント主義的信仰・神学・教会の宣教とは違って、キリストが「神性を本質とするがゆえに」、「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」「キリストを信じる信仰である」。言い換えれば、それは、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの)としての「神性を本質とする」「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」イエス・キリストを「信じる信仰である」。

 「キリスト復活の四〇日(使徒行伝1・3)」――すなわち「実在の成就された時間」、「啓示そのもの」と、聖霊降臨日以降の使徒的時代(「使徒とその教会」の時代)――すなわち「想起の時間」、「啓示の状態」・「啓示されてあること」、換言すれば「啓示ないし和解の実在」そのものとしての第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とするその最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」としての第二の形態の神の言葉である聖書とは異なっている。前者は、「神性」を本質とするがゆえに「きのうも、今日も、いつまでもかわることがない」キリストのことであるが、後者は、キリストの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力――すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による存在的な必然性(「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と認識的な必然性(「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事の中において、「キリスト者の中で生き給い」、「キリスト教信仰の対象であり続けるキリスト自身のことである」。すなわち、後者は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書の証言(証し)としての「啓示ないし和解」の「概念の実在」のことである(使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」のことである)。言い換えれば、後者は、それぞれの使徒たちの宣教的成果の世代的総和であり、その時間性であり、そのようなものとして、キリスト教に固有な類と歴史性を構成しているのである。この「想起の時間」は、復活されたキリスト、「キリスト復活の40日」、「実在の成就された時間」を想起する時間のことであるが、「必然的に甦られた方」、復活されたキリストを待ち望む「待望の時間」(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を待ち望む「待望の時間」)として、「キリスト復活の40日」、「実在の成就された時間」に参与する。このように、新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。したがって、救済を「信仰の中で持つ」ことは、「約束として持つ」ことである。「われわれはわれわれの未来の存在を信じる。われわれは死の谷のさ中にあって」、「患難と試練のただ中に」あって、「永遠の生命を信じる」。「この未来性の中で、われわれは永遠の生命を持ち所有する」。この終末論的信仰における「信仰の確実性」は、「希望の確実性」である。

 新約聖書的な終末、復活されたキリストの再臨、「完成」としての「待望」におけるキリストは、「想起の対象」としての「キリスト復活の40日」、「実在の成就された時間」のことであるが、旧約聖書の中で「待望されているメシア」は新約聖書的な「想起の対象」としてのキリストのことではない。何故ならば、旧約聖書は、終末論的な待望の証言であり、「終末論的」信仰において、神の側の真実としてある「完成を望み見る」ことによって、「実在の成就された時間」(キリストの復活)、「来りつつある神の完成されたみ業」、「完成」(終末、復活されたキリストの再臨)を持ったからである。「待望の時間」である旧約聖書おける「待望」は、「きのうも、今日も、いつまでも変わることがない」「神性」を本質とするイエス・キリスの連続性の中においてある。三位一体の根本命題に即して理解すれば、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない――この意味は、「和解ないし啓示」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるということである、それは「神的な愛の力」・「和解の力」である、イエス・キリストは和解主として、起源的な第一の存在の仕方である創造主のあとに続いてその第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである、この二つの外在的な「失われない差異性」における存在の仕方である「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者、言葉の語り手、創造者≫)と言葉(≪啓示、語り手の言葉、和解者≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできないのである、しかし父と子は共に内在的に「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その内在的な存在の本質の差異性を意味しているのではなく、その外在的な存在の仕方の差異性を意味しているのである。

 洗礼者ヨハネの説教が果たした「機能」は、次の点にある――ヨハネのそれは、共観福音書によれば、第一に、「悔い改め」の説教と「近づいた裁き」の「宣べ伝え」において「旧約聖書的」であって、「預言者と見なされる」(マタイ21・26)、そして「典型的に預言者の死を遂げる」(マタイ11・3)。また、それは、第二に、「主の道をそなえるために、主の前に先立ち行く使者、呼ばわる者の声、と呼ばれている(マルコ1・2以下およびその並行記事)」。イエスはヨハネを「預言者よりも大いなる者と呼び給う(マタイ11・9)」。すなわち、「旧約聖書的意味とは全く別な意味での『証人』である」。「聖霊がイエスに降るのを目撃した証人である」ことによって、彼は、「イエスを待ち望んでいる人々の群れからぬきん出ている(ヨハネ1・32)。(中略)洗礼者ヨハネは将来を指し示す者である、『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである(ヨハネ1・15、27、30)』」。「わたしはこのかたを知らなかった(ヨハネ1・32、33)」。この洗礼者ヨハネが、「いまや実際にキリストを知っている」(「自分に固有な知覚能力に基づいてではないが」)「イエスのことを既に来たり給うた方として指し示している、『見よ、神の小羊』(ヨハネ1・29、36)」。そしてまた、それは、第三に、その「ヨハネの人格」において、預言者の「証言の対象であるキリスト」と使徒のそれとは「区別」されている。「律法ト福音トノ間ニヨハネガ立ッテイテ、仲介ノ役割ヲ果タシ、両方ニ関連ヲモッテイル(カルヴァン)」。「それであるからヨハネ」は、「旧約と新約の間に置かれている」。何故ならば、ヨハネは、「律法と福音、死と祝福、文字と霊、罪と義を宣べ伝えるからである(ルター)」。したがって、「もしも人が新約聖書……の想起の対象と旧約聖書的待望の対象とを切り離そうとするならば(中略)まずこの人物を新約聖書の証言から削除してしまわなければならないであろう」。何故ならば、「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」からである、すなわち「旧約(≪神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世(≪・時間≫)は、復活へと向かっている」からである。 

 ここで、時間とは、「独一無比な、一回的な仕方で」、「既に出来事として起こった啓示から……由来している歴史」、「神が持ち給う」「われわれのための時間」、「時間の主の時間」、「イエス・キリストの時間」、「実在の時間」、「啓示の時間」のことである。また、ここで、「神が持ち給う」「われわれのための時間」の中で「実在の成就された時間」(キリスト復活の四〇日)、「まことの現在」の以前の時間(「まことの過去」)が旧約聖書的な「キリストの誕生前ノ時間」や「キリスト降誕後ノ時間」とそのまま一致しないように(換言すれば、「まことの過去」は、キリストの十字架の死までの時間ことであるように)、その「実在の成就された時間」(「まことの過去」)は、「まことの未来」――すなわちその「後に続く時間を持っている」(キリスト復活から復活されたキリストの再臨までの聖霊の時代を持っている)し、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を持っている。

 「新約聖書的な歴史、福音記者と使徒たちの宣教の歴史が、啓示の中にその始まりを持っているということ」は、「躓きの可能性がある」ことを意味する。しかし、新約聖書は、その中で「文書化されている宗教」に、人間の「価値判断」・「嗜好の判断」に「味方」され、また「支持されることを欲してはいない」。そういう「主張もかかげていない」。新約聖書は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいた「証言として聞かれるべきことを主張している」、「想起の証言として聞かれるべきことを主張している」。「新約聖書の証人たち」は、「キリスト復活の四〇日をおぼえる想起」において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」(復活されたキリストの証人)として、「既に来た方」イエス・キリストは、「またこれから来たり給う方であること」(終末、復活されたキリストの再臨、「完成」)を語ったのである。したがって、キリストの啓示は、人間の恣意的独断的な自己意識・理性・思惟の類的機能によって「例証されようとせず」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「解釈すること」、すなわち「別の言葉で同一のことを言うことを欲する」のである。「われわれは、新約聖書の啓示主張に関しても、イエス・キリストご自身に頼るように、すなわち〔その中で〕彼が聞くことと服従の聖霊を、彼が与えようと欲するものに与え給うところの主権的行為(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」≫)に頼るように指示されているのである」。何故ならば、「福音記者たちと使徒たちはただ、イエス・キリストの言葉の僕であるにすぎない。彼らは彼らの言葉でもって、イエス・キリストにとって代わることはできない(Ⅰコリント1・10以下)」からである、「彼らは彼らの言葉でもって、イエス・キリストにとって代わることはできない」からである、「彼らの言葉の中で、イエス・キリストの啓示が真理であるということは、ただイエス・キリストご自身を通してだけ基礎づけられ、証明される」からである。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の成員のわれわれのその思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」のであるから、「最後的には祈りおよび祈りの聞き届けの問題である」、すなわち「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪祈りの≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪祈りの聞き届け≫)ということに基づいて成立している」。そうでないならば、そのキリスト教の信仰・神学・教会の宣教は、フォイエルバッハやハイデッガーが客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に揶揄・批判したキリスト教の信仰・神学・教会の宣教に過ぎないものであるだろう、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものに過ぎないだろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」だろう(『キリスト教の本質』)。 

 「新約聖書は旧約聖書と同様に、人間に対する神の自由な行為を通して基礎づけられ、人間に対する神の自由な行為から成り立っているところの神と人間の共存(≪先行する神の側からするそれであって、人間からする神との混淆・混合、神との「共働」・「共働」、神人協力ではない≫)について証ししている証言である」。新約聖書の命題の一切の出自は、先行する神の側からする「神の自由な行為」としての「神が人間となり給う」た、「言葉が肉となった」(「神性」の受肉ではなく、「言葉」の受肉である)というインマヌエルの出来事にある。すなわち、「これこそ新約聖書の秘義であるのであるが」、「神が人間と結ばれた契約(神がアブラハム、モーセ、ダビデと結ばれたその契約)」は、「これまで人間自身が決して実行しなかったこと、イスラエルも決してしなかったことを人間としてなすために、すなわち神の恵みを受けとり、神の律法を成就するために、神が人間となり給うた」という「ただそのことの中でだけ実在であり、しかもそのこと中では全面的に、決定的に実在である」――このことこそが、「神がイエス・キリスト」において、「人間として自らなし給うたことである」。したがって、その出来事において、「イエス・キリストにあって神の国が近づいたのである」。新約聖書にとっては、キリストの復活、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)こそが、「想起の対象」、「主辞」なのである。この神の側の真実としてある「実在の成就された時間」(「まことの現在」)において、「旧約聖書的な形式と問いは、その内容と答えとを得た」のである。
 
 旧約聖書は、「契約を、ただ多くの契約についての証言を通して予言しているだけである」が、新約聖書は、「ただひとつの契約」、「神の自由な、徹頭徹尾一回的な」「イエス・キリストの名」をのみ証言し証ししている。また、復活されたキリスト、「実在の成就された時間」を「想起の対象」としている。また、新約聖書は、この「まことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト……を万物の目標および終わりとして待ち望む」。復活されたキリストの再臨は、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(それ故に平和)の「完成」である。
 
 新約聖書において、「契約はキリストにあってペテロのため、ヨハネのため、パウロのため、コリントおよびローマにある教会のために、既に結ばれたのである」。したがって、新約聖書は、人間的理性や人間的欲求、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、歴史学・心理学・教育学等を媒介して恣意的独断的に対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」やその啓示へと心を向けさせようとするのではなくて、「神の自由な、徹頭徹尾一回的な」既に結ばれた唯一無比な契約へと、「ひとりの仲保者キリストへと」、「そのようにして神へと、召し、心を向けさせようとする」のである。したがってまた、新約聖書においては、「神の人」、「契約の道具」、「多種多様な役職は存在しない」のである。「福音記者と使徒たちは、せいぜいのところ間接的に、キリストの証人と呼ばれるだけである」。ただ、それらは、全く何等の「優位性」も有しないという意味において、旧約聖書の「王たち、祭司たち、預言者たちのすべての機能」は、特別な「奉仕」職という形で、「キリストの教会に移行」したのである。したがって、それら役職相互間に「優越性」の度合の差異が全くないのと同じように、それらの役職者と大多数の役職なき会員との間にも「優越性」の度合の差異性は全くないのである。すなわち、キリストの教会の役職は、「奉仕」職ではあっても「優越」職ではないのである。何故ならば、「もろもろの仲保者はもはや存在しないから」である。このような訳であるから、「もしも人が、……キリストを」、「単なるしるし、表象、単なる証人として理解するならば、旧約聖書をユダヤ教的に受けとる受けとり方の段階に逆もどり(≪復古≫)してしまうことになる」のである。したがって、バルトは、次のように言うのである――「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである限り、教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から提起される真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている(『啓示・教会・神学』)。

 新約聖書における「想起の対象の証言」は、旧約聖書的「待望証言の確認」である。新約聖書において、「神的な仕方」で、唯一無比の「仲保者として行動し給う」イエス・キリストは、「道であり、真理であり、生命である」、「イスラエルの王たちとは違って……ご自分の正しさでもって神の正しさを、ご自分の力でもって神の力を行使し給う」、「イスラエルの祭司たちと違って……罪をゆるし、神と人間の和解を造り出し給う」、「イスラエルの預言者たちと違って……主の言葉そのものを自ら語り給う、……自ら……主の言葉であり給う」。何故ならば、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリストは、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(換言すれば、完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるからである、「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」からである、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」からである、まことの神にしてまことの人間であるからである。新約聖書の「福音記者と使徒たちのうち誰も」、このイエス・キリストを、「まさにイスラエルのメシヤとして以外の仕方で理解したものはいなかった」。決して、「反ユダヤ主義的な意味」では理解しなかった。したがって、彼らにとっては、旧約聖書的な待望の対象と新約聖書的な想起の対象は「合致」していた。彼らにとって、「キリストがイスラエルによって拒否されたということが、彼こそまさに来るべき方であり、彼の(≪復活に包括された≫)十字架(≪の死、古い時間・世の死≫)こそ、そこで新しい時間(≪・世、「キリスト復活の四〇日」、「実在の成就された時間」、「まことの現在」≫)が基礎づけられるとともに、また古い時間(≪待望の時間≫)が成就された出来事(≪「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものとしての「律法の成就」・完了の出来事≫)であるということを、裏づける完全な確証であった」。したがって、彼らは、この「新約聖書的な思惟と語りの謎」に対して、「神性」を本質とするイエス・キリストは、「十字架につけられ、そして甦り給うたということ以外のほかの答えを与えることができなかった」。

6.『教会教義学 神の言葉Ⅱ/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(202-238頁)(その2-2)

 「新約聖書は旧約聖書と同様、隠れた神の啓示(≪顕現≫)についての証言である」。すなわち、新約聖書は、「全旧約聖書(≪父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事についての証言≫)によって待望された神の啓示」を、「その選ばれた民によって神の子が拒否され十字架につけられること(≪復活に包括された十字架の死≫)についての証言」である。したがって、旧約聖書的な「神の隠れ」・隠蔽は、その新約聖書的証言であるイエス・キリストの誕生・生涯・死と復活とのその全体性において「明らかになる」のである。イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。新約聖書は、キリストの復活に包括されたその十字架において、「この世の様(ローマ12・2)」――この世のもろもろの「力」と「権威」、「自然、歴史、文化の神性」性(偶像性)が「剥奪」され、「墓に葬り」去られ、「克服された」ことを証言している。したがって、キリストの復活に包括された死と復活の出来事は、「古き世」・時間の終わりと「新しい世」・時間(「神の支配」)のはじまりを意味している。われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した信仰の類比を通して、「敗北者であるわれわれ人間の失われた非本来的な古い時間」は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間としての成就された時間」(「キリスト復活の四〇日」、「実在の成就された時間」)における「神の勝利の行為」によって包括され止揚され「克服されてそこにある」ことを承認し確認することができる。また、その勝利の行為は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為である」ことを承認し確認することができる、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済および平和は、終末、復活されたキリストの再臨、「完成」を待たなければならないことを承認し確認することができる。

 「新約聖書を理解するためには」、このイエス・キリストの啓示の場所において、「ヨブと伝道者、そして詩篇の作者の問題」、「神に相対している人間の苦難の問題、を知らなければならない」。したがって、このイエス・キリストの啓示の場所においては、われわれが、「古き世(≪・時間≫)に対して戦う際の武具」は、「人道主義や、寛容さや、……文化謳歌主義」や、最後的にはそれぞれの私利・私意に基づく利己主義的な対立・争いを惹起させることになる人間的理性や人間的寛容さに依拠した党派的多元主義や、「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合う」ことや、「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制」や、国家を第一義とする国家社会主義や、アメリカにおけるキリスト教も加担した新保守主義と結びついた小さな政府を目指す新自由主義等々ではなくて、「エペソ人への手紙六章にしるされている純粋に霊的な武具」である。言い換えれば、それは、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、救済そのものであり、それ故に平和そのものである、「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着するということである。したがって、このイエス・キリストの啓示の場所においては、「旧約聖書の中に出てくる苦しむものたちの疑い、嘆き、抗弁、祈願」は、「あたかもそのようなものが全く存在していなかったかのように」、「パウロにおいてもヨハネにおいても、そのほかどの新約聖書の書物の中ででも、沈黙してしまう」し、「苦しむ預言者や神の僕の〔あの一連の〕継続はあり得ない」し、「あの救いを求める叫び、あの抗議、あの懐疑はもはやあり得ない」のである。これらのことは、新約聖書における旧約聖書からの「変化」である。「キリストの弟子たちが苦しまなければならないということ、また主の教会も苦しまなければならないということ、そのことはただここで、キリストとの関連の中で、重要なのであって、それだけでは取るに足りないこと」なのである。したがって、例外的なステパノの殉教についても、『証人としてのキリスト者』に即して言えば、その本質は、その「行為」にあるのではなくて、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、救済そのものであり、それ故に平和そのものである、「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着するその「言葉」(純粋な教えとしてのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えの言葉)にあるのであって(それ故に、その時そのところにおけるその信仰的な死を、不可避的なそれとして受け入れて行くという点にある)、それ故に新約聖書の「通則」は、「秘義に満ちた仕方で働いている規律」における「パウロの殉教もペテロの殉教もヨハネの殉教も述べられていないという事実の中にある」のである、まさに「ただイエス・キリストの名だけ」に対する純粋に信仰的な死だけがあるのである。

 それに対して、ボンヘッファーのヒトラー暗殺計画における死は、信仰的な死と政治的な死との混在としてあった。何故ならば、言葉と行為の二元論の立場に立脚したボンヘッファーは、彼の『説教と牧会』および関田寛雄『「断片」の神学』によれば、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」論に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」に重心を置いていたから、そしてましてや権力の本質を実体として誤解し考えていたから、彼におけるそのイエスへの従順な服従行為の重心は、「ただイエス・キリストの名だけ」という点には置かれずに、事実的なヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争(政治的実践)に置かれてしまったからである、それ故に彼の死は、一方で観念の共同性を本質とする政治的な死を死んだと言うことができるからである。それに対して、バルトの場合は、「ただイエス・キリストの名だけ」という在り方にある――すなわち、それが社会的な事柄であれ政治的な事柄であれ、「かつて語った(≪純粋な教えとしてのキリストの福音の≫)説教(≪言葉≫)の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから(≪必然的に≫)実践(≪行為≫)に、決断に、行動になって行った」という在り方にある、「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは(≪私がまさにこのことを語った言葉は≫)、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが(≪その語ったことが、その語った言葉が、必然的に≫)呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」という在り方にある(『カール・バルトの生涯』)。実際的に、そういう仕方で、あくまでもその相対的評価においてであるが、自由および直接民主制と武装永世中立の「スイスをナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」という政治的実践に向かったのである(『バルトとの対話』)。「宗教、法、国家という幻想性と幻想的な共同性」、「この幻想性の起源でありながら、この幻想性と対立する市民社会の構造としての経済的カテゴリー」、「これらの考察の根源にある彼自身の<自然>哲学」を三位一体とした「マルクスの完結した体系は、当時も(そしていまも)よく理解されていなかったが、理論(≪言葉≫)がかれを実践(≪行為≫)のほうへ必然的につれていくようにできあがっていた」(吉本隆明『カール・マルクス』)。いずれにしても、「……殉教列伝は、旧約聖書的な伝統、いや、ユダヤ会堂的な伝統の継承であって、決して新約聖書的な伝統を継承しているわけではない」のである。

 「苦難の問題に対する新約聖書の解答」は、「ひとりのものがすべてのもののために死んだということである」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。このことから、旧約聖書的な神の「隠れ」・隠蔽は、新約聖書においても、「罪と刑罰という二重の実在から成り立っている」。すなわち、「キリストの十字架の中で原始キリスト教会は、神に対して犯した人間の罪の秘義と罪深い人間に対し神の刑罰が下される秘義を見て取った」のである。キリストの十字架(死)において、すなわち「ゴルゴタの丘の上で直接」、「ユダヤ人と異邦人が力を合わせて」「神に対して罪が犯され、その同じ場所で神が自ら罪の刑罰を身に受け給う」ことによって、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、それ故に不信仰・無神性・真実の罪が明らかにされ、「罪深い人間に対する告訴は徹底的となり、全体に及ぶものとなる」、「内的必然性を得てくる」。言い換えれば、「罪――刑罰の問題」は、「決してイスラエルの特殊問題ではなかった」ということが明らかにされる。また、「イスラエルの民は罪人の集まりでしかない来るべき教会のための代理人でしかなかったことが明らかに」される。神は、「すべての人をあわれむために」、「すべての人を不従順のなかに閉じ込めたのである(ローマ11・32)」。新約聖書においては、キリストの「受難、苦しみ」・「十字架」・「死」は、「キリストの甦りの実在」・「復活日」・「キリストの復活」という包括的観点において思惟され語られている――「甦えりの出来事は、キリストの出来事の……第二の段階ではなく、……第二の次元(ヨハネ1・14)」の顕現化である。甦り・キリストの復活は、「イスラエルによって拒否され、ピラトによって十字架につけられた方の死人の中からの甦えりの出来事のこと」であり、神の隠れ(隠蔽)としての「肉となった方、ご自分の身を低くされた方、十字架につけられた方が、啓示(≪顕現≫)される出来事である」。「甦りの出来事」・復活のキリストという包括的観点において、「十字架の言葉」(「キリストの受難」)は、「啓示の力」・「神の隠れの力」である。新約聖書における神の隠れ(隠蔽)、キリストの受難は、「キリストはすべての苦しみに打ち勝って甦えり給うた、われわれは皆そのことを喜ぶ、キリストはわれわれの慰めとなり給うた」という出来事を通して、「くまなく照らし出され、語り出し、(≪復活に包括された≫)まことの『十字架の言葉』(Ⅰコリント1・18)となったのである」。

 アウグスティヌスやハイデッガーにおいては、「自分で時間を創造することによって時間を持つ」。しかし、彼らの時間概念は、聖書においては「『失われた』時間」、「否定された時間」、「否定的判決の時間」であり、「実在の時間」である「イエス・キリストにおける啓示の時間」から「『攻撃』された時間」である。それに対して、「イエス・キリストの時間」、「時間の主の時間」は、問題に満ちた「非本来的な失われたわれわれの時間」の中で、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)である。ここに、その「まことの現在」を基軸(中心)とした「まことの過去と未来が存在する」し、「神の言葉」がある。したがって、アウグスティヌスやハイデッガーには、イエス・キリストにおける啓示の時間、時間そのもの、実在の時間についての認識が欠けている。「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。この啓示の時間は、神の側の真実としてあるから、「啓示そのものによって教えられなければその一部分でさえ認識することはできない」のである。したがって、われわれは、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる啓示認識・啓示信仰において、イエス・キリストの出来事を「神の啓示として理解する時初めて」、「イエス・キリストの現臨の出来事であるイエス・キリストにおける啓示の時間」は、「われわれだけでわれわれの時間を持っていた時に生起したわれわれのための神の時間である」ことを承認し確認することができるのである。「旧約聖書的な待望の時間」と「新約聖書的な想起の時間」との間の「実在の成就された時間」とは、「イエスがご自分〔の生きていること〕をお示しになった」復活の「あの四〇日(使徒行伝一・三)」のことである。「新約聖書の証人たち」、使徒たちは、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの生涯」と「キリストの死」を想起する時、「甦えりの力」・「啓示の力」として、「光を得」たのである。彼らは、預言者たちとは違って、「甦えりの証人」なのである。

 「新約聖書の証言を聞く人間」は、「キリストが古い世(≪・時間≫)との戦いを実際に戦い給うたのであり、人はキリストと共に信仰の中で既に新しい世(≪・時間≫)に生きているのである」から、「この世(≪・時間≫)はキリストの死の中で過ぎ去った世(≪・時間≫)であり、それの神々や偶像はもはや何の力も持っていないということを信じ、知るように召されている」のである。ここに、この世(≪・時間≫)に対する戦いの根拠・原理・原動力があるのである。

 こうしたバルトの思惟と語りは、新約聖書の「キリスト論を絶望的な仕方で……哲学に解消してしまう」「仮現論」(自然神学)への根本的包括的な原理的な批判を構成している。また、バルトのそれは、新約聖書をただ単なる「一個の……伝承でしかないものにしてしまうエビオン主義」(自然神学)への根本的包括的な原理的な批判を構成している。新約聖書は、「キリストはまことに、肉体をもって甦り給い、そのような方として彼の弟子たちに現われ、彼らと語り、彼らの間で行動し給うたという甦えりの歴史」・「実在の成就された時間」・復活のキリストを「想起」している証言である――この「新約聖書は旧約聖書と同様、……神は人間に対して、来たりつつある神として現在的であり給う啓示(≪「通則」としての、復活されたキリストの再臨、「完成」、終末の「待望」という終末論的な啓示≫)……についての証言である」。しかし、その「通則」には「一つの偉大な例外」があって、その「例外こそが(≪その≫)通則を確証しているのである」、それは、「終末論的に語られていない」ところの「四福音書が述べている甦りの歴史、ならびにⅠコリント一五章の中でパウロが述べている甦りの歴史」である。新約聖書におけるその「甦りの歴史」、甦りの出来事の証言は、終末論的にではなく、「時間の中での神の永遠的な現在を語っている」。このキリストの復活の出来事は、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍においては、また宗教的形態が科学<主義>へと移行した近代(近代の宗教的形態は、科学<主義>である)においては特に、「人が信じないようなことだと言う以外」にないことである。マルコ16・8の三人の女たちも、「人には何も言わなかった。恐ろしかったからである」。したがって、この「甦りの歴史」、甦りの出来事は、「それが述べられている際の具体性の中でそのまま、聞かれ信じられることができる……だけである」。すなわち、それは、「説明ではなく」、あの「啓示と信仰の出来事」に基づく素直な「告白」・「証し」・「宣べ伝え」として存在している。詳しく言えば、それは、キリストの啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力――すなわち、神のその都度の自由な恵みの決断による、存在的な必然性(「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と認識的な必然性(「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした存在的なラチオ性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)と認識的なラチオ性(聖霊と同一ではないところの聖霊によって更新された人間の理性性)という総体的構造に基づく素直な「告白」・「証し」・「宣べ伝え」として存在している。新約聖書において、この「甦りの歴史」、甦りの出来事、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)は、「決して過去となることができない」(「決して過ぎ去り行くことに服していない存在」)、「またいかなる未来をも必要としていない時間、……神の……純粋な現在の時間」(「いかなる生成も必要としない存在」)である。しかし、その「時間の中での神の永遠的な現在」は、「きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」イエス・キリストの連続性において、神は罪深きわれわれ人間と「はじめの時から終わりの時まで、昨日も今日もいつまでも共にい給う」というインマヌエルそのものであるイエス・キリストの連続性において、それは、終末論的な「待望」の対象でもある、復活されたキリストの再臨、「完成」、終末の「待望」でもある。新約聖書の証言における、この「時間の中での神の永遠的な現在」、「甦えりの歴史」、甦りの出来事、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)は、「独一無比」な、「それこそがすべてのそのほかのことを基礎づけ、結びつけている想起の対象である」。

 このように、神の啓示は、「甦えりの歴史」、甦りの出来事、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)と、「甦えりの使信の可能性」である。したがって、「甦えりの歴史」、甦りの出来事、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)において「来たり給うたメシアを思い出す想起についての証言である新約聖書の証言」は、「来りつつあるキリストを待ち望む待望の証言」、復活されたキリストの再臨、「完成」、終末を待望する証言でもある。このような訳で、新約聖書の証言における「時間の中での神の永遠的な現在」、「復活日」(キリスト復活の「あの四十日の内容」)、「甦えりの歴史」、甦りの出来事、「実在の成就された時間」に対する「想起」は、「すべてのそのほかの想起と同じ」ような、「過ぎ去った出来事を思い起こす想起」・「回想」では全くないのである。その「時間に対する想起は、同時にまた、この同じ時間の待望(≪復活されたキリストの再臨の、「完成」の、終末の待望・「希望」≫)でなければならない」。この「甦えりの歴史」、甦りの出来事、復活されたキリスト、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)を「想起」することにおいて、新約聖書は、「徹頭徹尾終末論的に方向づけられ、終末論的に意図された使信」である――「その純粋な現在(「まことの現在」)の中でのこの神がそのまま、また来りつつある神として啓示され、信じられ、知られるのである」。ここにおいて、復活されたキリスト、「実在の成就された時間」(「まことの現在」)を想起することは、その生涯、十字架・死と共に、「旧約聖書」の時間を考えることでもあるのである。すなわち、ここにおいて、「なぜキリストの教会が自分のことを、直ちに会堂の正当な相続人として認識しなければならなかったということ……を特別によく理解する」。そして、旧約聖書的待望と預言がキリストによって成就されたという認識と確認において、旧約聖書を「正典」としたキリストの教会は、「あの自明性をもって待望と預言の書物を自分のものとして読み、主張しなければならなかった」。「われわれは、アブラハムトと違って、現ワサレ、現在的デアルキリスト(≪復活されたキリスト、「実在の成就された時間」、「まことの現在」≫)を知っている。しかもそのキリストをわれわれはアブラハムとともにまた(≪復活されたキリストの再臨、「完成」、終末を≫)待ち望んでいる」。